20 不透明
明日に僅かな希望しか見出だせないのなら、永久に夜の中二人で泣き続けた方がずっとましだった。
そう思っても朝は来る。気怠く哀しくても絶対に。
泣きすぎてガンガンと頭が痛い。目も腫れてしまって、嫌いなこの顔をより嫌いになる。
ユウキの充血した目は痛々しい。
太陽がアスファルトと鉄、コンクリートの群れを照り付ける。
何がきっかけであったか、他愛もない話をする中で私は「こっちに住んでいた頃」の話をした。
もう殆ど記憶にはないけれど、断片的に思い出せる話を。
ユウキは昨日買ってきた雑誌を捲る手を止めた。
「どの辺に住んでた?」
「江戸川。多分」
脳裏に浮かぶ白い壁。小さなマンション。駐車場。
幼稚園のバス。地下鉄。ひらがなで書かれた文字。
私はその文字をたどたどしくも読み上げた。
「しんこいわ……?」
ユウキは「ああ、あの辺か」と呟いた。
ピントのずれた写真のような風景の中、地下鉄の風にはしゃぐ私が父と手を繋いでいる。
「ここから遠い?」
なんの気無しにたずねた。
ユウキは携帯を開き何やら調べてから言った。
「……電車で一時間くらいだなぁ。行きたい?」
行ってみたい気持ちはあったが、私は首を横に振った。
電車で一時間かけて新小岩駅に着いたところで、そこから先の道のりを覚えていなかった。
マンションの外観すらも朧気で、何もかもが遠い出来事であった。
同じ東京にいるというのに、遠すぎて見えない。
ここにいればそのうち地理と記憶が合致して、行ける日が来るかもしれない。
まだ私は、この部屋の窓から見える景色のほんの一部しか歩いたことがないのだから。
怠さの強く残る体。それでもやることといえば家のことくらいしかなくて、キッチンの掃除をして、洗濯をした。
そうやって過ごすことが当たり前になってゆく。
たとえままごとのような家事だったとしても。
乾燥機から取り出した衣類を畳み、ユウキの部屋のクローゼットや引き出しにしまう間、ユウキはテレビを観ていた。
いつもこうやってここで一人過ごしていたのだろうか。
見慣れては来たが、不意に目に入る横顔は相変わらず綺麗だった。
夕飯の支度をしないと、買い物は昨日行ったからそれで……この生活が毎日続くのかと思うと楽しいようで、不安でもあった。
本当にずっとここに居られるなら、いつか仕事もしないといけないだろう。
ユウキはどうするのか。俳優を辞めたらどんな仕事をするのか。それとも俳優を続けていくのか。
芸能人の生活とは?給料とは?
わからないことだらけだ。
やがて暇を持て余した私は、昨日から電源を切ったままの携帯を手に取った。
母親のことを思い出して鳥肌が立ったが、この状況を脱するには携帯しかなかった。
電源を入れ、光りを取り戻した携帯を固唾を呑んで見守る。
着信はなかった。
だがメールが何件も届いている。
受信ボックスを開くと、殆どがメルマガで名前の入ったものは三通だけ。
ユカさんから一通。
「ナナミのことを知ったよ。怒ってるよね。ごめんね」
ナナミ……そんなこともあったっけ。遠い昔の出来事のように感じる。
もうユカさんと会うことはないのかもしれない。
物理的な距離だけじゃなくて、精神的な剥離。
母から二通。
「遅すぎる。いい加減にして」
「お前一人で生きていられると思うな」
昨夜のことを思い出してじわりと怒りや悲しみが込み上げる。
絶対に帰らない。絶対。
固く決意して受信ボックスを閉じた。
ソファに座ってゲームを始めたユウキに手を伸ばして、縋るように抱きついた。
胸の高鳴りは落ち着き始めていた。それよりもずっと大きな安心感が得られるからユウキに引っ付いている。
ユウキが居なかったら私はどうなっていたんだろう。
考えたって仕方がない。
私はもうこの体温を知ってしまった。
ユウキが抱き締め返してくれたらそれで良い。
しかしユウキはそれをしない。
ゲームに夢中になっていたのもあるし、きっと私には、いや女にはわからない衝動がユウキには、男にはあるのだ。
抱きついているだけでもいいや、抱き締めてくれなくても。
私がそう思ってただじっとしていると、ユウキは一旦ゲームを止めた。
コントローラーをテーブルに置いて、私の頭をポンポンと撫でる。
