美学 - 6


 神宮高校の敷地内、参宮橋駅付近に設立された多目的棟。

 家庭科や化学全般、文芸の科目で使われるはなれの一つ。

 地下音楽ホールや大図書館、放送室などの雑多な施設や教室が詰め込まれた中にあるその一室は、放課後ともなれば人っ子一人寄りつかない。


 夕暮れも間近、そんな閑寂に満ちた廊下に一人。

 狩神は寝起き眼で化学準備室をノックする。


「開いてるわ」

「そいつはどうも」


 教室に踏み入れると、化学室特有の薬品の匂いに混じり、香り立つ珈琲の濃厚さが嗅覚へと押し寄せた。

 リノリウムの床も新年度に備えて清掃したてなのか、化学的な潔癖さが窺い知れる。


 薬師は白衣を召したまま、手元に広げた文庫本に目を落としていた。


 その傍らでは、インスタントの珈琲とマグカップが静かに存在感を示している。


「一杯、どう?」

「……へんな薬品、入ってないだろうな」

「安心して。なんて、私が言うのもおかしな話だと思うけれど。それにどうせ、頭の回る黒乃くんのことだし、盗聴器の一つや二つ、持ち込んでいるのでしょう? 自分の身になにかあれば誰かがすぐに駆けつけられるように」

「どうやら、随分と信頼がないらしい」

「あるわけないでしょ。日がな一日、授業中寝てるだけの学生がどうして他人から全幅の信頼を勝ち得てると思ってるわけ?」

「はは、そいつは確かに」


 おどけるように、飄々とした素振りで言って薄ら笑いを浮かべる狩神。アルコールランプの弱々しい火でビーカーに入った水を湧かす部屋の主は、視線をあげることなく、狩神を見向きもせずに訥々とつとつと続ける。


「まぁ、それに加えて私が人一倍、そういうことに過敏なだけなのかもしれないわね。こればっかりは流石に私の人柄ってこともあるけど……、とにかく私に用のある人間なんて大概はロクなやつじゃないっって相場が決まってるの。黒乃くんはとくにNGね。ダミー用の盗聴器をひょいっとポケットから出して、自分は潔白で怪しいもんじゃないって進んで言い出しそうなタイプ」

「そいつはまた随分と俺を買ってるなぁ」


 実際、潜入任務や聞き取り任務でそういう諜報をしたことはあったが。


「どうせ忍ばせていようがいまいが、最悪を想定して喋っているなら関係ないように思うがな。録音をしたところで意味がない」


「ま、そうやってしらを切るあたりが益々……といいたいところだけれど。なんにせよ、腹を割るってことができないのは、歯がゆいところかもしれないわね。少なくとも、あれこれ詮索をしにきた黒乃くんにとっては無益だもの」


(なかなか、どうして、こいつは用心深いな……)


 事実、狩神は胸ポケットにボールペン型の盗聴器を忍ばせている。

 繋がる先は朱鷺峰であり、彼女は目下、部室で掲示板を監視しながらこの会話にも聞き耳を立てている状況だ。


「無益だなんて思っちゃいないさ。美人とゆったり珈琲を啜りながら会話するなんて中々できるもんじゃないしよ」

「物を知りすぎていると、どうしても色んなことに疑念を抱いてしまうのは難点よね。人間はこういう部分が特にだめ。安全に囲まれて育ってきたせいでもあるのでしょうけど、生物的に欠点が多すぎるから、意識的にそうしていないと危機が迫ったときに対処ができないという悲しい性を背負わざるを得ないもの」

「俺に対する嫌みなのかそれは? まるで俺が危機そのものみたいな言いようだよなそれ?」

「……いいえ。人間一般論よ。自分以外、愛する者以外は誰もが敵。みんなそうでしょう?」

「そいつは流石にねぇだろ!?」


 そんな過敏症の人間嫌いに罹患しているのは、狩神の眼前で表情の乏しい面差しをした薬師くらいだろう。


「こんな陰気な場所に誘うあたり、その人間一般よりはよほど神経質だろうよ、薬師は」

「そうね。どういうわけか、誰もが私のことをそう評するのよね。黒乃くんですらそう感じるというなら確かにその通りなのかもしれないけれど。――珈琲は無糖でいいわよね。どのみち砂糖もミルクもないから選択肢なんてものはないのだけれど」

