美学 - 1

 大前提として、『抑止力』である狩神の知識は高等教育を満了している大人たちのそれをはるかに上回り、博士課程を修了している大人と比較しても劣らない。


 仕事柄、神格じんかくに関する知識や世界各国で栄枯盛衰を極める宗教や神話についてはほぼ把握しており、戦闘力も同年代では他の追随を許さず、神格省が抱える戦闘員のなかでも折り紙付きである。


 そんな彼らにとって、中等教育で教授される情報など、ドがつく基礎中の基礎もいいところである。


 詰まる話。

「…………だりぃ」


 狩神は教室の最後列で頬杖をつきながら船を漕いでいた。

 そして先程、夢の終わりに到着してうつつへと戻ってきたところだった。


 どれほど寝ていただろう。気付けば昼が過ぎ、下校も間近の時間になっていた。

 どうやらあとは担任のホームルームを待つのみらしい。


 一限目から教師陣への喧嘩の大安売りとばかりに爆睡を決め込んでいたものの、大人たちが叱責しっせきしてくる気配はまるでなく、ついてこないなら好きにしろ、と言わんばかりに睡眠学習を推奨してきた。


 どうやら徹底的な自主性が求められるらしいが、既に博士相当の知識を有する狩神には置いてけぼりにされたところで焦る要素はない。


 ちなみにだが。

 初日から爆睡していたのは狩神ただ一人だけであり、根は真面目な新入生たちは行儀のいい子供のように一心不乱に教師の板書をノートに写し、先人の教えへ熱心に耳を傾けていたのだから、学年首席でありながら態度と素行については最悪もいいところの不良である。



「……そろそろ時間か」


 杓子定規なホームルームが終わり、クラスメイトのほとんどが特別クラスの見学とやらで散っていく中、狩神は一人、はなれにある部室棟へと向かう。


 知念ほむらに告げた通り、授業が終わり次第、新聞部でインタビューを受けることとなっているのだ。


 正門とは正反対に位置する代々木八幡はちまん駅の目と鼻の先に建設されたアーティスティックなビルのエントランスへと辿り着き、その異様を見上げた。


「大層立派な部室棟なこった」


 一体どれだけの税金と助成金がつぎ込まれているのか狩神には想像もつかない。


 全面ガラス張りという、神宮高校にあって唯一意識的に景観破壊をモチーフにしているであろう建物のエントランスをくぐり、電光案内板を操作して新聞部へと電話をかける。


『はいはい、どちら様かな?』


 応答したのは明るい声音の女生徒だ。


「……狩神だ。インタビューの予定が入ってるだろ」

『おお、来たねルーキー。まさか首輪とリードもなしに行儀よくそっちからやってきてもらえるとは思わなかったよ』

「俺をなんだと思ってるんだ……」

『国家が飼ってるかわいい子犬、かな』

「……そいつはなんとも不名誉だな。事実であることは否定できないが」

『はは。まぁそんな場所で軽口もなんだし、どうぞ中へ。そこのエレベーターに乗れば自動で身体を運んでくれるからね』


 すぐさまモニターの側にあった自動ドアが開き、数人乗れば満員になってしまう小型の箱がやってきた。押しボタンは一切ないあたり、登録済みの場所までノンストップであろうことがうかがえた。


 水平方向と垂直方向に揺られ、まるで地図に記録もつけずピラミッドに潜り込みすぎた結果現在位置を把握できなくなるような移動を繰り返した頃、ようやく鉄扉のドアが開いた。狩神の眼前に現れたのは和式の玄関。

 靴脱ぎ場には丁寧にスリッパが一組置かれ、二畳にも満たない空間の先は趣のある襖で仕切られている。


「こっちに入ってきてくれないかな。粗茶の準備で手が離せなくってね」


 招かれ、狩神は一歩先の様子を疑り深く観察するように忍び足で部屋へと入る。


「…………なんつう、贅沢な」


 軽く四十畳はあるだろうか。教室と同等程度のスペースにはたった一人、女生徒が硝子テーブルに菓子やら紅茶やらを慌ただしい様子で準備している所だった。


 明るい焦げ茶の髪色と耳やら鼻やらに光る銀色のピアスが彼女の人となりを端的に、かつ的確に表していた。カッターシャツにダメージジーンズ姿というカジュアルな服装はその細身を一層際立たせる。


