24 罪の重さ
「嫌なとこ見せちゃったね」
背中を擦りながらユウキの母はぽつりと呟いた。
過呼吸を起こしかけてるからと渡されたビニール袋を口に押しあて、私は呼吸を繰り返していた。
私の呼吸に合わせてガサガサと音を立て、膨らんでは萎む白い袋だけを見つめながら。
「あの子から聞いたけどレイネちゃん、お母さんが手を上げるんだって?」
突然母の話をされて私は頭が真っ白になった。
はいそうですと言えばいいのか、違うと否定すればいいのか。
「あのね、病院って親から暴力を受けて搬送されてくる子がたまにいるんだ。配偶者……旦那さんとか、恋人に殴られて駆け込む人だっているの」
涙は乾き、頬がピリピリと痛む。
指先は少しずつ温度と感覚を取り戻す。
「そういう時、病院を通して保護することがあるのよ。ちゃんと守ってくれる施設があってね、だからほら、大丈夫よ」
ユウキの母が言わんとすることはわかっていた。
助けてくれようとしている。それからここを出て行け、と。
「……このままうちに居ると、もしもレイネちゃんのお母さんが警察に相談した時に、おばさんやユウキが誘拐の罪に問われるの。わかる?たとえ保護してたとしてもよ?おばさんに出来るのはあなたを保護して貰うようにちゃんとした施設に連絡するか……家に帰すこと。レイネちゃんはどうしたい?」
結局この家にはいられない。
私はビニール袋を置いてぼんやりと考えていた。
保護されるって何処に?
あの街に、あの家に戻されるんじゃないの?
ユウキに会えなくなるの?
「……あ、の……保護って、どこに……」
どうにか振り絞った声と反比例して勝手に込み上げる涙。
ようやく乾いたはずなのに、まだまだ溢れて足りない。
「レイネちゃんの家の自治体に任せることになると思う。未成年だから……行政を通しても、このまま東京に置いておくことは難しいんじゃないかしら」
やっぱり戻る他ないのだろう。
もうユウキとは会えなくなる。
頬を伝う涙は床にボタボタといくつも零れ落ちた。
雫と一緒に僅かな、いや、たくさんの思い出も失われていくように思えた。
「あの子、来月に大きな舞台のオーディションを控えてるんだ。事務所や舞台の人たちがたくさん協力して、ようやく掴んだチャンスでね。凄く貴重で、凄く責任の重いことなの」
わかる?と言われ私はうんうん頷いた。
想像がつかないくらいとてつもない重圧の中、たくさんの人に支えられてユウキは表舞台に立っている。
スポットライト、スクリーン、カメラ。
ユウキの瞳を見て何度も感じていたこと。
彼の美しい瞳はステージの上でめいいっぱい光を浴びて、そして大勢の観客の前で初めて輝くのだと。
狭いこの部屋で私が独占するということの、罪の重さ。
「芸能界の仕事って途中で放り出したら責任を負わなきゃいけなくなるのよ。おばさんとユウキが一生かけても返せないような負債が発生するの。あの子も知ってる。ちゃんとわかってる。だからこの前、事務所でこれから頑張りますって返事をしたんじゃないかしら」
ユウキが事務所に行った日、私が聞き出せなかったあの日。
ユウキの母が話してくれた。
あの日、事務所で来月のオーディションや今後の身の振り方について話し合ったこと。
次の舞台は最後のチャンスになるかもしれない大きな仕事で、どうしてもここでユウキを売り出したいこと。
今はそのための猶予でしかなく、ユウキもそれを了承しオーディションを受け頑張っていくと返事をしたこと。
「……ユウキはわかってるのよ。でも、楽な方、駄目な方に流されてる。これはおばさんの責任だけど、でもレイネちゃんだってこのままじゃ駄目。わかってるでしょう?」
わかってる。わかっていた。だから今、後悔の中で途方に暮れているのだ。
ユウキと会ったカラオケ。メール。電話。駅。
音楽。ドラマ。映画。ゲーム。コンビニ。抱きしめられたこと。キスをして肌を重ねて、笑って、泣いて、手を繋いで、約束。
