19 溶け合う

「ユウキ、ちょっと来て」


ホッとしたのも束の間、また私たちの間に不穏な空気が漂った。

ユウキは表情を強張らせ部屋を出て行き、それからしばらく戻らなかった。

リビングではなくユウキの母の部屋で話し込んでいたのだろう。話し声は聞こえなかった。

事務所の話、それから私のこと。

私にはそれらが少しでもポジティブな内容であってほしいと祈ることしかできなかった。

手持ち無沙汰で落ち着かない。

こんな時私はいつもどうしていただろうか。

携帯……今朝バッグから取り出してはみたものの、充電は切れかけていて一度も開いていない。

充電器に繋いでみる。

開くのが怖い。

充電中を知らせる赤いランプだけが虚しく光っていた。


今日は暑い。ユウキがいれば冷房は肌寒いほど強くかけられている。

弱くかけられた冷房は、鈍った私に夏を思い出させた。

低い温度の中で毛布にくるまって眠ることに慣れつつあった。

自然に抗う愚かな行為。破滅的な贅沢。

それはユウキが隣にいるからこそ。

部屋から出ることも出来ず、私は片付けたばかりのスニーカーの雑誌だとか、CDだとかを手に取って眺めた。

この部屋の棚には漫画や雑誌の他に、台本らしきものも並んでいる。

私は何となく手に取って表紙だけ見て棚に戻した。

知っているタイトル。

子役の頃に出たとか言っていたっけ。

勝手に見たらいけないものだろう。

だからといってユウキに直接、見せてくれと頼み込むのは恥ずかしかった。

ミーハーだと思われるのは癪である。

見上げたカーテンの向こうの空はまだまだ青い。


「レイネ」


ドアを開けるなりユウキは強い声で言った。

私は驚いて跳ね上がった。

ユウキは微笑んでいる。


「買い物行こ」


不自然なほど陽気であった。妙な気迫に押されて私は頷いた。

ユウキたちの会話はなんだったのか。

この様子では全く読み取ることが出来ない。

空元気?やけっぱち?

