15 始まり
目が覚めた。外はまだ明るい。
下半身に鈍い痛みを感じた。
体が固いせいだろう。あんな体勢になることなんてそうないし……と思い返して、たまらなく恥ずかしくなった。
隣のユウキは静かに寝息をたてている。
長いまつげ。綺麗で愛おしい横顔。
いつまでも眺めていられる気がした。
しかし下半身の、特に腹部の鈍痛が私を現実に引き戻す。
私はユウキを起こさぬよう、慎重にベッドからおりた。
床に散らばった服。
拾い集めながら、脱がされた瞬間がフラッシュバックする。
服を着てトイレに行ってみるとほんの少し出血していた。
あれだけ痛かったんだから当然だ。
どこか冷静に受け止めている私がいた。
バッグの中に予備で持ち歩いているナプキンがあったはず。
私は一度トイレを出てからナプキンを取り、またトイレに向かった。
トイレから出てリビングの時計を見ると、12時であった。
また変な時間に寝てしまった。しかも結局コンビニにも行ってない。
ユウキはまだ寝ている。
わざわざ起こすのも可哀想だ。起きてきたらコンビニに行こう。
ユウキの部屋に戻って、床に腰をおろしベッドに背を預けた。
携帯を開くとユカさんからメールが来ていた。
「充電器借りたからフッカツ」「ばあちゃんは心臓発作だったみたい」「明後日帰る予定」「新幹線乗ったら連絡して」
新幹線にはもう乗らないんですと返したらユカさんは驚くだろうか。
なんて返したらいいのかわからないまま、文字を打っては消した。
充電が切れていたことにして後回しでもいいかな、なんて考え始めた頃、ユウキがもぞもぞと寝返りを打った。
振り返るとこちらを向いて眠そうに、少しだけ目を開けたユウキと目が合った。
白い肌、浮き出た鎖骨、肩。
「……おはよ」
低くて甘い声。
見惚れてしまったことも、その前の行為も全て恥ずかしくて目をそらしてしまった。
「おはよう」
「……いなくなったかと思った」
「いるよ」
なんだかくすぐったくて二人で小さく笑った。
私たちは暑い日差しを受けながら、昨日とは少し違った足取りでコンビニに向かった。
会話は要らなかった。顔を見合わせて笑い合うだけでいい。
不安と緊張で曇っていた視界は一気に開けた気がした。
行き交う車も、人も、鳥も、木々も、ビルも、空も、全てが新鮮だった。
明日のことも、いや、一時間先のことも考えられない。
考えたって仕方がないから、私とユウキは享楽的であった。
二人きりの家。予定もなく、邪魔するものもなにもない。
興味と欲、本能。
「……ユウキ」
「なに」
冷えた部屋。ベッドの上で私は毛布にくるまった。
ユウキは丸めたティッシュをゴミ箱に放り投げ、私と同じように毛布に入って寝転がる。
「本当にしたことなかったの?」
ユウキは噴き出した。
「ないよ、悪いかよ」
「悪くないけど、モテそうだし……」
ユウキは私の頭を掴んでキスをした。
「……モテそうとか初めて言われた」
大きな目。黒目には私が映っている。
「えー、だってユウキ優しいし、かっこいいし、合コンとか、結構誘われてそうだし」
「ないない。褒めすぎだって」
ユウキは中学生の頃は部活に夢中で、高校に通っていた頃は仕事、それから男友達と遊ぶばかりだったという。
高校を辞めた後もたまにレッスンに通って、俳優仲間と遊んで、人数合わせの合コンでは黙って時間が過ぎ去るのを待っていたと。
この前のカラオケの記憶を辿る。
私が話しかけない限り、ユウキとはあのまま言葉を交わすことはなかっただろう。
ユウキは繊細だった。
同年代の男の子よりもずっと。
リビングでテレビゲームをしていると、ユウキの母は帰ってきた。
私の姿を見て何を思ったのだろう。
「ただいま」とだけ言って、後は何も言わなかった。
ここで生きていく、なんて勝手に決めてはみたものの家主はユウキの母だ。
ユウキも養われている身である。
私たちに決定権などないことは分かりきっていた。
私がそっとユウキの方に目配せすると、ユウキも私をちらりと横目でこちらを見た。
この時私はどんな顔をしていたのか。
きっと私の中の不安がこれでもかとあらわれていたに違いない。
ユウキは意を決したようにコントローラーをテーブルに置いた。
「……洗濯物は?出しておいて」
先に口を開いたのはユウキの母の方だった。
ユウキは振り返り「おう」と小さく返事をする。
私は今どうしたらいいのか、そればかりがぐるぐる頭を巡っていた。
結局この日、ユウキも私もここで暮らしていくという話をすることは出来なかった。
この日だけではない。ずっと口に出すことはなかった。
とにかくタイミングを失ったため、ズルズルと私とユウキとユウキの母の奇妙な生活が始まった。
確かに居心地は悪い。
だがユウキと過ごす間はそんなものはすぐにどうでもよくなった。
ユウキの服と一緒に私の溜まっていた洗濯物も洗濯機に放り込んだ。
洗濯くらい自分の家でもやっていたし、もし許されるのであれば明日から洗濯は手伝わせて貰おう。
何も持たずにただ東京にいるというだけの私は、せめて少しでも役に立たなければと考えていた。
この現実離れした生活がどうなっていくのかは全くわからない。
でも私は本気で生きていこうと、ただそれだけだった。
「飯どうしよっか」
リビングでゲームを再開していたユウキが呟く。
ふとしたその表情、横顔、声。
帰らないでと言ったあの瞬間を何度も何度も思い出した。
胸の奥から湧き上がる思いは、私のこの愚かな在り方も、明日への不安も、殴られた痣も全て消し去ってしまう。
それどころか私は自然と笑みがこぼれて、緩む頬を抑えることで精一杯になる。
「どうしよう?」
「どっか食べに行く?」
「そうする?」
視線がぶつかる。綺麗な黒い瞳が私を捉える。
私がだらしなくニヤける前に、ユウキの目が孤を描いた。
何が楽しいのか二人で小さく照れ笑いを浮かべて、そうやって話は進まなくなる。
躊躇いがちにユウキは手を伸ばし、私の髪を撫でた。
「可愛い」
低く優しい声がする方をもう私は見ることが出来ない。
顔は熱く、頬は緩み、咄嗟に目を伏せる。
鼓動の数は一生のうち何回と決まっているという話はどこで聞いたのだっけ。
昔読んだ少女漫画だったか。
私はユウキと出会ってからずっと、こんなに早く鼓動を刻んでいるけれど、それは早く寿命が尽きるということになるんじゃないか。
嗚呼でもいつか来る寿命よりも、ユウキとここに居られる今の方が重要なことは確かだ。
僅かな後悔と、罪悪感、焦燥感には蓋をして、その上に二人並んで腰掛けて語らおう。
ユウキは私の髪を撫でる手を止めた。
私がおそるおそる視線を戻すと、やっぱり黒く輝く瞳が私を見ている。
互いに微笑んで、そっと口づける。
これを幸せと呼ばずして何を幸せと呼ぶのか。
夢を見ているみたい。
「……ごはんは?」
「あー、忘れてた」
私は、いや、私たちはこのふわふわとした夢心地の日々がずっと続いていくんだと、そう信じて疑わなかった。
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