「無党派だ。ありがたくいただくよ」


 黒色の天板に用意された白色のマグカップを受け取り、薬師が先に口をつけるのを確認してから、狩神も注がれた珈琲を嗜む。


 ……どうやら、変な薬の類いは入っていないらしい。


「それで、話ってのは、全王のこと?」

「……察しが良くて助かる」


 背もたれのない椅子に腰掛け、黒々とした水面を見つめながら続ける。


「知り合ったのはいつだ? あと、あいつが俺を襲ってきた原因はなんだ?」

「後半は直接本人に聞いたら?」

「できるわけがあるかよ。問い質す前にもう一回襲われかねないじゃねぇか」

「……冗談よ」

「真顔でそんなことを言われてもな」


 珈琲を啜りながら苦い顔を浮かべる狩神。

 薬師が小さく息を吐く。


「……さして面白い馴れ初めではないけれど。入学式のとき、隣にいたのが彼だったの。あなたが壇上で馬鹿なことを言うまで、それはそれは会話に花が咲いたのよ? おかげで翌日には告白までされたもの」

「……付き合っている、ということか?」

「ええ。彼女らしく、毎日お弁当まで用意してあげてるくらいよ。それにもう今週だけで二回も新宿でデートしたし」


 驚きのあまり、返す言葉がない。

 まさか、のっけからのろけ話をされるとは。


「こいつはあれか。リア充死すべし、というやつか」

「古びたスラングをぶつけられても困るわ。年頃の恋愛なんて、そう重たい理由があるわけじゃないし。むしろ気軽に付き合えるのは特権だと思わない? お互いに気が合いそうならそれでいいかなって、そんなフィーリングだけでどうにでもなっちゃうし」

「そいつができねぇから灰色の青春を送ってる奴だって沢山いるんだぞ」


 恋愛市場で既に勝ち組になっている薬師を嫉視する狩神が続ける。


「にしても、突拍子もなく俺を襲うような蛮人をよく好きになったもんだ」

「黒乃くんが知らないだけで、彼にはちゃんとした理由があったみたいだし、それは私も理解できないところではなかったから、制止するつもりもなかったのよ」

「ちなみにその理由は?」

「本気を出すのは弱者の証拠とか、抜かせ、クソ野郎――ですって」

「はぁー…………」


 狩神は頭を抱えた。


「あら? 頭痛? 苦いのは苦手だった?」


 からかうように鈴を転がした声音が余計に頭痛に響く。


「……いや、気にするな」


 もはやこれ以上、この話題に意味はない。

 そう割り切って、話を切り替える。


「統道が悩みを抱えているって話は聞いたことあるか?」

「ええ。知ってるわ。神格発現率が思うように上昇しなくなった、どうすればいいのか分からない、みたいなことよね。それをどうして黒乃くんが?」

「州欧から聞いた。どうやら統道とは幼馴染みらしくてな」

「あら、そうなの。それは初耳ね。まぁ、あそこまで嫌悪していたのなら、語りたくもなかった、というところかしら」


(やっぱりか……)


 統道の態度を見ていれば、付き合いはじめの彼女に異性の幼馴染みの話をしないのは当然だろう。ましてそれがコンプレックスならば、尚更に。


 だが、そうであれば見過ごせない疑問がある。


「俺を襲ってきたときの統道は、そんな悩みを抱えるようには見えなかった。むしろ調子がいいと叫んでいたほどだったしな。無意識下で神格を開放できるくらいなんだから州欧の心配は的外れもいいところだ。一体全体どういうことなのか、そのあたりの事情を知りたいんだよ、俺は」 

「だったら、そうなんじゃないかしら。神格開放率なんて、ある日突然リミッターが外れるようなものだし。その反動でしばらく上手に制御できなくなるのだって、誰しも経験があるものでしょ?」


