26 箱庭東京
新宿駅の中を一人歩くことに不安はあったが、いっそ迷ってしまえばいいと思った。
荷物を全部まとめて、枕の下に忍ばせた紙を確認する。
まだ入っている。ユウキは見ていない。
いつか気づくだろうか。
コンポ。机。ベッド。本棚。ポスター。バンドTシャツ。CD。溢れた雑誌と漫画。台本。DVD……全部がまだ私の中で当たり前のままだ。
ここは現実じゃなくて、遠い夢の世界なんだといつになれば感じるのだろう。
この部屋に少しの間住んでいたことも、そして今出て行くことも上手く信じられない。
もしかしたらまた奇跡が起きてユウキが来てくれるんじゃないかと何処かで期待している。
携帯があれば写真が撮れたのに、私は壊してしまった。
どれもこれも後悔がついてくる。
私は枕を撫でて「さよなら」と呟いた。
一気に苦しくなって深く息を吸い込んだ。
さよならという言葉を作ったのは誰だろう。
こんなに悲しい言葉を作るなんて、きっと酷い人だ。
子供染みたことを考えながら部屋を後にした。
丁寧にドアを閉め、キャリーバッグを玄関に運ぶ。
「……帰るんでしょう?」
いつの間にか部屋から出て来たユウキの母が言った。
「はい。あの、お世話になりました。長いことすみません」
「ユウキには言って……なさそうね。うん、まあそれがいいと思う。おばさん、駅まで送るから」
「いえ、わざわざ大丈夫です、私一人で帰りますから」
「いいから。見送りくらいさせて」
一人で出て行くつもりだったから困惑した。
今になって思えばこれは監視だったのだろう。
私がフラフラと何処かに行ってしまったり、ユウキとこっそり待ち合わせて居なくなったりしないように。
世話になった上、見送りまでしてくれるというユウキの母への申し訳なさで感傷的な気持ちを忘れることが出来たのは幸いであった。
ユウキの母はタクシーで東京駅まで行くと言う。
玄関に並んだユウキのスニーカーを密かに目に焼き付けて、私はユウキの母とともに家を出た。
このマンションにも二度と来ることはない。
箱庭みたいな狭い狭い範囲内で生きていた日々。
外はまだまだ暑く、夏の終わりが遥か遠くに感じた。
ユウキと何度も通った道。いつもよりずっと早い時間。
大通りですぐにタクシーを捕まえて東京駅を目指した。
窓から見えたコンビニ。ユウキと通った。
この道を手を繋いで歩いた。時に走ったりもした。
車で進めば一瞬で通り過ぎてしまうような短い距離でも、歩いていれば随分掛かった気がする。
「……事務所から、仕事に集中させるように言われてね」
隣にいたユウキの母が淡々と告げた。
「あの子の様子がおかしくなったのはレイネちゃんがうちに来る前。決してあなたの責任じゃないからね」
タクシーの冷房は過剰なほど効いていて太腿や肩が冷えた。
窓の向こうの景色は知らないものに変わる。
「ねぇ、レイネちゃんはお父さんとお母さんが離婚した時どう思った?」
ずばり切り出された話に動揺した。
なんでそんなことを聞くんだろう。
私じゃなくてユウキに直接聞けばいいのに。
聞けやしないから私に言ったのかもしれないが。
「……やっと離婚したんだって、思いました」
「やっと、ね……」
少し黙り込んだユウキの母は軽くため息をついた。
「ユウキもそう思ってたのかしら。ちっちゃい頃からあの子のこと随分振り回しちゃった。本当はもっと本人の好きにさせてやりたいんだけどね……」
「……ユウキは、ユウキはお母さんと話したいと思ってます。呆れられたり……見捨てられたりするんじゃないかって、それが嫌で、頑張れなくなってるみたいに見えます」
私の想像ですけど、と付け加えた。
ユウキの母は「そうなのかな」と呟いた。
またタクシーの中に沈黙が訪れる。
窓の外にはビルの群れが何処までも続き、道行く人々と車を容赦なく太陽が照りつける。
ユカさんと東京に来た朝を思い出した。
叔父さんと叔母さん、ナナミ、犬。壊れたストラップ、原宿、渋谷。
カラオケに行って、ユウキと会った。ただそれだけの夏。胸が締め付けられた。
愚かで寂しい二人が生きたこの街に、希望は全部置いて行こう。
溢れてしまいそうな涙を瞼の中に閉じ込めて私は目を瞑った。
黙ったままそうしていると、やがて目的地である東京駅にタクシーは着いてしまった。
