16 猫

私たちがシングルベッドに潜り込むのは空が白み始めた頃。

目を覚ますと午後を回っている。

堕落しきったサイクルが根付き始めていた。


携帯を開いて確認すると、午前中にユカさんから着信があったようだった。

そういえば昨日、なんと返したらいいものか考えあぐねて結局メールを返すのを忘れていた。

ユカさんにしろ母親にしろ、後回しにし続けたら問題が解決するわけじゃないだろう。

どうしたものか考えているうちにユウキが目を覚ます。


私は携帯を閉じた。罪悪感ごと全て閉じ込めてしまえ。


「カレーか……」


テレビを見ていたユウキがぽつりと漏らした。

私たちはソファの上で何をするでもなくテレビを見ていた。

ユウキの母は身支度している。夜勤だという。

どうもこの頃は今よりも看護師の勤務形態が過酷だった。

ましてやユウキの母の勤め先の病院は名前を出せばすぐにわかるほど忙しい病院であったため、休みらしい休みは月に片手で足りるほどしかなかった。

しかし後から考えると、これはユウキの母の現実逃避のようなものだったのだと思う。

この時の私は都内で病院勤務というのはさぞや大変なのだろうと、それしかわからなかったのだが。

話を戻そう。

ユウキがなんの気無しに呟いた言葉。


「カレー食べたい?」


私も特に深い意味もなくそう返した。

ユウキは少し照れたように笑った。


「あー、うん。最近食ってないなぁと思って」


恐らくユウキが言っているのは手作りのカレーのことだろう。

テレビの中ではカレーに使う肉がどうとか、そんなテーマでバラエティ番組が進行している。


「ユウキは料理するの?」


「料理?全然」


母子家庭とはいえ、去年から始まった生活だろうし料理の習慣がないのは仕方がない。

躊躇なくコンビニに行く辺り、なんとなくそんな気はしていた。

こうもコンビニ食ばかり続くと、流石に金銭的な心配ばかり頭をよぎる。

私が貧乏性なせいなのかもしれないが。


「カレー作る?」

私が冗談交じりでそう言うと、ユウキはパッと目を輝かせた。

いつもやや眠そうにも見える目が大きく見開かれ、黒い瞳がきらりと輝く。

まるで猫のようだ。


「マジ?」


「食べたいなら作るけど」


カレーくらいなら失敗することもないし、と続ける。

ユウキは背をもたれかけていたソファから飛び起きるように身を起こした。


「食べたい」


音楽の話をしていた時と同じくらい無邪気な表情に、私は思わず噴き出した。


「いいよ、作ろうね」


私たちは一先ず買い物に行くことにした。

初めて私はコンビニと部屋以外のこの街を知る。

1kmにも満たない狭い行動範囲。

電車は一時間に一本、どこへ行くにも車なしでは生きていけない田舎とは違って、東京という街は手を伸ばせば何にでも届く気がした。

今は手を伸ばせばユウキに触れられる。

夏の午後、熱を持ったアスファルトは凶器のよう。

背の高いコンクリートとガラスに囲まれ、この場所を取り囲む空気ごと蒸されている。

容赦なく照り付ける太陽はビル群に阻まれて路地に大きな日影を作る。

日影という逃げ場があるようでいて、纏わりつく熱気からは逃げられない。

車のフロントガラスから照り返す眩しさに目を細めた。

この反射光を見続けるのと、照り返す雪原を見るのとどちらが目に悪いのだろう。


私とユウキはただ目的地を目指し歩いた。

シングルベッドに二人で寝るというのはなかなか体が休まらない。

流石に疲れが出始めている。

もう少し暗くなってから出てくればよかったかもしれない。

でもまだ起きてから何も食べていないし、何よりユウキも私も一緒に料理をすることが楽しみで仕方なかったから善は急げで衝動的に家を出た。


いつか私もこの街の景色を見慣れる日が来るのだろう。

スーパーまでの道のりを覚えておかなければ。

駅やコンビニとは逆方向の、私の知らない東京。

スーパーの中はよく冷えていて、思わず身震いするほどであった。

カゴを手にしたユウキと一緒に、ああでもないこうでもないと野菜を選ぶ。


「何カレーにする?」


「え、カレーって何とかある?」


「え?あるよ」


トッピングがどうとか、使う肉はどれだとか、他愛もない会話が何故だかくすぐったくてたまらなかった。

所帯染みたやり取りが私たち二人を当たり前にしていくようで、お酒を飲んだり夜出歩くよりもずっと大人になった気がした。


この店の中にいる誰もが私たちのことを知らない。

どうしてここにいるのか、どうやって生きているのか。

淡々とレジを打つあの人も、袋詰をしながらこちらをちらりと見たあの人も、私たちがどうして買い物をしているかなんて知りやしない。

ここにある事実は若い男女が料理のために買い物をしているということ。

この街ではそれは珍しい光景でもないのだろうし、皆他人に興味もないのだ。


「ナントカ中学に通っていたナントカさんが男と買い物に来た」「あいつはどこそこの家に住んでいて」「この人の親は何年か前まであの店に勤めていた」なんてバックヤードでやいのやいの言われることはない。

張り巡らされた監視の目から解放されるなら、この凶器のような暑さに身を灼かれても構わない。


「婆ちゃんがよく作ってくれたんだよな」


帰り道、ユウキが言った。

日差しはまた容赦なく私たちに降り注ぐ。


「カレー?」


「そう。引っ越して来る前は婆ちゃんと爺ちゃんの家の近くに住んでてさ」


母さんが仕事で遅い時はよく行ってたんだ、とユウキは続けた。

細いくせに、軽々買い物袋を持っている。

コンビニのものとは違うビニール袋を持つ姿は何だか新鮮だった。


「今も会ったりするの?」


「んーん。会ってない」


「そっか」


「なんでとか聞かないの?」


ユウキは苦笑している。

点滅していた信号は目の前で赤に変わった。


「……なんとなくわかるし。お父さんの方のお婆ちゃんだったんでしょ」


「おー、正解」


その話には身に覚えがあった。

私を特に可愛がってくれた父方の祖父母とは既に交流が途絶えてしまった。

毎年会いに行っていたのに、両親の離婚後は一度も会っていない。


「レイネは会ってんの?婆ちゃんと」


「会ってない。会いに行くの面倒くさくなっちゃって」


「わかるわ。色々な」


そう。色々と面倒くさい。

適切な言葉を知らない私たちは、その一言で片付けた。

セミの声。車の音。全てに言葉を当てはめるよりもずっと複雑で厄介な一言。


「婆ちゃん家の猫可愛かったんだよなぁ、あいつ元気かな」


「猫好きなんだ?」


「俺犬と猫だったら絶対猫派、レイネは?」


「私も猫派」


信号が変わって、並んで歩き出す。

猫を飼いたい。どんな猫がいい?ハチワレが可愛い。黒猫もいい。寝てる時に潜り込んで来るんだ。

私たちはいつか猫を飼おうと約束した。

今のマンションから出る必要があるけど、ペットが飼える部屋に引っ越そう。

いつになるかもわからない。

具体性なんて一つもないいつかの夢の話。

何にも見えない明日にぼやけた輪郭が出来たようで嬉しかった。

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