美学 - 4
職員室に呼び出されはしたものの、被害者側であった狩神は複数の教員と二、三のやりとりを終えてすぐに開放された。念のため医務室に向かうよう指示を受けたが、偶然居合わせた保健医からは異常なしと判断が下され、午後の授業が始まって間もなくの頃にはお払い箱となっていた。
現場に居合わせた州欧と不破も教師から事情聴取を受けているのだが、そちらはどういう事情かいまだに続いているらしく、職員室から出る間際に教師に滔々とかつ明瞭に受け答えする不破の
加害者である統道は別室でこってり絞られることになる――話の流れで教員から聞いた。十日程度の登校停止処分というのが相場らしい。
「さて……どうしようかね」
授業を受けるために教室へ戻るつもりは毛頭なかった。その気になれば朱鷺峰が探りを入れた掲示板の様子を確かめることはできるだろうが……やはり、気分じゃない。
行くあてもなく、潰す時間をどうするべきか考えているうちに辿り着いた学内の中庭。つかの間の憩いを楽しむ目的で緑林のなかを適度に切り開いて設けられた天蓋付きの足湯やベンチは、授業中ともあって貸し切り状態だ。
桜の花びらで化粧されたベンチの一脚に腰を下ろして、手癖のようになってしまっている腕時計型のデバイスを弄くり、なんとはなしに起動していの一番、立ち上がった複数のモニターとそこに移る夥しい数の投稿コメントを一瞥。
「うげ…………やっぱあとにするか、これ」
辟易するように大仰な溜息を零してはすぐに閉じた。情報量に眩暈を催し、狩神はその背中を今時珍しい木製の背もたれに預ける。
どうせ朱鷺峰が全てを把握し、分析をしているはずだ。
それを聞けば済む話である。
日差しが差し込むように切り開かれただけあって、春の陽光は眠気を誘うには十分だった。覆い被さる睡魔に委ね意識を落とそうと、今度こそベンチに体重を預けるのと同時、
「黒乃、くん?」
声があった。
意識を閉ざすのに邪魔な光を遮るこの手をさきほど治してくれた、華奢な声音。
「模範生がどうしてこんなところに」
「事情聴取が終わったあと、保健医に、呼び出されて。それで、保健室に行ってたの」
保健医との話も終わって、教室へ戻る途中だったのだろう。廊下の窓からこの一帯はよく見えるのだ。
「神格を見せてくれ、って。黒乃くんの手を治した、その方法を教えてくれ、って言われて。頼み込まれちゃって、ね」
「ああ」
それは悪いことをした、と続ける狩神に、州欧は微笑みながら首を振った。
「気にしないで。巻き込まれたなんて、思って、ないから」
「だが、それでも、悪いことをしたと思う気持ちだけは。まぁ、お互い様かもしれないけど」
気にしだすと、止まらない。申し訳なさというのはそういう、果てのない感情だ。
「それよりも、神格なんて教えて大丈夫だったのか?」
ありとあらゆる生徒の個人情報を集める学校も、神格だけはその対象外。
秘匿性が高いからというり理由にとどまらず、軍事利用や人倫に悖る人体実験、悪質な研究開発や神格を犯罪に利用した、これまでの半世紀の積み重ねの結果だ。
忘れてはならない歴史を知ってか知らずか、州欧が続ける。
「いいの。どうせ、ばれたところで、これは、戦闘向きではないし。言ったでしょ? 治癒は、珍しいから」
「……神格といいながら、その実、神ではないにも関わらずそれと同等視された神話の登場人物ってあたりか。教師が困惑したのは」
「……神格看破が得意だって、言っていたけれど。なるほど。あの一瞬で、見抜いたの」
淡泊な声に驚嘆や畏敬はない。誰にも引けを取らないと豪語する以上、できて当然だと想像していた、その通りだったことを改めて確認するような。
「治癒系というだけで思い浮かぶ神格は絞られるが……水系となれば話は別だ。海神ポセイドンないしネプチューン、同じく海神セイレーン、ウンディーネ、あるいは神格が劣る北露の精霊ヴォジャノーイやインド神話の体系に組み込まれたアプサラスと、まぁその数はさして多くはない。けれど、そのどれも、致命的なまでに治癒とは相性がない」
ゆえに、狩神の脳内データベースがたたき出すのは、神格と同等の扱いを受けるに至ったそれ――例えば、神の寵愛を受けた王家の者。
神の救いを受けた者。神から見放され、無様な最後を遂げるような、
神話世界で勧善懲悪の題材として扱われる存在。そして、死語に神の座へと引き揚げられた傑物。
そこまで想像を巡らせ、辿り着くのは、ただの一人。
最高神ゼウスの寵愛を受けた王女。
その名をこの世界にあって、日本の遙か彼方に位置する
「……教師が興味を持つのも当然だろうな。宝くじで三回連続、一等賞を引き当てるような確率だからな、それは」
神格を発現する者の大半は神話の始めから神として登場する神を宿すことが殆どである。怪物や精霊を発現することは稀であり、さらに、神話の始めは神でなかったものを引き当てるとなれば、雷帝の神罰をまともに二度、三度と浴びるに等しい希有なものだ。
その珍しさもあいまって、ある程度の調べがつけば、神格はすぐに割れてしまうのだ。
「だから、別にばれたところで気にすることは、ないかなって」
「理解はできるが……」
「それよりさ。教室、戻らないの?」
これ以上話題になりやくないのか、州欧は半ば強引に会話を主題を切り替える。
「……どうせ教師の話なんか面白くもない。出席を取られるなら話は別だが、流石に今日くらいはそれがあっても許されるだろ。流血沙汰の被害者なのにけろっとした顔で教室に戻ってもな」
「それは、そうかも」
「他人の心配する暇があったら、自分の心配したらどうなんだ。現場に居合わせただけだってのに、被害者本人より血相が悪いのはどういうこった」
「…………それ、は」
そのまま保健室で休んでいればよかったものを、と思うが口にはしない。
逡巡する州欧は曖昧に笑ってみせるが、客観的にはどうみても重いものを抱えているようにしか見えない。重しの原因は明らかなのだからいまさら言い淀むこともないだろうと、狩神は溜息を漏らしながらベンチの背もたれを軽く叩いた。
「人間、話せば少しは楽になるってこともあるもんだぜ。幸か不幸か、あのクソ野郎と半ば関わっちまってる身だ。俺も今後の自衛のために統道(やつ)のことは少し知っておきたい。教室に戻るのが億劫だってんなら、時間潰しがてらに聞いてやるぜ?」
「…………ありがとう」
観念したように州欧がゆっくりと腰掛ける。
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