23 リグレット

気分を高揚させるため……というよりも、不安を打ち消すために酒を飲み続けていると、ユウキの携帯が鳴った。

ユウキは携帯を見て顔を曇らせた。

そしてテーブルの上に放り出したままいつまでも無視し続けた。

「だれ?」と私が聞くと「事務所」とだけ言った。

やがて着信は切れて、部屋は静けさに包まれる。


「俺も壊そうかなぁ」


ユウキが自嘲気味に呟いた。

携帯を失えばきっと何もかもが二人きりになってしまうだろう。

この狭い世界がもっと狭くなって、互いしか見えなくなる。

私には魅力的に思えた。

何よりお揃いになる、ということが嬉しかった。

でもそんなことをすればユウキの未来は潰えてしまうのではないか、と恐れる自分もいた。

ユウキが携帯を手に取って、冷たい目で見つめている。

寂しい横顔。

声をかける暇などなく、一瞬のうちにユウキは携帯をいとも容易く逆さにへし折った。

バキッと嫌な音をたて、携帯は光を失って、そして中のコードが飛び出た。

壊れてしまった。


「……いいの?」


「いいんじゃね?」


「まあいっか」


「あー清々した」


ユウキはゴミ箱目掛けて携帯を放り投げた。

吸い込まれるようにゴミ箱の中へ見事入った。

私たちは馬鹿になって笑った。

笑い過ぎて涙が出るくらい笑った。

ユウキ、好きだ。彼が好きだ。どうしようもなく好きだ。

たまに見せた不機嫌な様も、呟いた怒りも、自分勝手なところも、禄に私を見ず欲に流されるところも、優しさも、美しい瞳も、全部好きなんだ。

虚ろな時間は過ぎていって、私とユウキは当て所もない話を何度もした。

いつかバイクの免許を取りたい、好きなだけバイクをカスタムしたい、ライブに行きたい、バイトをしたい、どうせなら車の免許も取って運送でもやろうか、あの映画を観たい、服が欲しい、靴が欲しい、あれを食べたい、これを食べたい、猫を飼いたい、引っ越したい……。

明日は遠く、それより先の未来は近いように感じた。


「なんていうかさ、ちょっとずつダメになってったんだよ。ゲームだと毒食らった感じ?ジワジワHPが減って、手持ちの回復が追いつかなくて……」


眠そうな目。ユウキは私の膝に頭を乗せてぽつりぽつりと語った。

私はユウキの髪を優しく撫でた。


「わかる。動けないよね」


「そうそう、動けない。目の前に敵がいて、世界救わなきゃいけないし、回復尽きそうだしって時に、レイネがいてさ。ゲームオーバーしても、リセットしてもいいんだなって思った」


「えぇ?どういうこと?」


「がんばりますって無理して言わなくてもいいのかなって。なんていうの?離婚した時に俺が支えるって仕事一本に絞って、学校辞めたじゃん。事務所に言って、母さんの職場に近いとこに引っ越してさ。社長は俺にガンガン仕事まわすけど結果出せない時もあるし、それで他のヤツから不満が出てくるわけ。コネあるといいよなって。でも……頑張りますって言わなきゃいけなかったから」


