25 嘘
物音で目を覚ました。
腫れた瞼、ボロボロの顔が引き攣って上手く目が開かない。私は何処で何を……思考も纏まらない。
床に座りベッドに突っ伏して寝ていたことは辛うじてわかる。
肩や首の痛みが不快だ。
睡魔はすぐに襲って来て、私はまた意識を手放す。
怠い。眠くてたまらない。
すぐ側に誰かがいる気がして重くてたまらない腕をそっと伸ばした。
誰かいる。誰だっけ。
指が何かに触れた。
何か聞こえる。なんだろう。何て言ってるの。
不意に後ろから抱き締められた。
「……レイネ、ごめん」
耳元で囁かれた震える声。私は覚醒する。
重い瞼をこじ開けた。
カーテンから差し込む僅かな光。白んだ空。
夜明けとともに背中から感じる体温。
「ごめん、ほんとごめん、俺もう駄目だ、駄目だよ」
ユウキ。
「逃げよう」
胸に深く突き刺さるその一言に、私は呼吸の仕方を忘れる。
逃げる。何処へ?どうやって?いつまで?
私はもう逃げ続けているのに。ずっと逃げてここにいるのに。
このままユウキから逃げたら仮初めの幸せも失って、後は静かに終わるだけだと思っていた。
綱渡りを続けるような緊張も、後悔も、僅かな希望も終わらせることが出来る。
嗚呼でもユウキがいれば決心は揺らいでしまう。
たとえ待ち構えるものが破壊や他害だとしても、それでも生きていたくてたまらない。
私はただ生きていたかったのだ、二人で。
「……ユウキ」
声にならないような嗄声が虚しく響く。
「ユウキは、お芝居、嫌いになった?」
何も考えないようにしよう。何も。
何か余計なことを考えればすぐに泣き出してしまいそうだった。
「……何の話?」
「もうドラマとか、舞台とか、やりたくなくなった?」
「え?」
「一生、俳優ができなくなるの、平気?」
心を殺そう。私という人格や欲がここから消え去る。
引っ越すことになったからと母から言われた日。
離婚することにしたと言われた時。
今付き合ってる人がいて、いずれ結婚するかもと嬉しそうに言われた瞬間。
私は何度もそれを上手くやって来た。
私がため息交じりで深呼吸をすると、ユウキは黙ったまま抱きしめる腕を解いた。
ユウキは嘘をつけない人だ。
芝居は出来ても、きっと嘘が下手で真っ直ぐで不器用な人。
「……平気。レイネがいればいい」
「本当に?」
「本当に」
私はゆっくり振り返った。
体中が酷く痛む。外の光が眩しくて俯いた。
ユウキは私を見ている。向き合っているのに私は顔を上げることが出来ない。
「オーディション、受けて」
「なんでっ……」
「それがダメだったら、一緒に逃げよ」
私には演技なんて出来やしない。芝居の作法もわからない。
でもきっとユウキより嘘は上手い。
嘘ならつける。自分に。
「でも今すぐ」
「まだこれから、時間はあるから。私待つから」
「……俺オーディションなんて、もう受けらんねぇよ、どうしたらいいのかわかんねぇよ」
ユウキの手が私の肩を掴んだ。
痛いくらい強く掴んで、縋るように声を震わせる。
「大丈夫。大丈夫だよ」
もしも私が彼の手を取って、このまま逃げたら。
追ってを振り払いいつまでもどこまでも逃げ続けたら。
願望の渦が私を取り囲む。
逃げるのは私だけでいい。
「芝居好きだった、俺すげぇ芝居が好き、なんのためにやってんのかわかんない、レイネ、どうしたらいい」
顔を上げると大粒の涙を流すユウキが映った。
差し込む細い光に照らされてそれはそれは美しく、これが現実なのか夢なのかわからなくなって私の意識を曖昧にさせた。
手を伸ばして濡れた頬に触れて、それでもリアルな夢なんじゃないかと錯覚する。
「……私のためじゃ、ダメ?」
涙は美しい。けれど安心させたくて、私は微笑んだ。
涙の跡がピリピリ痛む。
瞼は腫れ上がって頭は重く、目眩はとまらない。
ユウキは一層顔を歪ませ、泣きながら私を抱き締めた。
反動で私の体は床に押し倒された。
ユウキが胸の中に顔を埋め肩を震わせ泣いている。
髪を撫でて、私も抱き締めた。
私に演技は出来ない。でも嘘はつける。
いくら上手に嘘をついても、引き裂かれるようなこの痛みにはいつまで経っても慣れなかった。
ユウキが泣きやんだ頃、私たちはズルズルと体を起こした。
私は「朝ごはん食べようか」と部屋を後にして台所に立った。
冷蔵庫に残っていた食材がぼやけてよく見えない。
ちゃんと覚えておこうと思うのに、この部屋の景色は全て滲んだ。
忘れてしまえたらいいけれど、それじゃ時間が掛かり過ぎるから。
台所。ソファ。テレビ。窓。カーテン。
幸せだったことをすぐに思い出せるように、全部覚えておこう。
私が何処に行っても、何をしていても、ここには確かに幸せが在ったのだから。
