21 煙幕

ユウキは俳優だ。

映画やドラマに没頭するユウキの目は真剣そのもので、私には到底出来ない目つきをしていた。

集中力が途切れたり疲れたりしないんだろう。

放っておけばずっとテレビの前にいる。

彼は演劇の世界の中で生きていて、そしてこれからもずっとそこで生きていく。

私はその、いつだって背筋をピンと伸ばしたユウキの背を見ていた。

もしも支えられたならと自惚れてみる。


「悪いけど今からは無理。人数って、また合コンかよ……いや、普通にねぇだろ」


ユウキは少し苛立った様子で通話している。

夕食後にかかって来た電話はジュンからであった。


「レイネ?……いるよ、悪いかよ。だから無理」


ユウキが洗い物をする私の方をちらりと振り返って言った。

なるべく気にしないよう振る舞ったが、内心焦っていた。

私のこと、周りにどうやって説明するんだろう。


「はぁ?だからさ、それは関係ないじゃん。俺も断ってて……断ってるよ、俺がやりたいって言ったわけじゃねぇし」


ユウキの言葉は棘を増す。

私は水を止め水切りカゴの中の皿を拭きながら、聞きたくもないやり取りを聞いていた。

ユウキはそうじゃないとか、俺が決めたわけじゃないとかとにかく否定的なことを繰り返していた。

察するに私のことではないだろう。

しかし気分は落ち着かなかった。

怒りにまかせてユウキが電話を切ってもその状態は続き、大きなため息を吐いて荒々しく携帯をテーブルに放り投げる音に私は肩を震わせた。


「……ったく、意味わかんねぇ」


どうしたの?という一言が何故だか喉から出て来なかった。

何も言えずに私はシンクの掃除をして、ただ時が過ぎるのを待った。

何度目かのユウキのため息に、私はようやく作業を終えてソファに近寄った。


「……大丈夫?」


放り投げたはずの携帯を拾い、苛立った様子で何かを打ち込むユウキに声をかけた。

ピリピリした空気に触れて指先から痛むような錯覚に陥る。


「別に。なんでもないから」


ユウキはこちらを見向きもせず吐き捨てるように言った。

しつこく問うべき?何も言わずに待つ?話を変える?


「そっか」


何も言えなかった。

言葉や感情は胸の中に渦巻いているのに、それをユウキに向かって吐き出すことはかなわなかった。

ぶつけ合うことで初めて見えてくるものがあるのだとしても、そこに至るまでの不毛なやり取りには耐えられそうになかったのだ。

不機嫌なオーラを纏って携帯を眺めるユウキから少しだけ距離を置いて隣に座った。

私も意味もなく携帯を開いて友達のサイトを適当に眺める。

サイトに載せられていたいつかのくだらない写真は、気付けば大分遠くなってしまった。

学校。家。見飽きた山と空。日常であったはずなのに、いつの間にか懐かしい風景になっていた。


「……はぁ?」


ユウキの手にした携帯から着信音が鳴って、ユウキは苛立った声を出した。

また先程の口論の続きをやるのだろうか。

それならここではなく向こうの部屋でやってくれればいいのに。

ユウキが電話に出た。


「……なに。ジュンから何か言われたんだろ、どうせ。いや揉めたっていうか、合コン断ったら仕事の話まで出して来て……そう、勝手に俺に回ってくんの。俺はやりたいとか言ってねぇのにさ」