 確かに、成長期は神格開放率が突拍子もなく上昇する。


 成長期にぐんと身長が伸びて骨や筋肉が一時的に軋みを上げるように、発現率が一気に上昇するとコントロールが出来ないあまり、神格が常時発現する状態に陥ることがある。


「けどな……だとしたらますますおかしいことがある」


 狩神が人指し指を立てた。


「神格を呼び起こす声音すら必要としない無意識での神格開放は、そもそもが、神格発現率を限界突破して初めて会得できるもんだ。んなもん俺だって会得できてねぇ、超人の領域っつーわけだ。だからこそ、発現率に悩んでいたとは、とてもじゃないが思えない。ましてたった数日で何十%も上がるなんてことは聞いたことすらない症状だ。人間の身体が耐えられないからな」

「科学の発展や人間の進化なんてもの、ある日突然起こっても不思議じゃないのよ? 統道くんがその奇跡に選ばれたって考えれば――」

「俺が白羽取りとしたとき、焦点があってなかった。眼球が血走って、至近距離にいる俺と一度だって視線が合ったことはなかった。目の敵にしてるくせにな」


 薬師の声を遮って、狩神が核心を突く。


「…………なにが言いたいのかしら」



「神格発現率を上げるのは、なにもただ成長に身を任せるだけが方法じゃねぇってことだよ」


 狩神が黒色の天板にマグカップを置く。

 とん、と響いた音は予想よりも硬く、尖った。


「ヤクをやってるんじゃないのか、あいつ」


「っ!? ――あなたっ!」


 白衣を纏う科学者の、端正に整えられた眉目が歪む。


「決定的な客観的証拠もなしにそう断定するのはどうなのかしら。掲示板で流行っているものを取って付けたように持ち出すのなら、私もただ黙っているわけにはいかないわ。彼氏なのだから、侮辱が根拠のないものなら平手打ちの一発や二発じゃ済まないわよ?」

「あるさ。この目が確かにみたからな」

「そんなもの客観的な根拠になるわけないじゃないっ」


 目を何度も瞬きながら、薬師が声を張り上げる。


「主観的な証拠なんて証明でもなんでもない。言いがかりの域を出ないわ。違法薬物に手を染めているというのなら、全王の身辺捜査でもやってみればいいじゃない。私は彼がそんなものを持ち歩いたり服用している所をみたことがないけれど」

「だろうよ。俺も、統道が馬鹿正直に持ち歩いてるだなんて思っちゃいない。どっかに隠してあるか、あるいは――」


「他の誰かが投与しているか、とでも言いたいわけ?」


 狩神の言葉を攫った薬師の声は止まらない。


「もしそんなことをしている奴がいるのなら、私が許さない。大事な人を穢して、傷つけるだなんて、他の誰よりも、この私が黙っていられるはずがないじゃない!」


 だん、と空になったマグカップを叩きつけられた天板が鈍い音を立てた。


「……こうして疑っちゃいるが、やつのことが気がかりなんだよ」

「そんなに彼のことが心配なら、直接言えばいいじゃない」

「俺が言って聞く耳を持つような奴じゃないってことは薬師が一番良く理解してるはずだけどな……、まぁ、とりあえず忠告はした・・・・・からな?」

「わざわざありがとう。けれど心配には及ばないわ。私は全王を信じてるもの。そういう愚行に手を染めてなんかいないって」

「…………そうかい」


 彼氏が悪行に身を浸しているなど、他人の口から聞きたくない心理は分からないでもない。だが、仮に全王が発現助長剤を服用していたとなれば、『抑止力』として黙って見過ごすわけにもいかない。