辛くて苦しくて、殴られるよりもずっと恐ろしくて、罵倒されるよりもずっと悲しくて、私は嗚咽を殺しながらユウキを思った。
ユウキは嘘に気付いているだろうか。
気付いたらどうするだろうか。
顔を洗い鏡を見た。
非道い有様だった。浮腫みと腫れで醜い顔。
傷んで絡まる髪を櫛で解いた。
茶色い髪を梳かしながら思い返していた。
私たちは並んで朝食をとり、いつもより静かで、でも嵐の後の清々しい夜明けのような、そんな時間を過ごした。
ユウキの母が部屋から出て来た瞬間、僅かに空気は張り詰めた。
しかし「事務所から電話。午前中に顔出しなさいって」と告げたその声は昨日のことが嘘のように穏やかだったから、ユウキもぶっきらぼうに「おう」とだけ言った。
また部屋に引っ込んだ母を見送り、私はユウキの髪をぐしゃぐしゃに撫で回した。
無邪気にじゃれ合う時間が、昨晩の出来事と私を引き離してゆく。
どうかユウキがこのまま、私の知らない日常を受入れていってくれたなら。
腫れた目が痛むふりをして、馬鹿になった涙腺が緩むたびに擦って誤魔化した。
こんなにユウキのことしか考えていないのに、私は頭の片隅にすら残っちゃいないあの田舎街に帰るのだ。
不自然で滑稽で無力で虚しくて、何が正しくて何が間違いなのかわからなくなる。
ユウキはいつかのように支度をして、家を出て行く。
私たちは短いキスをした。
少しの間当たり前だったことがやがて記憶に溶けて消える。
玄関に向かうユウキに「大丈夫?」と言いながら私は、背中から抱き着いた。
ユウキは私の指をそっと掴まえて「うん、大丈夫」と優しくて甘くて、大好きな声で言った。
骨っぽくて細い体。私とは違うライン。Tシャツ。
忘れるものか。絶対に。
「行ってくる」
ユウキが手を解いた。
私も体を離した。温もりが遠くなる。
眠いふりをして目を擦り大袈裟に瞬きをして、振り返ったユウキに手を振った。
「うん」
ユウキは私を見て頬を緩ませて、同じように手を振ってから私の頭を撫でた。
黒い髪、綺麗な目、真っ直ぐ通った鼻筋。
柔らかな唇、鎖骨と肩の曲線。
「行ってきます」
靴を履き、ドアを開けて出て行って、ぴんと伸びたその背中が見えなくなる。
バタンとドアが閉じられた。足音が聞こえなくなるまで私は笑顔のままでいた。
もういいかな。ちゃんと笑えたかな。
「おかえり」は言えないから、私は「行ってらっしゃい」と言わずに見送った。
堪えていたものが止めどなく溢れた。
ユウキ。優しくて不器用で私と何処か似ている。だけど全然違う世界に生きていく人。
そんな大好きな人。
何度も何度も目を擦って、指先が濡れる。
逃げてしまいたい。
ユウキの隣で生きられる方法を幾つも考えた。
病院に行って、あの場所に帰りたくないと言えばもしかしたら都内で保護して貰えるかもしれない。
このまま居座り続けたとしたら。
今すぐここから逃げたら。
何処かで働いて部屋を借りて……どれも現実的ではなかった。
手当り次第実行に移すのはリスクが大きすぎて、残酷にも時は過ぎてゆく。
ユウキ、ずっと一緒に居たかった、たとえ誰かを悲しませたとしても、それがエゴだとしても。
張り裂けそうな胸の痛み。
大人だったらこんな別れの悲しみもあっさり乗り越えられるのだろうか。
結局、許されないことを祈ってしまった私が悪いのだ。
悪戯にユウキを傷つける私のせい。
いつかの輝かしい夕陽のように、彼には美しくそして眩い存在でいて欲しかった。
だから側には居られない。
自分に言い聞かせて立ち上がり、私は身支度を始めた。
鏡の前で腫れた瞼をそっと撫でた。
ヒリヒリと痛い。化粧はやめておこうか迷ったが、この顔のまま出て行くのは嫌だった。
それに少し化粧をすれば馬鹿になった涙腺も静かになってくれるんじゃないかと思った。
泣くのは終わりにしよう。
ため息をついてから無理に笑顔を作る。
大嫌いな顔。私は不相応な長い夢を見ていたのだ。
化粧は皮膚に沁みて仕方なかった。
泣いたら崩れてしまうと思うと自然と悲しみは薄らいだ。
化粧を終えて、また笑顔を作った。
紛い物じゃどうにもならない腫れや痛みが、私を現実に引き戻した。
大丈夫。私は平気。
ただの田舎の冴えない十代。不釣り合いの願い事をしてしまった愚かな女。
嗚呼でも、一つだけ許されるのなら、ユウキの記憶の中に私の居場所がありますように。
滲んで消えてしまっても、この先の長い人生で、ああそんな人も居たなと一瞬でも私を思い出す時がありますように。
私は洗面所を出て、残りの荷物を纏めた。
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