約束。二人だけの約束。
「ね、病院に行って、相談してみよう?おばさんも一緒に行くから」
暴力。罵倒。虐待。痣。
うんざりする田舎の街。バイト。学校。母親。
頑張りますと言ったユウキ。東京。夕暮れ。
ギシギシと頭が痛む。
「……いいです……病院、行かなくても」
もういい。逃げることは、酷く悲しい。
二人で生きていきたかった。何もかもから逃げて、二人で。
逃げ続けても私たちは永遠に幸せにはなれない。
私が私に生まれて、ユウキがユウキに生まれてしまったのだから。
私はユウキから逃げることにした。
そうすることで幸せを諦めた。
受入れてこの身が粉々になる日を待つことにしたのだ。
ユウキの母は何度も「それでいいの?」と繰り返した。
私はただ頷いた。
嗚呼早く消えちゃいたい。今すぐ心臓が止まればいいのに。
「かえります、かえって、かえってから自分で決めます、大丈夫です」
帰って殴り殺されたら楽なのに。私が死んだらいい。
みんな私と同じ後悔に包まれてしまえばいい。
諭すように「本当に平気なのね?ごめんね」と言う声が随分遠くで聞こえる。
ユウキなら、もしもユウキがここにいたら私を救い出してくれる?
なんて言って逃げようとする?
きっと私はそれを咎めるんだろう。
ユウキのためにならないから、ユウキだけはどうか幸せになってと。
そうか、答えは最初から一つしかなかったのだ。
わかっているのにどうしてこんなにも苦しいのだろう。
ユウキはその晩、帰って来なかった。
私はフラフラと立ち上がって床にぶちまけられた酒や吸い殻を片付けようとした。
しかしユウキの母が帰り支度を優先してと私を止めた。
この家の中に馴染んでいた私の物を一つずつ集めてキャリーバッグに押し込む。
元々持って来た荷物はそう多くはないから帰り支度はすぐに終わった。
携帯は壊してしまったから、ユウキが何処にいるのかもわからない。
こっそり連絡を取って、帰ると伝えることすら出来ない。
今この部屋から飛び出して、私が朝まで帰らなかったら……何度かそう考えた。
しかし実際にやる勇気も気力もなく、私は黙ってユウキのベッドに横たわった。
どうして生きて行かなきゃいけないんだろう。
ユウキという希望を見失っても、私の人生は続いてしまう。
私は起き上がり鞄から手帳を取り出した。
最後の余白のページを破って、震える手でペンを握った。
連絡先を書いて残せば、いつか……でも携帯は壊れている。
ユウキも携帯を壊してしまったから、連絡先なんて意味がない。
また私が東京に来ることはあるんだろうか。じゃあユウキがあの街に……来ることもないだろう。
会えない。ユウキには二度と会えない。
『好きだったよ 約束忘れない 応援してる』
ここまで書いて、私は声を押し殺し泣いた。
ユウキ。いくつも語らったから、好きなものはたくさん知っている。
過ごした時がたった数日でも、私しか知らないユウキの顔、仕草、言葉は確かに存在する。
それで充分じゃないかと思う私と、離れがたい私と。
床に座りベッドに突っ伏して泣き続けた。
朝なんて来なきゃいい。
神様がいるなら奇跡を起こして欲しい。私とユウキが離れないように。
出会えたことが奇跡なら、別れはどうして訪れるの。
「……ユウキ……」
声に出すと胸を突き刺すような痛みが襲う。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、帰りたくない。
物分りが悪くてわがままで幼くて、いつも母親に殴られていた。
仕方がない、私が悪かったんだ。
顔色を伺って周りに合わせて笑ってばかり。
今更悔やんでも泣いても叫んでも何も変わらない。
助けてよ。ねぇユウキ助けて。何処にいるの。
私もユウキを助けたいよ。今何を考えてるの。
メモ書きを枕の下に隠して私は目を閉じた。
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