「おもてなしの準備が整っていなくて申し訳ないね」

「俺も手伝いますよ」

「そんな、客人に手伝わせるだなんてとんでもない」

「……いや、是非に手伝います。だって、こういうの苦手でしょ、朱鷺峰ときみねさん」

「む、むむぅ……確かにそうだが……」


 朱鷺峰と呼ばれた部室の主は口を曲げる。


「苦手なことにリソース割く暇なんてないんだから、無理しちゃ駄目っすよ」

「なんかそういう余裕ぶった態度、気に食わないなぁ。可愛げがない」


 ぶすくれながらソファーに腰を掛けた朱鷺峰は苦手な作業を狩神へ引き継ぎ、閉じてあったノートパソコンを立ち上げる。自作のそれは瞬く間に立ち上がり、朱鷺峰が操作をせずともソフトウェアがひとりでに画面上へ展開されていく。


 神格を応用したものだ。端末に挿入されたドングル型のデバイスが彼女の神格に最適化され、脳神経に反応して自動的に作動する仕掛けである。


 思考するだけで文字を書き、ソフトを立ち上げ、音楽を呼び出す。パソコンに搭載された機能を常に思考と同期させることができるのは朱鷺峰の神格がなせる業。


「それにしても驚いた。まさかあの朱鷺峰さんがこの学校にいるとは」


 朱鷺峰ときみね伝情てんせい


 神宮高校三年の異端児にして神格省御用達の情報屋。

 神格を保有する犯罪者の取締や逃亡犯の追跡協力は勿論のこと、各国情勢や経済、株式市場や投資関連、文化や宗教、戦争や飢餓――ありとあらゆる情報を取り扱い、依頼者の要望に敵う代物を確実に提供する、安心と信頼を被った神格保有者。


 法秤や知念が懇意にしていることもあり、狩神も何度かその名を耳にしたことがあった。けれど実際にこうして狩神が対面するのは初めてである。


「まさか、なんて台詞せりふはお互い様だと思うけれどねぇ」


 おどけるように朱鷺峰が笑う。


「神格省御用達の『抑止力』が新入生とは恐れ入る。しかも潜入捜査でも短期入学でもなく、一般学生としてだなんてね。ボクもいよいよ悪さができなくなって困った困った。アウトローな情報収集が売りだってのに、これじゃあねぇ」

「お互いwin-winである限りは下手な真似しませんよ」

「……いやはや、なんとも上手い言葉だね。ひとまず物騒な話はやめにしよう。ここは学校だ。外で会うときのような堅苦しい感じは抜きにして交流を深めようじゃないか。……ん、イギリスで買ってきた紅茶は上品な甘みがあっていいものだね」


 狩神がティーカップへ丁寧に煎れたオレンジティーを啜った朱鷺峰が唸る。

 包装紙の表記が全て英字であることから、どうやら本当に英国で調達してきた土産物のようだ。


「稼げる人はあちこち旅行できていいっすね」

「嫌みはやめてよねぇ。それは仕事がてら空港の免税店に駆け込んで仕入れてきたものだから勘違いしないように。思い入れはないから好きに飲み干してくれて構わないよ」

「そういうことすか。にしても大変っすね、仕事も」

「好きでやっているからいいんだよ。親父の跡継ぎなだけだしね。幸か不幸か相性抜群の神格だったってだけのことだし」


 世界で最も読まれる月刊誌『Time Peak』の編集長にしてただ一人の編集者は、恨み節を吐きつつも、抑揚のない声でそう口にする。


「高校三年生にして一生遊んで暮らせるだけは稼いでしまったし、そろそろ雑誌業も趣味にしてしまいたいところなんだよね。月刊誌とか正味身体が持ちそうにないし、季刊誌でもいいかなぁってね」


 朱鷺峰は、実父から引き継いだ仕事をすでに一人で回している。父親は既に老後を考えても十分裕福に暮らせるだけの金を稼ぎきり、それは伝情も同様だった。


 続けているのはまさしく趣味であり、nobles obligeを忠実に守り続けているというわけである。


 仕事の傍らで高校に通っているという境遇は、狩神にも少し通じる所だ。

 妙な親近感を覚えながら狩神は部屋の中を見渡す。


 一人で使うには贅沢に過ぎる部屋は存外質素だった。窓際の観葉植物に壁面に飾り付けられた数枚の写真、カタログラックに本棚、そして来客応対用の椅子とデスク。その程度しか置かれていない。