「自分の同級生が豚小屋に詰め込まれるだなんて、気持ちのいいもんじゃないからな」

「それは同意ね。まして彼氏が刑務所のお世話になるだなんて、冗談じゃない」

「……まぁ、それが本心だってんなら、せいぜい用心するこったな。いまの統道は明らかに常軌を逸してる。いつ人を殺してもおかしくないほどには、な」


 これで用件は終わりだとばかりに狩神は席を立つ。


「ご馳走さん。悪かったな、あまり気分のいい話じゃなくて」


 そう言って準備室を出る間際、「待って」と呼び止められる。


「ん?」

「……黒乃くん。あなた、何者なの」


 探るような声は、その距離感をあえて測るような慎重極まるもので。


「意図が掴みかねるな?」


 自然と、狩神もこの高校にあっては相応しくない、余所余所しい声音になる。


「全王のあれは、並の神格保有者じゃ対処しきれない攻撃だったと思ってる。まして高校生ともなれば、あんな神速を前にして、避ける素振りさえ見せずに両手で受け止めるなんて咄嗟にできることじゃない。普通なら身体が反射的に回避するように動くはずだもの」

「……入学式で口にしたとおりだよ。踏んできた死線の場数が違うってな」

「あなた、馴れすぎているわ。ああいう殺意に」

「…………そういう野郎の一人、いてもおかしくないのがこの日本だぜ?」


 身元がばれる心配はない。『抑止力』であることを知っているのは学長ただ一人。黒乃だって身分だけは細心の注意を払っている。念には念を払うために、面倒でも正規の窓口で受験して入学手続きをしたのだ。


「お互いこれ以上の詮索はやめようじゃないか。統道のあれを並の高校生が止められるものじゃない、なんて言えるだけ、そっちもそっちで相当な場所に足を踏み込んでいるのを自白しているようなもんだぞ」


 薬師に背を向けたまま、狩神はニヒルに笑う。

「……それもそうね。お互い、益にならないことはなしにしましょうか。引き留めて悪かったわね」

「いや。問題ないさ。それじゃあな」


※※※


 場の雰囲気が変わらぬうちに、逃げ出すようにして準備室を後にすると、そのまま一息に建物の外へと駆け出た。馴れない空気に息の詰まる場所でのやりとりは、想像以上に心労が大きい。


『いやはや、ひやりとしたねぇ。大一番、お疲れさま』


 外の空気を吸い込んで安堵する狩神に向けられた労いの声は朱鷺峰のものだ。


『とりあえず、収穫はあったと考えていいんだろうね』

「……そう、っすね」


 呼吸を落ち着かせて、狩神は頷く。


「クロ……だろうな。間違いなく。いまのところは勘の域を出ないけど」

『でも、きみの勘なら、精度は高いんじゃないか?』

「証拠集めと外堀を埋めて炙り出すしかなさそうだが……しくったなぁ」

『警戒はされたろうね。確実に』

「うぉぉぉ……、やっぱりこういうのは俺得意じゃねぇんだよぉ……」


 ずばり指摘され、狩神はうめいた。

 橙と紺碧の混ざり合う逢魔おうまが時。

 長く伸びる影法師かげぼうしは叫びを題材にした有名な絵画をかたどる。


「……とりあえず作戦を練るしかないか」

『頑張ってくれ。こっちもこっちでやることはやらないといけないし、手を貸してあげる余裕は流石になさそうだ』


 やんわりと先手を打たれ、狩神はいよいよ項垂れるしかない。


『とにもかくにも、今日は色々とお疲れ。あとで今日の調査結果をまとめたレポートを送っておくから、そっちにも目を通しておいてくれ』

「ええ。分かりました。ありがとうございます」

『いつでも実力を発揮できるように、夕食だけはしっかり摂って備えるんだよ。きみの身体――もとい神格は、尋常じゃないエネルギーを消費するんだから』

「……ええ、まぁ、はい」


 どうやらここ数日を昼飯を菓子パンだけで乗り切っていることは見抜かれているらしい。


『それじゃあね』

「お疲れした」


 馴れないことをしたせいか普段よりも疲労の滲んだ声で、狩神は朱鷺峰に別れを告げてデバイスを切った。


「ああ、くそ。だるい。とりあえず今日は寝るか」


 一日くらいは怠惰に身を任せても、許されるだろう。なにせ、今日から週末だ。やるべきことはあるけれど、面倒なことは明日の自分に任せよう。


 ――そう決め込んで、狩神は寮へと戻る。




 その怠惰を何日も引きずることなど、このときの彼はまだ知りようもない。

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