27 2018年、夏

私がいくら涙を流しても新幹線はこの体を故郷まで運び続けた。

携帯を壊してしまったから気を紛らわせるものが何もない。

ユウキの母から貰ったメモ書きや景色をただぼんやり眺めたり、途中隣に座った人の迷惑にならないよう涙を見せないようにしてみたり、そうこうしているうちに泣き疲れてウトウトと微睡んで過ごした。

眠りに落ちかけたところでユウキの優しい声を瞬間的に思い出してパッと目が覚める。

ワァワァ声を上げて泣きたいのを堪えて、窓の方に顔を背けながら唇を噛んで声を押し殺した。

なんで私たちは出会えたんだろう。

運命だったと言うのなら、奇跡をもう一度起こして欲しかった。

悲しみと後悔と寂しさは涙になって、そのうちに僅かな怒りを含んで、故郷のあの田舎街が近づく度に恐れが沸き起こる。

これからどうしよう。ユウキがいない世界で私はどうなるのだろう。

田園や山並への懐かしさとは裏腹に、母の顔とメモ書きが頭の中でぐるぐると巡り、涙は冷えて乾いた。

殺されるかもしれない。

今度こそ私が死んでしまうかもしれない。

ユウキの瞳。温度、指先。逃げようと言った声。

あのまま逃げてしまえば良かった。

後悔にいつまでも振り回されては、もう全て終わったんだと思い出す。

ユウキは今頃どうしているだろう。

流石に事務所から帰って来ただろう。私がいないことを知って、なんて思っただろう。


何度目かのアナウンスが聞き慣れた地名を告げる。

あと二つか三つ先。

どうかユウキにはオーディションを受けて欲しい。

舞台の上であの瞳を輝かせて、皆の記憶に残って欲しい。

それでいい。全て終わったことなのだ。

窓の向こうには東京とは違う景色が何処までも広がる。

鈍色のビルの群れも、幾重にもうねる道路も、ひしめき合う人や車もいない。

様々な緑色と、何処までも遮られることなく続く青い空。

東京が寂しい街なら、この景色はきっと虚無だ。

ユウキが私を探してくれたら、メッセージを読んで引き裂かれるような思いに包まれていたら……少しでも、いや、私と同じくらい後悔と愛しさと、悲しみを感じていてはくれないだろうか。