「趣味って……この新聞部だって趣味でしょ。一人なんすよね、いまも」

「部員なんて入れても足手纏いだし」

「……そうすか」


 こうも即答されれば狩神もそう切り返す他なかった。

 素人がなにを言ったところでプロフェッショナルの気持ちは微動だにしないことは重々承知している。


「さて、雑談もこの程度にして、早速インタビューを始めようか。まずは首席での入学おめでとう。この学校はどうだい? 気に入った?」

「……ぼちぼちかな。授業は退屈だけど」

「そりゃあきみ、入試で満点だったって話だもんね。学力なら博士相当だって聞いたよ。つうかそれ、通ってる意味あるのって話だけど……」

「そいつはオフレコでお願いします。理由は、あるにはありますけど明かせないんで」

「分かってる分かってる。そういえば昨日の模擬戦、ボクも見たよ。中々にえげつないことをするもんだね」

「あれでも結構手加減したつもりなんですけどね。別段、俺が強いってわけじゃないと思います」

「戦場軍師と不破楯奈。あの二人は一年生のなかでも中々実力があるけれど、きみは彼らを寄せ付けることもなく圧勝。格の違いを見せつけるには十分なパフォーマンスだったとボクはみてる。そこで、ずばり聞きたい。自分が他人と明確に違うのはどういった所だと思う?」

「……なかなか難しい質問っすね。要素は色々あると思いますけど……」


 狩神は口元に手を当てて考え込む。


 圧倒的な知識量と神格の使用頻度は比べるまでもない。死と隣り合わせの実践を重ねることで培ってきた胆力と度胸も狩神の専売特許。けれど、それを強さと口にするわけにはいかない。なにせ『抑止力』であることは秘匿事項だ。


 ややあって、狩神はぼそりと呟く。


「…………見極める力、かな」

「……ふむ。それはつまり、神格を見るということかい?」

「神格看破と言い換えてもいいかもしれない」


 新核保有者との戦闘で必須となる力の一つが、相手の神格を看破する力である。


 神格の発現率を高めることで発揮できる力は大きく異なってくる。

 発現率によって扱える武具や権能が変化する一方、同等の発現率であれば扱える力の程度は同等であることもまた事実。


 よって神格を看破し、その発現率を見極めることは、戦況を意のままにできることにも繋がってくる。

 こればかりは神格の依るところではなく、実戦経験の積み重ねがものをいう、そういう類いの能力だ。


 なればこそ、数多の犯罪者を相手にしてきた狩神は、他の同級生と比べてしまえばその経験値が突出していることは言うまでもない。


「とにかく俺はまず、相手の神格を見抜くことから始める。すべてはそこから始まり、そこに尽きると言っても過言じゃ無い。看破さえできれば、弱点が浮き彫りになる。よほどのことがない限り、数多の神格保有者は弱点を克服できず、突かれればそれは致命傷になるのは自明だ。まして相手が高校生なら造作もない」

「つまり昨日の模擬戦は、戦場くんと不破さんの弱点を突いたということかい?」

「……戦場とは真正面からやり合った。ただ、看破する前に戦闘が終わった、というほうが正しい。不破は……まぁ、あれは不慮の事故だった。もうちょっとやりあっていれば、違う展開もあったろう」

「なるほど、なるほど……そういうことかい」


 発言の意図を確かめるように朱鷺峰が疑り深い眼差しを狩神に向けた。

 

 ――それはつまり、看破した、ということか。


 狩神は小さく頷くだけで、それ以上を口にしなかった。

 不破との約束を反故にするつもりは毛頭ない。


 まして、その本人にとっては最も重要な情報を、なんの見返りもなく他人に提供するような人物だとインタビュアーに誤解されることは避けなければならない。


 それに。

 己の胸に秘匿しておくべき事項を面白おかしく語るような趣味もない。


「…………分かった。これ以上は追求しないよ」


 その所作だけで朱鷺峰も理解をしたのか、耳たぶにぶら下がったピアスを弄くりながら視線をパソコンのモニターへと移す。


「とにもかくにも相手の力量や神格を見抜ければ勝てると。随分と大きな口を叩くねぇ」

「少なくとも同級生に負ける気はしない」

「大層な自信がどこから湧いてくるのかにも興味が尽きないけど、紙面の関係でこれまた次の機会に……、と。もう一つ質問いいかな?」

「口にできることであればなんでも」

「座右の銘は?」

「強いて言うなら、『本気は出さない』かな」

「…………ははっ、はははははははははははははははははははははははははははは!」


 腹を抱えて大仰に笑う朱鷺峰。傍らの原稿には(抱腹絶倒ほうふくぜっとう)という文字が綴られていく。


「いやはやまったく大したもんだな! さっきの煽り文句といい、きみはなんだ、扇動家でもやっているのか? それともなんだ、もとからそういう性分なのかな?」

「そんなつもりはないっすけどね……。ただ、いまこの段階で、俺と対等に渡り合える奴はいません。これは断言します」

「そりゃあそうだろうさ。そんな神格保持者がいれば、神格省が……もとい、ここの学長が黙っちゃいないよ」


 狩神と同等であるとはすなわち『抑止力』を打ち負かす存在であるということでもある。


「いけない、脱線してしまったな……。しかし、その……本気マジなのかい? 本気を出さないのが座右の銘ってのは」

「ええ、至極真面目ですよ。そもそも、本気なんてものを出すのは弱い証拠だ。出してしまったら、それが通じなかったときは絶望するしかなくなる。打つ手がなくなる。だから絶対に本気は出さない。出すような場面に遭遇してはいけない。そいつは自分の死を覚悟したときか、引くに引けなくなった状況だけにしないと、命がいくつあっても足りなくなりますからね」

「……それじゃあ、今まで本気を出したことはなかったわけかい?」

「ありますよ。一度だけ。ただ、苦い思い出しかないんで」


 思い出したくもない過去が頭を過り、狩神は顔を歪める。


「どうやら詮索をしないほうがよさそうだ。読者が求める話にはなりそうにもない」

「……とにかく、本気なんて出してもダサいだけだ」

「いいコメントをありがとう。いずれ黒乃くんが本気を出さないといけない相手が出てくるといいね」

「……確かにそいつは楽しみです。この俺に全力を出させるなんて野郎がいたら大したもんだ」

「ひえー、すごい悪役っぽいコメントじゃん。それいただき!」

「減るもんじゃないし、ご自由にどうぞ」


 狩神がそう言い終えるのと、朱鷺峰がパソコンを閉じるのはほぼ同時。自動速記と記事の推敲すいこうはとうに終えたらしく、ご満悦の笑みを浮かべて冷めた紅茶を啜る。


「色々と根掘り葉掘り聞きたいところだけど、紙面が埋まっちゃいそうだったから、また今度ね」

「まだやるんすか、これ」

「そりゃあ当然。世を忍ぶ仮の姿こうこうせいをしている『抑止力』にインタビューなんてそうそうできるもんじゃないんだから。キミはもう少し自分が貴重な存在であることを自覚したほうがいいぞ。正直、昨日の入学式で吹っ掛けたときは他人事ながら顔が青ざめたよ。万一のことがあったら取返しがつかなくなるんだからね」


 煽ってやれとの指令こそ、他ならぬ学長からの直々の指示だったことは、やはり秘匿にすべきなのだろうと改めて思う狩神。


「自分がこの世に数人といない希有な存在だってことくらいは重々承知してるつもりですが……」

「そのくせ本気を出すのは弱者の証だとかダサいとか今時流行らないとか青いこと言っちゃうし、ちっとも信用ないんだよなぁ……。腕の一本や二本、現代医学だったらどうとでもできちゃうけど、人間の身体なんだからね。そこは弁えなよ。あんだけ吹っ掛けたんだから学校でいつ後ろから刺されても文句は言えない状況なんだし」

「へいへい」

「……先輩の忠告くらい表向きだけでも真面目に耳を傾けるもんだぞ」


(そいつができてりゃ高校にぶち込まれることもなかったのかもしれないな……)