抱き締めて貰えると思って胸がいっぱいになった。
ユウキの腕が私の肩にまわった。
体重を掛けられて、私の視界はひっくり返る。
いつか見た天井と照明の眩しさ。
「ユウキ?」
まさか。でも。
私の問い掛けは言葉にならず、胸の中でぐるぐると渦巻いている。
Tシャツの裾から指が這う。服を捲られる。
目を閉じる猶予もなくキスをされて慌てて目を閉じた。
慌ただしく唇を重ねながら口内に侵入する舌。
指は下着を引きずり下ろし、胸を揉みしだく。
荒い息遣い。押し当てられた固いもの。
やっぱり。
胸の中で渦巻いていた言葉は確信に変わる。
私が求める安堵は、ユウキの中で衝動になってしまう。
観念して私は身を任せた。
痛くないならなんだっていい。
触れ合って不安がなくなるならこれでもいい。
している間は何もかも忘れることが出来た。
ユウキも私も互いだけを見ていられる。
切ない目で見下ろして私の体内に己を捩じ込むユウキは綺麗で愛おしい。
確かに見合っているのに、何故か互いの本心は見えなくなる。
ゴムを使ったのは最初のうちだけだった。
ユウキが持ち合わせていたものとコンビニで買ったものがなくなってから、ユウキの欲は腹の上に吐き出されるようになった。
ゴムがなくてもリビドーは爆ぜる。
買いに行くその一瞬すら離れ難く、私たちは中にさえ出さなければ、と何かに言い訳しながら体を重ねた。
二人を隔てていた僅かな壁がなくなって興奮は加速する。
結果的に上手くいったから、私たちはリスクとスリルを曖昧にしてしまったのだ。
私の上で動きを止めて堪えるユウキのその苦悶に満ちた顔は私の熱を煽った。
なんてことない戯れのつもりだった。
ユウキがどんな風に身悶えるのか、ただそれを見たかっただけ。
腰をくねらせてぎゅっと締め付けた。
声を出すこともままならないうちに、私の中にジワリと欲が吐き出された。
「……あーあ」
どこか他人事のように感じた。
力が抜けたのかユウキは私の上に覆い被さって動かない。
しばらくの間、体内で脈打ち続ける。
中に出さなければいいというルールが破られて、このままそれも曖昧になるんだろうなと思った。
「レイネ、今のはずるい」
ユウキはそれだけ言って黙っている。
妊娠したら?
もしも私が妊娠したらどうなるの?
別にどうだって良いんじゃないだろうか。だからユウキはこうして何も言わないんだ。
考えることが出来ないから、私はただユウキを抱き締めた。
汗ばんだ背中。熱い。安堵と幸福。
離れられない時間が少しでも長くなるなら、そっちの方が都合が良かった。
後から後から少しずつ流れ出る、私の体の中にはなかったもの。
「やっちまったなぁ」とユウキはため息を吐いた。
冷静さを取り戻したのだろう。
しかしそんなことはすぐに忘れてしまって、いつもと変わらない時間が私たちを取り巻いた。
ゴムを買おうだとか、もしも……という話を口にすることはなかった。
流れ出るものがほんの少し煩わしいくらいで、特段生活に変わりはない。
また曖昧になる。
不確かで不透明なまま、終わったことばかり増えてゆく。
ユウキが黙って映画を観ている間、私は浴室を掃除した。
スポンジの泡を見ながらほんの僅かに沸き起こる感情を必死で洗い流した。
私はユウキのことが好きだ。この街が好きだ。
ユウキの大きく、神秘的な瞳。憂いを帯びた横顔。骨っぽい体。温度。低く甘い声。優しさ。無邪気に笑う姿。私という存在に価値を与えるところ。
手を伸ばせば何でも手に入る街。人々は己の欲しいものだけを求めて行き交う。多様性。受容。利便。私たちに夢を見させる。
シャワーヘッドから勢いよく出る水飛沫が泡を汚れごと洗い流す。
眠らない街は、私を穏やかに眠らせてはくれない。
どうせ浴室を出てもまだ映画は終わっていないだろう。
トイレの掃除をしようか、それとも洗面台にしようか。
夏が終わったら私はどうなるのだろう。
秋が来て、冬が来て、私はここで何をするのだろう。
この部屋以外の東京って、どんな街なんだろう。
お芝居をしている時のユウキは、どんな顔をしているんだろう。
排水溝には後から後から泡が流れていった。
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