ジュンとは違う相手だったようだ。

仕事の話をしているということは芸能関係者なのかもしれない。

そういえば芸能人の仕事ってどんな風に決まるんだろう。

事務所を通して話が来ることは私にもわかる。

よほど名の売れた俳優なら直接的なオファーも来るだろう。

しかしそれ以外はオーディションだとして、事務所に所属している者が何を基準に、どうやってオーディションを受けるのかわからない。

私はユウキの支えになりたかった。

こんなに近くにいて、毎日毎日顔を突き合わせているのにまだまだ肝心なことを知らずにいる。

もどかしさは不安になってすぐに目の前を覆い尽くそうとする。


「こっちに言われても知らねぇし……うん。とにかく誘ってくんなって、俺彼女いるから。あー、いや、そこはこの前行って来てさ、まあ後で。おう、メールする」


彼女という単語に不安のことなど一瞬で忘れてしまった。

我ながら単純だ。私はユウキの彼女なんだ。

彼女なんだから、きっと互いのことを少しずつ知っていけるはず。大丈夫。


「じゃあ、伝えといて。よろしく」


ジュンとの通話よりユウキの声色は穏やかだった。

幾分落ち着いたようだ。

通話を終えてため息をついたユウキの方を恐る恐る見た。

ユウキはテレビをちらちらと見ながらメールを打ち始めた。

不用意に声をかけたらいけない気がして、私は黙ったままテレビと携帯を交互に眺めた。

この時私がどうしたのと言えたら何かが変わっていただろうか。

多少ぶつかり合ってでも真意を聞き出していたなら。

今となっては全て過去のことだ。

とにかく私はこの時、ユウキの機嫌を損ねないよう気配を殺すことに努めていたのである。

決して広くはない部屋で、簡単に何処へでも行けるこの街で、私はただ小さくなって過ごしていた。


「……コンビニ行ってくる」


いつまでもそうしていると、ユウキはぽつりと呟いた。

行ってくる、ということは一人で行く気だ。


「うん、わかった」


本当は着いて行ってユウキから聞きたいことが沢山あった。

嫌われたくない。

大丈夫、彼女だから、そのうちわかる。

私は何もなかったかのように振る舞った。

少ししてからユウキは部屋を出て行った。

出掛け際に何か欲しいのあったらメールしてと言っていたから、機嫌が悪いわけではなさそうだ。

きっと一人になって頭を冷やしたかったんだ。

彼氏彼女だからといって四六時中一緒に行動するとは限らない。

ユウキが居なくなった部屋はやけに静かだった。

私は深呼吸と伸びをしてソファに寝転がった。

不安。憂鬱。怯え。

もしもこのままユウキが帰って来なかったら、私は簡単に生きる術をなくしてしまうんだろうな。

ユウキのことを信じていればいいとわかっているのに、信じ方なんて誰も教えてくれない。


時間にすると僅か10分にも満たないほどでユウキは帰って来た。

懐かしいほろ苦い香りを連れて。

手にしたビニール袋の中には汗をかいたペットボトルのジュース。

それとタバコの箱。

心臓がドクンと大きく跳ねた。


「ただいま」


ユウキはそう言って台所に立ち、換気扇を回してタバコを吸い始めた。


「……タバコ、吸うんだ」


驚きとともに口から出た言葉。


「まあ、たまに。イヤ?」


空き缶に灰を落とすユウキはそう言って笑った。

私は首を横に振って、嫌じゃないよとこたえた。

白く細い煙。懐かしい香り。記憶のトリガー。

この部屋にはなかった香りだ。

灰皿も見当たらないし、しばらく一緒にいたが吸っているところを見たのは初めてだった。

恐らく日常的に吸っているのではなく、本当に「たまに」吸っているのだろう。

ずっとこの香りは私の生活にあった。

ある時から消え去ってしまった香り。

ギュッと胸が締め付けられるのを誤魔化すために私はヘラヘラと笑ってみせた。


「タバコの匂い好きなんだよね」


ユウキは白い煙を勢いよく噴き出した。


「え?なにそれ」


「わかんない。吸う気はないけど、好き」


「普通嫌がるでしょ」


空き缶にタバコを押し付けて消すと、ユウキは換気扇を止めた。

肺を汚していくような苦くて重い匂いが部屋を満たした。

すっかり機嫌も直ってむしろ不自然なほど上機嫌なユウキに近寄って私は抱き着いた。

記憶の中の香りとユウキの姿が混じり合う。


「いい匂いじゃない?」


「……マジか」


ユウキは苦笑いを浮かべた。

タバコの匂いにはそのうち慣れてしまうんだ。

そして居なくなってから初めて思い出す。

あれはタバコの匂いだったんだと。

換気扇の下で吸ってと念を押す母と、台所で何か考えながらぼんやりとタバコを吸う父。

二度と戻らない日常だった。私の中の幸せの記憶。


「いつから吸ってるの?」


ユウキの手が私の背中に回って、きつく抱き締められる。


「いつからだろ?中学かな。でもレイネ嫌がると思ってた」


「全然平気。好きだし」


「じゃ、レイネも吸う?」


「えー……それはやめとく」


ユウキはケラケラ笑って私の頬に手を添えた。

反射的に目を瞑ると苦い香りが私の中に侵入して、唾液に溶けた。

きっと私たちは悪いことをしている。

ユウキにその自覚がなかったとしても。

悪いことをすればするほど、私を取り巻く言いようのない不安や憂鬱が見えなくなる気がした。

ユウキは面白がって何度もキスをする。

何が楽しいのか私もケラケラ笑った。

手を解き再びユウキがタバコを咥え、百円ライターで火を付けた。


「吸ってみる?」


「やだ」


面白半分に差し出されたタバコ。私は笑って逃げ回る。

タバコを咥えたユウキの横顔は痛いほどに切なく、美しかった。

この世の中にはユウキを知る人が大勢いる。

幼い頃から子役をやってそれなりにテレビに出ているのだから、田舎の女子高校生の私の存在を知る人の数よりも圧倒的に多い。

でもユウキのこんなに感傷的な姿を知る人はどれだけいるのだろう。

欲に支配されて身悶える姿を知る人は。

白い煙がゆらゆらと部屋を漂い、やがて私たちの頭を麻痺させる。

どうせならもっと碌でもないことをしたい。

どちらともなく「酒でも飲もうか」という話になり、タバコの煙を纏った私とユウキは夜の街に繰り出した。

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