タクシー代を出してくれたユウキの母にお礼を言って、何日ぶりかにやって来た東京駅を見上げた。
こんなに人は溢れ、太陽に爛々と照らされているのに無機質で冷たい建物。
何処か現実離れした異質の空間。
肌に纏わりつく蒸し暑さで頭がぼーっとする。
ユウキの母に促され、来た時よりもずっと重く感じるキャリーバッグを引きずりながら私は駅の中に歩を進める。
特に何を喋るわけでもなく、新幹線の時刻を確認して窓口で切符を買った。
夜行バスを使えば約7時間かかる道のりも、新幹線なら4時間弱で着くのだという。
帰省ラッシュのピークとは少しズレていたいうこともあり、多少混み合ってはいたものの押し合いへし合いにはならずに済みそうだった。
それでも料金は夜行バスの倍であったし、行きとは違うやり方を一人でこなすことに不安があった。
正直、夜行バスで帰れば良かったと思った。
夜の街をもう一度目に焼き付けておきたかったのもあるし、ユウキに見送って欲しかったという気持ちが大きくなっていたのだ。
嘘をついて逃げ出したのは私だ。
受け入れるしかない現実が泣き叫びたい気持ちのストッパーになった。
ユウキの母はホームまで付き添うと言った。
断ろうとしたが心細いのも事実。ノーと言える雰囲気ではなかった。
新幹線ホームは荷物を抱えた人々が行き交う。
ここから何処かに旅に出るのか、それとも私のように帰るのか。
どちらにせよ胸に秘めた思いまではわからない。
呼吸すらやめてしまいたいような暑さは私の故郷にはないのだと思うと、途端にこの高すぎる気温まで恋しくてたまらなくなる。
東北行きの新幹線は発車を待ち続けている。
奇跡がもう一度起きたなら。
あの日、私が帰ろうと東京駅に一人向かった日のようにユウキが現れたなら。
一歩、また一歩と近づく度にそんな願いが強くなった。
もしも今ここで「逃げよう」と言われれば、私は全てを無に返してでもその手を取って迷わず逃げた。
ユウキ。
「レイネちゃん、これ」
ユウキの母は振り返り、私にメモを差し出した。
「お母さんのことで辛かったら、ここに書いてあるどこかに連絡して。おばさんの連絡先も一応書いたから。何もしてあげられなくてごめんね」
これがユウキの手ならよかったのに、と思う私は薄情でわがままでどうしようもない人間だ。
「たくさんお世話になりました、ありがとう御座いました」
この人はユウキを産み育てた人だ。
どこの誰かもわからない私みたいな人間にここまで手を掛けてくれる。
優しくて不器用で真っ直ぐな人。
私はメモを受け取って頭を下げた。
ユウキへの言付けなんて残せば、どうなるか自分でわかっていたから私は顔を上げて黙って新幹線に乗り込んだ。
強くかけられた冷房に包まれる。
ホームのユウキの母にもう一度頭を下げた。
心配そうな、どこかほっとしたような顔で手を振るユウキの母に背を向けて座席を目指した。
奇跡は何度も起こらないから奇跡なんだ。
自分に言い聞かせながら歩く。
それでも発車するまでは、せめてホームを出るまでは奇跡を信じたかった。
席を見つけて座った。窓際だった。
日常だった世界が非日常に変わる。
ソワソワと落ち着かない気持ちのままホームの景色を見ていると、機械的なアナウンスの後、発車のベルが鳴り響いた。
本当にさよならだ。もう終わりなんだ。
喉の奥がぎゅっと痛むのを堪える。
さよなら。奇跡は起きない。
ユウキ。
新幹線は動き出した。
少しずつ加速し始めて、近くの景色は線のように溶けてゆく。
会いたかったし、逃げたかった。好きだった。
窓の外に広がる東京の街は、私が居ても居なくてもなんら変わることはない。
背の高いビルの群れ。いくつもうねる道路。ひしめき合う車と人々。
気付けばいとも容易く頬を熱いものが伝い、夢のように景色はぼやけた。
この街は狭くて何でも手に入ると思った。
すぐ隣にいたユウキと、ずっと手を繋いでいられると信じていた。
箱庭みたいに詰め込まれたこの街で。
街から遠ざかるほどに体の芯から冷たくなる感覚と、ほんの少しの目眩に襲われる。
「東京は寂しい街だ」と大人が言っていたことを思い出した。
その理由が解った気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます