17 追憶

勝手の違う台所とはいえ、基本的な調理器具と鍋さえあればカレーは出来る。

私が野菜を切ったり炒めたりしている間、子供のように後ろでちょろちょろと覗き込むユウキはとても無邪気に笑っていた。

邪魔しないでと苦笑いすると、邪魔してないと言い張ってみせる。

慣れない状況に若干の緊張を覚えながらも、無事にカレーは完成した。

久々に取る温かい食事。

不意に家を思い出した。

台所に立つ母。男と会ったばかりで上機嫌。

父親がまだいた頃。まだ地方都市に住んでいた。

東京の家。幼い私。


「レイネ天才じゃん」


ユウキの声に我に返った。

皿を洗いながら「説明通りに作っただけだよ」と返事をする。

ユウキはソファに座って私の方を眺めていた。


「マジで美味かった、食いすぎたー」


食べている途中でもこの調子でしきりに私を褒めてくれた。

元々ユウキはよく食べる方だが、今日は特によく食べた。

カレーが好きらしい。


「でも勝手に台所使って大丈夫かな?」


水切りかごに食器を重ねた。

今更ながらユウキの母の許可を取るべきだったと思った。

見ず知らずの女が転がり込んでおいて台所の一つや二つという話ではあるのだが。


「いいんじゃね。母さんもほぼ使ってないからさ」


ユウキの母は出勤前に自分用の弁当を作る他には台所を使っていないようだった。

休みの日やそれ以外の食事はどうしているのかユウキに聞いたところ、外で済ませてきたりユウキのように弁当を買って来るとのことだった。

仕事が忙しいため、洗濯や掃除なども空いた時間を利用してどうにかやっているのだろう。

料理というのは買い物と後片付けを含めると時間も手間もかかる。

疲れ切って苛立った母は料理をしながらよく悪態をついた。

代わりに私が作ると今度は味付けだとか後片付けだとか出費だとかの粗を探す。

昔は料理好きな人だった。いつからそうなったのか。


「いつぶりだろうなぁ」


ユウキも似たようなことを考えているようだった。

いつから変わったのか。変わったのはそれだけじゃないだろう。

ユウキの綺麗な目は時折、凍えるように冷たい夜を映した。

ほんの一瞬だけ、遠くを見て寂しい顔をする。

私は何も言えなくなる。


二人でゲームをしたり思い出したように戯れあっているうちに、ユウキの携帯が鳴った。

ユウキは最初、その着信の表示を見て無視をしようとしたのだが「出なくていいの?」と私が言って渋々電話に出た。


「……もしもし、おはよう御座います。お疲れ様です……はい、はい……」


鈍い私でもきっとこれは仕事関係の電話だろうと気付いた。

ユウキは携帯片手に立ち上がり、自分の部屋へと入っていく。

パタンと静かに閉められた扉。

私はなるべくその声を聞かないようにしながら適当にゲームを再開した。

勿論音量は下げて。

ドアの向こうからユウキの声は聞こえるが、何を話しているのかはまるでわからない。

この享楽的な生活は私だけではなく、ユウキにとっても許されざるものである。

私はまるで自分のことのように嫌な焦りを感じていた。

最早充電すらしていない私の携帯。

バッグの奥底に眠っている。

ゲームを進めながらも頭の中はユウキの電話の内容と携帯のことで埋め尽くされていた。


しばらくしてユウキは静かに部屋から出て来た。

時間にして15分ほどだっただろうか。

冷蔵庫の中の飲み物を取り出す音、ため息。

ようやく私の隣に座ったユウキの顔色は冴えない。


「……大丈夫?」


私はゲームを止めた。

ユウキは何も言わずに頷いた。

前向きな話をされたわけではないだろう。

そんなことはこの反応を見れば誰だってわかる。

問題はその話の内容が、果たして田舎者で無知な素人の私にどこまで理解できるか。

そもそも口を突っ込んでもいいのかどうかであった。

薄っぺらい慰めの言葉は、かえって彼を傷つけてしまいそうだった。


「お仕事の話、だよね……」


おずおずとたずねた。

ユウキは携帯をテーブルの上に置いてまたため息を吐いた。


「明日、事務所来いってさ」


私の返事を待つより先にユウキは続けた。


「今の事務所の社長に用意して貰ったんだよ。この部屋」


私は黙って話を聞くしかなかった。

ユウキは少しずつ饒舌になってゆく。


「専務が母さんの知り合いでさ。縁っていうのかな、そういうので事務所入って仕事も貰えて……俺ってなんなんだろうな。芸歴ばっか長くなって、何がしたいのかよくわかんねぇまま、誰かに貰ったもんでずっと生きてて」


自嘲気味に笑うユウキの目は今までのどの瞬間より鋭く、凍えてしまいそうだった。

熱っぽく演技について語って、映画やドラマの名前を挙げていたあの時が頭を過ぎる。

私から見ればユウキは充分すぎるほど役者に対する情熱を持っていたように思う。


「俺じゃなくてもいいのに」


吐き捨てられた言葉は痛々しい。

私が彼に何を言えるだろう。

不均等だった当たり前が崩れて、知らなくていい孤独を知っているのは同じだ。

でも目には見えない物が私たちを隔てている。

本来交わらないものが交わってしまったのだから。

私は覚悟を決めた。


「私、ユウキが好きだよ。演技してるユウキは知らないけど、でも、きっとそのユウキも好き、だと思う」


上手く伝えられないのがもどかしい。

本当は山程言いたいことがあった。

どれもユウキには言えないけれど、それでも胸の中をぐるぐる渦巻く感情の綺麗なところをちゃんと掬って差し出さないと。

ユウキは何も言わないで俯いている。


「明日、ユウキの今思ってること全部全部言って来なよ」


私にはこれが精一杯だった。

これ以上何か言おうとすれば綺麗事が混じってしまう気がした。

ユウキは顔を上げ、乱暴に私を抱き寄せた。

驚いたせいなのか、そうじゃないのか、とにかく心臓がバクバクと暴れている。

体温。息遣い。髪が肌に触れる。

骨っぽい腕と肩。痛いくらいだ。


「俺がやめたらどうする」


乾いた笑いとともに、ユウキは低い声で呟いた。


「やめても、ユウキとずっといるよ」


安心させたくて囁いた言葉は自分でも驚くほど優しく、しなやかに空気に溶けた。

嘘なんか一つもないセリフはこんなにも飾らずに生まれて消えるんだ。

朧気な未来でも、曖昧な自信でも何でも一切合切包み込めたなら。


「……ありがと」


もっと強くなりたかった。

ユウキの唇が私の首筋を這う。

ユウキが二度とあんな目をしなくてもいいなら、それでいいんだ。

緩やかに視界が変わり、不格好な姿勢でソファに倒れ込んだ。

天井照明が目に焼き付いて青白く残像が舞っている。

体の上に乗ったユウキの重み。熱さ。

私は目を閉じた。

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