「……頑張ったね、いっぱい」


アルコールで麻痺したはずの心は張り裂けそうだった。

ユウキは頑張ったんだ。

自分のためじゃなくて、誰かのためにずっと。

もう駄目かもしれないと気付きながら、頑張りますと言い続ける苦しさ。いつ如何なる時も希望を捨ててはいけないという呪いにかけられて。


「俺頑張ったのかな。結局何も残ってないけど」


「頑張ったよ。私を助けてくれたじゃん」


「そっか……レイネがいるね」


ユウキが手を伸ばし、私の頬に触れた。

ゲームオーバー。リセット。私たちには何もない。

二人で新しく始めればいいじゃないか。

どうかユウキもそう思っていて欲しい。

何処か不安そうなユウキを見下ろして私は微笑んだ。

ユウキも微笑む。

私たちはゼロに戻しているだけ。何もおかしなことじゃない。


「後で何処か行こう」


「何処に?」


「レイネが行きたい場所、ある?」


「うーん……ユウキの行きたいとこは?」


「ばあちゃんち、かな。行ったらびっくりされそうだけどさ」


「行こうよ。きっと喜ぶよ」


ウトウトとゆっくりまばたきを繰り返すユウキの髪を撫で、おやすみと囁いた。

ユウキはまだ眠くないと強がった。


「後で起こしてあげるから」


「……うん……」


小さく返事をしたユウキは、既に目を瞑り微睡みの中にいた。

膝の上に乗せられた頭は重い。しかしこのままで居たかった。

規則正しい寝息をたてて眠るユウキ。

ゴミ箱の中には壊れた携帯が二台。

もう私たちを邪魔するものはここにはない。

いつまでも続く静寂と、終わらない夜に閉じ込められたみたいに。

テーブルの上に並んだ空き缶と溢れた灰、それからユウキの寝顔を交互に眺めた。

二人で生きていきたかった。


ガチャン。

鍵の開く音。

ユウキは眠っている。

すぐにドアが開いた。

チリチリと胸の奥から緊張感が走る。

寝たフリでもしようか。今更だけど。

タバコとアルコール。壊れた携帯。膝の上で眠るユウキ。

後ろから大きなため息が聞こえて、すぐに換気扇のスイッチが入れられる。


「……ユウキ、ユウキ!塩原さんから電話あったでしょ、ユウキ!」


ユウキの母の声は今まで聞いたことがないほど強く荒々しいものだった。

後ろを振り向けず、私は膝の上のユウキを軽く揺すった。

ユウキは眉間にシワを寄せ不機嫌そうに瞼から充血した目を覗かせた。


「……なに」


「電話、なんで出ないの!」


ユウキが頭を押さえながら起き上がった。

私の膝は軽くなる。

少しの痺れと開放感、それから籠もっていた熱が逃げていく。


「……うぜぇから出なかった」


どうしてこうも幸せは長く続かないのだろう。平穏は、自由は、いつもすぐにこの手からすり抜けてしまう。

ユウキは母親の方を睨みつけた。


「あんたいい加減にしなさい!タバコなんて、働いてもいないのに……電話も出ないし!クビになったらどうするの!?」


金切り声が酔った頭に響く。

クラクラと目眩がして、私はこめかみを押さえた。


「クビ?は?上等だよ、いちいち仕事まわして来ないならそれでいいっつの、クビにしろよ」


「何言ってんのよ!クビになったらどうやって生きてくの!」


「別に、俳優以外に仕事なんていくらでもあんだろ。やりたくもねぇ仕事ばっか回されて、こっちはうんざりしてんだよ!」


ユウキの怒鳴り声に私は震え上がった。

フラッシュバックする。父親と母親の喧騒。

食事中でも車の中でも、夜中だろうが朝だろうがそれは始まる。

呼吸は浅く、早くなった。ユウキの横顔がぼやける。

苦しい。不快。聞きたくない。


「いつまで子供みたいなこと言ってんのよ……ああ、あんた本当に父さんそっくりだわ!」


あ。

地雷が目の前で踏み抜かれた。

私は反射的にユウキの母の方を振り返った。

目を吊り上げて何かを言いたげなユウキの母の顔。

その瞬間、ユウキは立ち上がってテーブルの上のものを全て薙ぎ払った。

ガシャンガシャンと缶がぶつかる音が派手に鳴って、酒もタバコの灰も全て床に散らばった。


「都合悪いと父さん父さんって!!じゃあアイツみたいにぶん殴ったらいいのか!?なぁ!?」


私は慌てて立ち上がった。

母親に詰め寄るユウキの腕を掴んでしがみついた。


「ユウキだめ、駄目!」


振りほどこうとするユウキの力は驚くほど強い。

それでも私は懸命に腕を掴み続けた。両腕でしがみついて、持てる全ての力を使って。


「離せよ」


「そうやって暴力に走るのも父さんと同じじゃないの!ユウキあんた、いい加減にしなさいよ!!」


「おい、もう一回言えよ、あぁ!?」


「落ち着いて、ユウキ、ねぇ、ユウキ」


ユウキは腕を思い切り振り上げた。

振り解かれた拍子に私はその場に尻もちをついた。

床に放り出された体。鈍痛。

一番恐れていたユウキの姿を目の当たりにして私は泣き崩れた。


「ユウキ……私帰るから、帰るからお願い、やめて、帰るよ!ねぇやめて……」


震える唇でどうにか紡いだ言葉は、私が思うより大きな声になった。

いつもすぐ側にあった後悔が私を飲み込んでゆく。


「なんで帰るとか言うんだよ、なんで!」


床に座り込み、ただ泣くことしか出来ない。

ユウキの手が私の肩に触れた。

殴られる。

無意識にそう感じて身を強張らせた。


「……レイネ……?」


悲しい声。

こんな風に名前を呼んでほしくはなかったのに。

私が顔を上げるとユウキは今にも泣き出しそうな顔で私を見ていた。

好きなのに、好きだって思うのに、失望させたくないのに、居なくなってほしくないのに。

ユウキは「ごめん」と呟くと、そのまま部屋を出て行った。

どんどん遠くなる背中を追いかけたくても、腰が抜けて動けなかった。

心臓がドクドクと高速で収縮する。

バタンと無情にもドアは閉ざされ、ユウキは外に行ってしまった。

なんでこんなことになってしまったんだろう。

私のせいだ、私がここに居たから、私が生きているから。


「……動ける?」


ユウキの母の声に私は小さく頷いた。

感覚がなくなって震えてばかりいる指先。

正直動けやしなかった。

立ち上がろうと床に手をついたが、ガクンと肘が抜けたように力が入らない。

私は前のめりに床に這いつくばる形になった。

ユウキの母はすぐに駆け寄って私の体を支え、背中を擦った。


「無理に動かないで。大丈夫」


「す、みませ……」


掠れた情けない声しか出せなかった。

私はユウキの母に促され、なるべく深呼吸するよう努めた。

痺れて冷えた指先。涙でグチャグチャの顔。膨大な後悔。

背中を擦られながら避けて来た現実が私の頭の中を駆け巡る。

ユウキ。ごめんね。

好きという気持ちと、怖いと思う気持ちと、先程の泣きそうな顔が上手く共存してくれない。

どうして。どうして。

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