 などと一人勝手に得心する狩神。


「あ、そうだ忘れるところだった。インタビューついでに一つ頼みたいことがあるんですけど」

「おや、なんだい藪から棒に。中間テストの過去問が欲しいなら有償だよ?」

「いや、そうじゃなく……って、有償とかえげつないな!?」

「決まってるじゃないか。その情報で赤点追試を免れるのだから相応の対価を請求できるのは当然のこと。もっとも、黒乃くんには必要ない代物だと思っていたけれど……」

「そっすね。俺が頼みたいのはそれじゃなくって、情報掲載依頼なんすよね」

「……ほう」


 椅子の背もたれにゆったりと体を預けていた朱鷺峰が体を起こした。


「なんだい、そいつは」

「発現助長剤のことで探りを入れたいんですよ、この学校内に。神格省で追ってる元凶がいるかもしれなくて」

「……………………ふむ」


 数秒の沈黙を置いて。

 自動筆記を止めて、奇抜な服装の記者は渋面を浮かべたまま、ふぅ、と息を吐く。


「そいつはまた……物騒な話だね」


 物騒だと明快に口にしたのは、それが学校の七不思議でもなければ巷に広く蔓延る噂などの類いでもなく、神格省と絡めて発現助長剤の名が出てきたからだった。


 依頼とは名ばかりの、れっきとした業務委託。『抑止力』を介して神格省が直々に情報屋へ卸してきた命令に等しい。


「記事にしてあげてもいいけれど、理由くらいは正直に聞かせてもらってもいいかな?」

「お安い御用だ。けど、外部には漏らさないでほしい」


 言って、狩神は左腕に巻かれたデバイスを立ち上げ、淀みない操作で空間に浮かび上がるモニターに文字データを投影する。


「こいつは今朝、法秤さんからもらったもんだ。俺は目下、発現助長剤撲滅のために動いてる。マフィアが絡んでるっつー噂もあるんだが、ここ数ヶ月の活動では末端の使用者しか捕まえられなかった。それが今日になって、神格省の連中が珍しくも製造元と内通してる使用者を捕まえたらしくてな」

「ほう。かれら、ようやくそれらしい仕事をしたわけかい」


 朱鷺峰が感心したように声を漏らした。


「そいつの口から出てきた情報によると、製造元は高校生らしくてな。そういうわけで、学長が心配していた。もしかしたら、この神宮高校に、ってな」

「…………ああ、そいつは良くない。うん。大変によろしくない事態だね。鼠が紛れ込んだなんでもんじゃない。末期性のがんが排水溝を伝って潜ってきたような、そんな感じだ。なんにせよ依頼事項はしかと了解した。となれば、捕縛網なりトラバサミなりをは巧妙に仕掛けるべきだね。公に新聞でばらまくようなものに潜り込ませても意味がない」

「それはつまり……、掲載はしてもらえないってことですか。そいつは残念だ」


 明らかに気落ちする狩神に、朱鷺峰は、いやいや、と首を振る。


「了解したと言ったろう。よくよく理解してほしいんだが、情報にはそれぞれ性質ってのがある。後ろめたいことはアンダーグラウンドに潜むものだ。どれだけ日向に仕掛けたところで引っ掛かりようもない」

「じゃあ、どうすりゃいいんすか」

「流石のきみも知っているだろう――学校掲示板。通称、裏サイトって場所を」

「……っ!」


 狩神が目を見開く。


「朱鷺峰さんに新聞をお願いするがてら、平行してやるつもりでした」

「だろうと思った。だから制したんだよ」


 このとき初めて、朱鷺峰の声に険が混じる。


「下手を打っちゃいけない。計算なしで愚直に聞いてみて回ったところで、見え透いた罠に引っ掛かるような間抜けはいないからね。無闇に探れば、仮に潜伏していた場合は確実に取り逃がす。こいつが神格省からの仕事だってんなら、ボクが一役買ってでるさ」


 確かに、炙り出すのであればプロに任せるに越したことはない。

 だが、問題が一つ。


「……俺、払える金なんかないっすよ」


 申し訳なさそうに切り出した狩神に、これまで顔を強張らせていた朱鷺峰がふっと頬を緩めた。


「心配することはない。請求はきちんと元請けにたてるから。この額を学生に請求するなんて法外なヤクザならいざ知らず、このボクがやるわけにはいかないからね……、ざっと、手付金を五割で、こんなもんかな」


 そう言いながら手元にあったペンで朱鷺峰が掌に書き記した額は、数十年前であれば中古自動車が一台購入できるほどで。


「……ほんとえげつねぇな」


 頬を引き攣らせながら狩神は二度、三度とそこに並ぶゼロを数える。


「やるならやるでしっかり考えないといけないし、こういうのはノウハウがあるからこそ値段もそれなりにできるってもんなんだよ。安価で売り叩いては情報資産に申し訳がたたない。さて……こうとなれば早速仕事に取りかからないといけないか。善は急げって言うしね」

「それじゃあ、俺は経過を法秤さんに伝えますんで」

「はいはい。それはそっちでやっといて頂戴。あとでどうするかは連絡するから」


 朱鷺峰はそう告げると、まるで狩神がその場にいることを忘却してしまったかのようにてパソコンをたたき始めた。念仏のように延々と意味の通らない単語を呟き始める。


 彼女が自力で現実世界に浮上してくるまで誰にも引き揚げることのできない思考の深層に潜ってしまった――所謂仕事モードに入った朱鷺峰に一瞥をくれて、狩神は部室をあとにする。


「とりあえず俺は朱鷺峰さんからの仕事を待てばいいんだな」


 寮に戻る間に法秤へメールを打つ。

 すぐさま戻ってきた返信に、狩神は思わず苦笑するしかなかった。


――そんなやすやすと発注しないで!


「……追加予算でどうにかしろよ」

 

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