18 予感

私たちは憂さ晴らしに好きな曲を延々と聴いた。

ここの歌詞がいいだとか、声がいい、歌い方が、ギターソロが……空が白み始めた頃にようやく手を繋いで眠るまで、それはうわ言のように続いた。

私はユウキが事務所に行くことをやめて、俳優を辞めると言い張る夢を見た。


アラームで目が覚めた。

午前9時。

ユウキは昼前に原宿にある事務所に行くのだという。

眠い目をこすって二人で起き上がる。

昨夜の勢いはどこへやら、私とユウキは口数が少なかった。

ユウキが身支度をする間、暇を持て余していた私は洗濯を回した。

洗濯ものを放り込んでスイッチを押して、洗剤を入れるだけだが何もしないよりましだった。

いつの間にかユウキの前でもすっぴんでいられるようになった。

「すぐ帰るから」


ユウキは心配そうな顔をして、私の頭を撫でた。

心配なのはこっちの方なのに。

これからユウキは過去を捨ててしまうかもしれない。

私の想像を超えた未来が待ち受けているかもしれない。


「うん。気を付けてね」


私は気丈に振る舞った。

ユウキがスニーカーを履いて、玄関ドアを出て、そしてドアが閉まるまでずっと見送った。

ドアが閉まると、途端に心細くなる。

私はこの家に来て初めてユウキと離れ離れで過ごすのだ。

広い東京で独りぼっちになった気分。

洗濯を終える機械音が鳴り響いた。

洗濯物を乾燥機にかけて、昨日作ったカレーを温める。

なんてことない一日。こんなことは家でもあったことだ。

それなのにどうしようもなく寂しくなるのは、ユウキを知ってしまったから。

何時に帰って来るのかわからない。

それまでここで何をして過ごそうか。寝ていようか。

ユウキと離れて過ごすことへの不安や緊張でとても眠れそうにはなかった。

乾燥が終わったら畳んで、カレーを食べたら皿を洗って、それから部屋のゴミをまとめて、あとは……。

多めに作ったカレーはまだ残っている。

火を止めたところで、ガチャリと部屋のドアが開く。

ユウキの母が部屋から出て来た。


「おはよう」


素顔で眼鏡をかけた姿に私の方が気まずくなって、目線をそらしながら「おはようございます」と返した。

そうだ、この家にはユウキの母もいる。

しかも必然的に二人きりである。


「ユウキ起きられたのね」


「あ、はい」

どうやらユウキの母は事務所に行くことを知っているようだった。

そういえば昨日ユウキが、事務所の専務の知り合いで……と言っていたんだった。

この部屋のことも関わって来るだろうし、連絡はユウキの母にも入っていたのだろう。


「カレー?レイネちゃんが作ったの?」


ユウキの母はこちらに近寄ってきてしげしげと鍋の中を覗き込んだ。


「はい。あの、勝手に台所使っちゃって、すみません」


「ああ、別にいいのに。ねぇ、頂いてもいい?」


思いがけない言葉に私は驚き、ただ首を縦に降った。

私がテレビの前のローテーブルで、ユウキの母が台所に椅子を持って来てそれぞれが食べるという奇妙なブランチ。

ナナミの家で取った食事を思い出して、懐かしいような、苦いような、何とも言えない時間を過ごした。

「……ごちそうさま、美味しかった。ありがとうね」


ユウキの母が流しに皿を入れる音を聞き、私も皿を運んだ。


「いえ、こちらこそ、色々貸してもらってありがとうございます」


皿を洗おうと蛇口に手を伸ばすと、ユウキのは母は「いいからいいから」と先にスポンジを持ち蛇口を捻った。


「レイネちゃん、何歳?高校生?」


皿を洗うユウキの母を私は後ろから見ていた。


「……16歳です。高校二年生で……」


「ユウキの一つ下なのね。今は夏休み?」


「はい」


「高校楽しい?」

「……それなり、です」


もう高校に行く気なんてこれっぽっちもなかった。

楽しいか楽しくないかなんて今更であった。

だというのに私は曖昧な返事をしてしまった。


「料理、得意なの?」


「いえ、得意というか、家でたまにやってて」


「お手伝い?」


「うち母子家庭で……」


ユウキの母はくるりとこちらを振り返った。


「あら、そうなの?」


私はおずおずとうなずいた。


「そう……うちと同じね」


ユウキの母は向き直り水を止め、皿を水切りカゴに並べた。

「そっか、それなら家事も慣れてるよね」


皿を拭きながら、ユウキの母は呟くように言った。

私はその一挙一動を固唾を飲んで見守っていた。

この生活について、いや私の家のことについて何か切り出されるんじゃないかと、そればかりが頭を駆け巡っていた。

出て行けと言われるかもしれない。母親について何か言われるかもしれない。またあの家に帰らなきゃいけなくなる。無断でこんなに長い間家を空けて、帰ったら何をされるんだろう。それよりユウキに会えなくなる。それだけは嫌だ。