私はユウキに手を引かれ、半ば無理やり外へ連れ出された。


「何食おうかなぁ、レイネ何作れる?」


清々しさとは少し違った、おかしな高揚感。

ユウキが笑顔であるならいいけど、でも……。

暑さでクラクラと目眩がする。

いや、暑さだけじゃない。ユウキの変化にも。


「なんだろ……ユウキが食べたいものなら頑張ってみるけど……」


「マジで?じゃあ、ハンバーグがいい!」


「あ、うん、作れるよ」


何かがおかしいのはわかっていた。

「何か」を知る手立てがなかった。

肌がジリジリと痛む。日射は私の不安を駆り立てる。

蒸し暑い空気も、バカみたいに大合唱するセミの鳴き声も、車の音も、すぐ隣でにこにこと微笑むユウキも、まるで現実じゃないみたい。


「ユウキ……?」


「ん?」


綺麗な目。色を失くしたその目。

私はユウキの手を掴んだ。

温かい。固い。じわりと汗が滲む肌。


「なんか、言われた?」


私たちはいつも以上にケラケラとくだらない話で笑い合った。

上手く出来たハンバーグ。ユウキは子供みたいにはしゃいでいた。

ユウキの母は出掛けていた。二人きりでゲームをしてドラマを観て、ユウキの提案で二人でお風呂に入った。

広くはない浴室が一層狭く感じた。明るいところで一糸まとわぬ姿を曝け出すことへの抵抗が消えていった。

私たちは浴室の橙の照明の下で濡れた肌を重ねた。暑くて熱くてのぼせてしまった。

強すぎる冷房に濡れた髪はすっかり冷えた。何度も何度も、しつこく口づけて体の中だけ熱を取り戻した。

灯りを消した。二人で目を閉じた午後9時。


昼間、ユウキは私の問いかけをはぐらかした。

「別に、何も言われてないよ」と言って笑った。

あの張り付けたような笑みで。

私はそれ以上聞いてはいけない気がして「そっか」とだけ返した。それから全部を忘れるために、ユウキのように笑った。

何も言われてないわけないのに。


ブーブーとバイブ音が鳴り響いている。

そのうち止まるだろうとたかを括ってまた意識を手放そうとしたが、あまりに長く、繰り返し鳴り続けるから目を覚ました。

部屋は暗い。コンポの青いライトだけが光っている。

隣にはユウキ。すやすやと規則正しい寝息をたてている。

何故だかその恐ろしく整った寝顔が悲しかった。


バイブ音は充電器に繋ぎっぱなしで床に転がっていた私の携帯から聞こえてくる。

寝ぼけていた私の頭に一つの予感が突き刺さる。

途端に目が覚めて、体中が痺れたような感覚に陥った。

勢いよく起き上がった。冷や汗が背を伝う。

鳥肌が立った。

ベッドから降りてよろよろとよつん這いで携帯に近寄った。

ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。

全身が脈打って震えている。息が上手く出来ない。

鳴り止まないバイブ音の中、そっと携帯を開く。

予感を確信に変えたその一言。

「着信 母」

ギャッと叫び出してしまいそうになった。しかしあまりの恐れに私は声が出なかった。

どうしよう、どうしよう、どうしよう、お母さん、怒ってる、帰らなきゃ、嫌だ、怒鳴られる、殺される……私の頭の中で今すぐ電話に出るべきか否か、ぐるぐると私を罵倒し殴りかかる母の顔が回り続けている。

誇張抜きで手はブルブルと震え、肩で浅い呼吸を繰り返した。

留守番電話に繋がるたびに母は電話を切り、また掛け直す。

終わらない。逃げられないのだ。

私はすっかり感覚を失った指先でどうにか携帯を握り締め、ベッドに眠るユウキのもとに慌てて駆け寄った。

ベッドは軋み揺れる。ユウキが顔を顰める。

私は空いた片方の手をベッドに這わせ、探り当てたユウキの手を握り締めた。

寝ぼけているのか、ユウキは小さくくぐもった声を出したっきりだ。

ユウキ、ユウキ、ユウキ!

声に出せない。目を瞑りなんとか呼吸を整えようと試みる。バイブ音。母。

頭はパニック状態で上手くいかない。

ユウキにこんなところを見せたら迷惑をかけてしまうかもしれない。嗚呼でも目を覚まして。覚まさないで。

情けなくて怖くて、目の前はぼやけて来た。バイブ音は鳴り止まない。

ユウキが俳優を辞めてしまったら。それでも私はそばにいるよ。

今思ってること全部全部、言ってみなよ。

私は昨日の出来事を思い出していた。

全部全部、言ってみなよ。

私がユウキの背中を送り出した時、その言葉に嘘はなかった。

私だってそれは同じこと。

暗がりを照らすのは携帯のディスプレイ、コンポの青い光。

ぼんやりと浮かび上がるユウキの白い肌。

ユウキの手を一層強く握り締めた。

滲む文字。私は通話ボタンを押した。


耳が壊れるんじゃないかと思うほどの怒声。

懐かしさを感じるより先に、頭の中は真っ白になった。

気付けば私は泣きながら「かえらない」と繰り返し叫んでいた。

ユウキが目を覚ました。

私の顔を覗き込んでいる。


「そういうところが嫌なの!!」


感情にまかせて電源ボタンをぎゅっと押す。

真っ黒になった画面。閉じもせずに携帯を放り投げた。

携帯は少し先の床に叩きつけられた。

ベッドに突っ伏して私は泣き続けた。

消えて欲しいのに先程の罵声がリフレインする。

私は生きる価値のない人間だ。私が産まれたせいで母は何年も離婚出来なくなった。

ゴミみたい。私の名前だって、父の親族が勝手につけた。レイネなんて似合いもしない名前。親族と縁の切れた今、由来もわからない。

妹の名前は母が付けた。母によく似た顔立ちで、明るくて、人の顔色を伺ったりしなくて、アケミという母の名前から一文字取ってマユミと名付けられて。

家族で一人だけ、父の祖母に似た私の顔立ち。

レイネ。除け者みたいな名前。

ユウキは私の頭を撫でた。

強くなりたかった。ユウキの悲しみも不安も受け止められるくらい。

私は弱い。弱くてなんの力もない。それどころかこうやって庇護されなければ生きていけない。

ワァワァ泣き続けた。


「……レイネ」


大嫌いな私の名前。貴方が呼んでくれる。


「二人でさ、生きていこう」


か細いユウキの声。

昼前、聞けなかった話。多分これがその答えだ。

ずっと繋がれたまま手にユウキは力を込めた。


「今すぐは無理かもしれないけど、ここじゃないところで、二人で……」


ユウキは震えた声を詰まらせ、口をつぐむ。

手を引っ張られ、私はようやく顔を上げ、ぐしゃぐしゃの顔でベッドに潜り込んだ。

交わる行為よりも一つになりたくて、私とユウキは体が痛むくらい力強くいつまでも抱き合った。

肌に互いの肌が食い込んで、骨まで軋むんじゃないかと思うほどきつく。

このまま溶けてなくなってしまいたい。

私とユウキという存在がこの世界から消えて、何もかものしがらみから開放されて、ただ愛しい気持ちだけが残ればいい。

幼く無知で無力な私たちは、途方も無い明日を呪った。

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