抑止力 - 4
実験は概ね成功だったとみて良いだろう。
長期的な実験が可能な環境を利用して、外で相手にしている顧客とは少々異なる用法で服用させていたが、その効果は絶大だった。皮下注射のように少量の摂取で一時的な発現率の爆発的増加が見て取れるわけではないものの、日々一定量を摂取することで発現率を恒常的に増幅させておくことができる。経過観察をしている限り、統道は薬剤の影響が多少強めに出てしまう傾向があるようだが、これは単に個々人の耐性に拠るところだろう。摂取量を調整すればいいだけの話。
「それじゃあいきましょうか」
昼休みを知らせる鐘の音を聞き届けて、薬師は教室を出る。
これまでのように弁当を持参することを忘れない。
統道の病状では病院食が出ないということで、これは好都合だった。
すぐに実験は再開させると決めていた。
今日からは更に細かいデータを取得するために、投薬量を少なくしている。定期的に摂取させることで効果が望めるのなら、実行しない手はない。
多少目を付けられていようが、こんなところで立ち止まるわけにはいかないのだから。
病室へ向かうと、統道は窓を開放して、外の景色を眺めていた。窓の外では一羽の烏が桜の木に止まり、その鋭利な
「よぉ、明日香。わざわざすまねぇな」
全王の声は凪のように穏やかだった。
拘束具を嵌められていたのか、掛け布団の外に放り出された両腕の手首には微かにだが痣が浮かんでいた。
「調子はどう?」
「まぁまぁ、かな。点滴のおかげで少しは空腹が紛れちゃいるが、これってプラシーボ効果なんだろうな……、なんてどうでもいいことを考える程度には落ち着いている」
「そう……。黒乃くんに負けた悔しさでもう少し荒れているかと思っていたのだけれど、そうでもないみたいね」
「いまの俺じゃあ相手になりやしないって痛感したよ。あいつは化物だ。俺の攻撃が一度だってかすりやしない。まるで過去に何度も『ゼウス』を相手をしたことがあるような、そんな動きだった。なるほど確かに、踏んできた場数ってのが違うんだろうさ」
端から勝てる相手じゃなかったってことだよ、と諦念したように統道が笑う。
「まぁいいさ。ここからまた、じっくりやっていけばいい」
「……そうね」
「明日香が色々と食事に気を遣ってくれているおかげでさ、神格開放率が伸びたような気がしてるんだよ。だから、これからもよろしくな」
「…………え、えぇ」
普段のような気の強さが根刮ぎ失われたような統道の言葉に、薬師は戸惑ってしまう。
身の程を味わってしまった、その反動か。あるいは、発現助長剤を数日服用していなかった影響か。どこか物憂げにも見える彼の表情をじっと見ていることができず、視線を外したまま、統道のために用意した手製の弁当を鞄から取り出す。
「病院食じゃないって聞いたときは驚いたわ。普通、入院中くらいは出てくるものだと思っていたのだけれど」
「ああ……それは、そうなんだけど。ほら、病院の飯は不味いってよく言うじゃんか。頼み込んでみたら意外と持ち込みもオッケーだっていうもんだったからよ。どうやら俺は検査入院みたいだから許される、とかなんとか」
「ふぅん……、そうだったの」
そんな特例があるうるのだろうかと不思議に思うも、薬師には確かめるすべもない。
統道の手によって黒色の小包が紐解かれ、巾着袋から現れる二段重ねの弁当箱は衝撃で開封されないようにバンドで締め付けられている。上段に詰まっているのは肉を中心としたおかず、下段には海苔が敷かれた白米。
そしてその狭間には、粒子状にした無味無臭の発現助長剤。
「……そういや明日香は昼飯どうするつもりなんだ?」
「私はダイエット中だから、軽めにサンドイッチなんかで済ますつもり。この時間帯は込んでいるから、おやつの時間帯にね」
「久しぶりに、一緒に食事ができると楽しみにしていたんだけどな」
「機会なんていくらでもあるでしょ? 全王が退院したら、いくらでも一緒に食べてあげるから」
「…………そう、か」
流石に様子がおかしい。
まるで別人のような、凪のような気の静けさがいっそ気持ち悪いくらいだ。
「あなた、やっぱり調子が戻っていないんじゃないの? さっきから全然元気がないみたいだけれど」
「……なぁ、入口の近くに冷蔵庫があるだろ。そこから飲み物を取ってきてくれないか? 弁当を食うなら、水も飲みたい」
「…………っ」
取り合ってくれないのはいつものことだが、それにしたって今日は特に顕著だ。やはり目覚めた瞬間、自分が側にいてくれなかったことに腹を立てているのかもしれない。それならそうと口にしてくれればいいものを。
統道に聞こえない声量でぶつくさと一人ごちながら冷蔵庫を開け、冷やしてあったペットボトルの水を手に取り、全王の隣へと戻ろうとして、
「なに、やってるの……」
咄嗟に動くことができなかった。
「なにって――」
統道が、弁当箱を巾着袋に戻し、窓の外へと投棄しようと振りかぶっていた。
「みりゃあ分かるだろ」
ひゅうっ、と薬師が息を呑んだ。
部屋と室外の境界線を華麗に飛び越えていく巾着袋が蒼天へと真っ直ぐに伸びる桜の幹へ激突する寸前、止まっていた烏が見事に袋の端を嘴に引っかけると、まるで真下に佇む誰かへバトンを渡すように、そのまま下を向いて袋を落としてしまった。
やるべきことをすべてやり終えた、いっそ清々とした晴れやかな表情を浮かべる統道が続ける。