これでよかったと前を向くまで、しばらくの立ち止まる時間がどうかユウキにもありますように。

最後まで自分勝手でごめんね。

ユウキの美しい瞳が夢幻になる。


故郷の駅に着いた時、肌を掠める暑さの違いに現実を見た。

香りも景色も何もかもが懐かしく、長い夢から覚めた気持ちであった。

見知った土地への安心感が込み上げる。

これまでずっと張り詰めていた何かが解けていくのが自分でもわかった。

それは夜行バスから降り立った瞬間から続いていたもの。

私は結局、この場所から動けないのかもしれない。

遠慮なしにこちらをジロジロ見ては目を背ける大人を無視して歩いた。


帰ってからのことはあまり思い出したくはない。

簡単にまとめれば、母は私をこれでもかと殴り罵倒し、東京で買った服を全てハサミで切り刻んだ。

当分外を出歩けないよう、顔を集中的に殴ってやったんだと後に妹に話していた。

私はそれだけのことをやったんだと受け入れていた。

むしろ抵抗する気力がなかったのだ。

何処に行って、何をしていたかしつこく問われたが絶対に話さなかった。

ユウキの母がくれたメモ書きは、結局役には立ちそうになかったから、服だったものたちと一緒にゴミに出した。

携帯もなく、外にも行けないのに連絡なんて出来やしない。

希望はあの街に置いて来たのだからいいんだと自分に言い聞かせた。

家事と宿題をして何処にも行かず過ごし、夜はユウキのことを考えていた。

寂しさに泣くこともあった。

しかし徐々に今頃どうしているだろう、オーディションはどうなったのだろうと冷静に考えることが増えた。

私は顔の痣が引かないまま、登校日を迎えた。


友達には「転んだ」と嘘をついた。

殴られたとなればユウキのことも話す必要があったし、一から話すことが煩わしかった。

それと、あの街のことを口にしてしまえば全部消えてなくなってしまうんじゃないかと思えてならなかったのだ。

馬鹿げた妄想だった。

もう会えないのだから消えようが忘れようが構わないことなのに、私はどうしても話すことが出来なかった。


学校が始まってすぐに生理が来た。

経験したことがない酷い痛みと出血は、服を切り刻まれたことよりもショックだった。

妊娠してもそれでいいと言ったユウキにはもう本当に会えない。

僅かに繋がっていた関係がこれで途絶えてしまったと思った。

こうして私の、私とユウキの2005年の夏は終わったのだ。


東北の短い秋はあっという間に過ぎていった。

携帯がないのは不便だという理由で母は私に渋々新しい携帯を買い与えた。

当然何のデータも入っていない携帯。

ユウキの名前もアドレスも、何もない。

ユカさんとはすっかり疎遠になっていた。

私は学校があったし、ユカさんは仕事を変えたようでスーパーで会うこともなかった。

連絡先がなければ、同じ街にいてもいとも容易く関係が途切れてしまう。

東京から大分離れたこの土地で、連絡も取らずに互いを思い続けていくことはきっと難しいだろう。

思い出すと胸がチリチリと痛むのに、忘れてしまうのも怖くてたまらない。

長い冬の中で、私は友達とよく笑い、そして家では気まぐれに降り掛かる暴力と罵倒に耐えた。

私が特別図太いのか、それとも人間とは意外と丈夫なのか、命はいつまでも続いた。

友達と学校で笑い合っていた時に、ユウキはこんな時期に学校を辞めてしまったのか、と不意に考えて寂しくなった。


日常が戻るにつれて、私はあの夏のことを思い出さなくなっていった。

普通の高校生活を送って、卒業して、地元から少し離れた場所に就職して家を出た。

寮のある職場であればなんでもよかった。

夢を追う余裕などなく、目の前の現実を変えたかった。

気付けば大人になり、仕事を変えて寮を出て、一人暮らしをして、それからいくつかの恋をした。

私はやがて趣味を通じて知り合った男性と結婚した。

母とは連絡を殆ど取っていないし、もう地元に戻ることはないと思う。

結婚することも一方的にメールで伝えただけだ。

始まる時は光に満ち溢れていた結婚生活も、喧嘩の絶えない悲しい結末で終わってしまった。

僅か二年足らず。

小さな歪は結婚前に幾つも存在していた。

しかし耐えれば変わると思ってしまった。

我慢強く生きる癖が私をだめにしているのだとようやく解った。

あの夏、私は大人なら別れは簡単に乗り越えられるのかもしれないと思っていたけれど、大人になったって別れは辛い。

ずっとずっと辛いのだ。


どうせなら旅行でもと思ったが、諸々の手続きや引っ越しでどっと疲れてしまった。

あれやこれやと理由をつけて仕事を休職し、家でしばらくのんびり過ごすことに決めた。

好きな本を読んで、ドラマと映画を観て、好きなものを作って食べた。

たったそれだけで幸せだと思えるのだから、私は安上がりな人間だ。

そしてこんなに小さな幸せを見失うほど、結婚生活は悲惨なものだったとも言えよう。

ここに猫もいればいいのに。

それから昔好きだった音楽も。暑い夏。空調が効きすぎた部屋で毛布に包まって……。


私は十年以上前の約束を思い出した。


目が眩むような夕焼けと、遠い街。

蒸し暑い日。手を繋いで歩いた。

あどけなくて、ため息が出るほど美しい瞳の少年。

二人だけの秘密の約束。


いてもたってもいられず、パソコンを立ち上げて書き始めた。


「もうすぐ平成が終わる。

私は平成に生まれ、そして平成を生きて来た……」


彼は約束なんて忘れているかもしれない。

私も十年越しにようやく思い出したくらいだ。

きっと私のことももう思い出せないほど記憶の隅に追いやってしまっただろう。

それでも私は約束を思い出した。

思い出したからには果たさなければと思った。

たとえ彼が約束を果たす日が来なくたって構わないのだ。

あの日の二人を形にすることで、私が約束のための第一歩を刻めるのだから。

私は過去の私を肯定してやりたかったのかもしれない。

一瞬で鮮やかに蘇る夏の日の景色たち。

鈍色のビルの輝き、狭い空、人混み、むせ返るような暑さ、雑踏……。

実際に起きた出来事を紐解きながら文字に起こしていくのは、思っていたよりも大変な作業だ。

不慣れなものだから、時間も手間もかかる。

しかし何としてでも完成させたかった。


この歳になって初めて、私は一つの夢を追いかけている。

2005年の夏、まだ十代だった彼……ユウキが全身全霊をかけて追いかけたように。

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