溢れ出しそうな不安。僅かな震え。


「……さて、ユウキが帰って来るまで何か予定ある?」


くるりと振り返った。

私は緊張から強張った体をどうにか動かして首を横に振った。

目を合わせることも出来ず、俯いて足元ばかり見つめた。


「お願いがあるんだけど。ユウキの部屋、少し片付けておいてくれないかな」

あの子あたしがやると怒るから、とユウキの母は続けた。

突拍子もないことを言われ、思わず顔を上げる。

目前のユウキの母は「掃除機そこにあるから、よろしくね」とだけ言うと部屋に戻ってしまった。

ドアの閉まる音が虚しく響く。

呆気なく過ぎ去った時間と、突飛なお願い。

私はしばらく立ち尽くしたまま、先程のやり取りを何度も思い返していた。


乾燥機から取り出した服やタオルを畳み、空になったカレーの鍋を流しにつけ置き、言われた通りに私は掃除をし始めた。

掃除といってもゴミをまとめ、CDや雑誌を元に戻し掃除機をかけた程度である。

シーツや枕カバーなどを引っ剥がし、洗濯しようと部屋を出たところでユウキの母とかち合った。


「今洗濯機使ってるから置いといてくれる?」


「あ、はい」


シーツ類を置いてすごすごと部屋に戻ろうとしたところ、後ろから呼び止められた。

「レイネちゃん」


足を止め振り向くと「本当に掃除してくれたのね」とユウキの母は笑っていた。

何かおかしなことをしただろうか。もしかしてからかわれただけだったのかもしれない、とここでようやく気付いた。

私は「はい」と力なく愛想笑いを浮かべた。


「まあいいわ、ありがとう」


釈然としないが適当に会釈をして私は部屋に戻った。

リビングのゲームやDVDを片付け、洗濯したばかりのシーツをベッドにかけ、暇になった私はユウキの部屋で一人うとうとと睡魔に襲われていた。

時計を見れば午後2時をすぎていた。

いつも私たちが起きる頃である。

ユウキ。事務所。今日のご飯。暑さ。ユウキがいないから今日は冷房が控えめだ。買い物行かなくちゃ、玉ねぎまだあった、なにつくろう、ユウキ、ごはんたべたかな……。

ついにベッドの上に寝転がって私は目を閉じた。

ベッドが広い。

落ち着いて眠れる。何日ぶりだろう。


夢とも現実ともつかない微睡みの中で、私は家にいた。

ユウキと二人、私の部屋でキスをして、そして笑っていた。

「レイネ」


私を呼ぶ声。重み。暑い。いや、熱い。

目を開けた。


「ただいま」


ユウキが私の体の上に乗りかかるようにして私を抱き締めている。


「……おかえり」


私は子供みたいに抱きついているユウキの髪を撫でた。

慈しむとはきっとこのことなんだろう。

胸に顔を埋めているユウキの重さだとか熱さだとかは些細なことに思えた。


「どうだった?」


ユウキは顔を上げた。

長いまつ毛。切れ長の美しい瞳が私を見上げている。

睨むようにも見えるその鋭い瞳。


「……疲れた」


二人でのそのそと起き上がる。

ユウキは何も言わないまま、座って部屋を見渡した。


「片付けた?」


「うん。ユウキの……お母さんに頼まれたから」


「は?」


「暇だったし、掃除機かけたくらいだけど」


ユウキは何か言いたげだったが、ため息を吐いて黙ってしまった。

飲みこんで堪えたであろうその言葉を想って、私は何とも言えない焦りを感じた。

ユウキにそんな顔をさせたくない。


「あ、そうだ、今日何食べたい?簡単なやつなら作れるよ」


私はここで生きていく。ユウキの瞳が熱を失わないように。

それが私の役割なんだ。

私の問いかけにユウキの表情は軟化する。


「……レイネ凄すぎ、家のことなんでもできんの?」


「そうそう、なんでもできるから。昼寝もできるし」


「俺もしかして寝てるかなと思ってたんだよね。帰ったらマジで寝てて笑った」


「ごめん、寝る気はなかったんだって」


ケラケラと笑いながら話すユウキを見て私はようやく安堵した。

これでいい、大丈夫。

こっそり胸を撫で下ろして矢先、部屋のドアをノックする音が響いた。


「ユウキ、ちょっと来て」


ユウキの母の声であった。

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