「俺を病院送りにしやがった野郎から色々と教えてもらった。薬を盛った野郎がどっかにいるはずだってな」
「…………っ」
「思い返せば、発現率が劇的に改善したのは明日香と付き合い始めてからだった」
そう語る統道の顔は寂しげで。
「俺はどうしようもねぇクズ野郎だ。道化もいいところだ。大事な幼馴染みが心配してくれていることにも気付かねぇで、平然とその気持ちを踏みにじってよ」
自嘲する声があった。
「まぁ……そんな救いようのねぇ俺だけど、どういうわけか、まだ見捨てちゃくれねぇ奴がいるもんでな。だったら、道化なら道化らしく、そいつの戯れ言にも耳を貸してやろうかって気になった」
「…………っ」
「でも、俺はやっぱり明日香のことも信じたいんだわ。だから、俺は待ってるぞ」
「……………………ほんと、馬鹿な人」
吐き捨てるような声を置き去りにして。
薬師は最愛の被験者に目もくれず部屋を後にすると、病室のある三階から一階へ降り、エントランスを出て裏庭へと回る。
「よぉ、薬師」
いた。ついさっきまで統道の手元にあった弁当を携えて。
「……やってくれたわね、黒乃くん」
「おいおいそんな剣幕はやめてくれよ。日陰で寝そべってただけだってのによ」
「全王に変な入れ知恵をしたのはあなたね」
凍てつくような声音がおどけた調子を糾弾する。
「……ははっ。随分と嫌われたもんだ。俺が統道を一方的にぼこぼこにしてやったのが想定外だったか? それとも統道の変わりようが
「それは私が彼のために作った弁当よ。返して」
「そいつはできねぇ相談だ。これは鑑識に回すことになってる。箱がほしけりゃ代わりを買ってやるし、飯が食いてぇなら俺が驕ってやるよ」
「…………くっ」
歯噛みするあまり、ごぎっ、と口の裏側が歪な音を立てた。
してやられた。統道の様子がおかしかったのは、すべてこの男のせい。
余計な情報を刷り込ませ、芽生えた疑心を誑かしたのは。
眼前で卑屈に
「こいつを調べりゃ十中八九、俺が探し求めていたもんが混入されていると踏んでいるんだが……。もしここで自白してくれるっつーなら、罪が軽くなるかもしれないぜ?」
「…………それは参ったわね。黒乃くんから強引に取り返せるほど強いわけじゃないし、潔く降参するしかないじゃない」
「……だってよ、
『しかと聞き届けた。彼女の処分については通例通り、神格省で執り行う』
腕時計型デバイスから、どこまでも底冷えした音声のみが響く。
神格省の犬であることを包み隠すことすら
『部下がそちらに向かうまで少し時間が掛かる。シュージンくんが見張っていてくれよ』
「了解。居場所は俺のGPS端末を頼りにしてくれ」
デバイスの通話を閉じると、狩神は溜息を一つ零した。
「……さて。俺も根掘り葉掘り問い質したいことはあるんだが……、そういうのは上司に任せることにした。ただ、どーしても話をしたいって奴がいる」
「一体誰かしら?」
「……私」
不意に、背後に現れた気配に薬師が振り向く。
その姿を認めて、張り詰めていた緊張の糸をほぐす。
「ああ。あなたか」
「…………」
「いまさらどの立場で私の前に現れたのかしら。全王を取られたこと? 薬を盛ったこと? 自分自身の不甲斐なさの捌け口? それとも、嫉妬?」
「…………ッ」
「あなたもしかして、自分が全王のことをきちんと気に掛けていればこんな事態にはならなかった、なんて傲慢を抱いているのかしら? だとしたら――ッ」
用意していた罵詈雑言は続かなかった。
それこそ唐突に、頬を引っ張たかれたのだ。
「勘違いを、しないで」
薬師の全身が総毛立った。
目と鼻の先で手を振り上げたまま侮蔑の眼差しを向けてくる州欧の底冷える声音は、場を凍り付かせるには充分だった。
「私のことは、汚く罵ってもいい。馬鹿にしてもいい。そうされるだけの、罪があると、思っているから」
「だったらなんのつもりよ、これはっ」
「あなたは、最低のことをした。全王は、薬に頼って強くなりたかったわけじゃ、ない!」
「州欧さんが言えたことなのかしら、それ」
「……っ、あなたは……っ、あなた自身の行動が、これまでの全王の努力を踏みにじっているものだって、どうしてわからないのっ!」
「……そんなつもりはないわ。私はただ、彼のためを想って――」
「全王の弱みにつけ込んで、全王の努力と尊厳を踏みにじって……、なのに、この期に及んで、諦め悪く、自分自身の利益と尊厳のために、自分のやっていることを、偽善だと、そう振る舞っているのが、私はなによりも赦せないっ!」
「――っ」
感極まった州欧が、糾弾とともにもう一度、薬師の頬をしたたかに打った。
――この、人でなし。
勢いあまって尻餅をつく犯罪者に差し伸べる手はないと、去り際に
許しを請うことも、懺悔をすることも、言い分に耳を貸してやるような気持ちすら、砂粒の一欠片分もないのだと。
慈愛と博愛の片鱗だって、あなたなんかにくれてやれるものはないのだと。
そう告げるかのように遠ざかる背中はどこまでも強く、凛として。
「……気分はどうだい、犯罪者」
端から傍観していた『抑止力』の問いに、
「たとえこの件がなかったとしても、あの子とは一生、友達にならなかったろうな」
犯罪者は諦念の混じった溜め息を吐いてみせたのだった。
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