14 リビドー
お風呂上がり、洗面台の鏡の向こう。
一日中化粧をしていたせいか、大嫌いな狭い二重幅がアイプチの通りに広がっている。
このままだったらいいのに。
どうせ少しずつ元に戻ってしまうのはわかっていた。
何度も瞬きをしては鏡を見る。
今だけだ。すぐに夢は覚める。
すぐにアイプチだけしようかと思ったが、まだ理想の私を味わっていたくて、そのまま髪を乾かすことにした。
あれ、そういえばドライヤー……ユウキがさっき部屋で使っていたっけ。
私は蒸し暑い洗面所を出た。
「ユウキ?」
リビングでテレビを観ていたユウキに声をかけた。
「ごめん、ドライヤー貸りたいんだけど……」
「ああ、ごめん、はい」
なるべくこの顔を見られたくなくて、俯きがちにユウキからドライヤーを受け取った。
ありがとうと告げて、そそくさと洗面所に戻ろうとした時であった。
「背中、大丈夫?」
私は足を止めた。
今日はタンクトップだから背中の痣は見えないだろう。
わざわざ触らない限り痛みは気にならない。
「うん、大丈夫。これなら見えないよね?」
服の裾を少し引っ張って示した。
ユウキが立ち上がった音。近寄ってくる。
「見えない」
後ろでユウキの声がする。
良かった、流石にあの痣を出して外を歩く気にはなれない。
「良かった、ドライヤー借りるね」
「あのさ」
私は歩き出そうとしたが、ユウキの言葉がそれを阻む。
濡れた髪が服を濡らして気持ち悪い。
背中が冷たくなってゆく。
「……俺の親、離婚したのって、その……親父が、母さんのことを、殴ってたからで……」
振り返ることもできない。息が止まるかと思った。
私は知っていたのだ、この話を。
父は、母をよく殴った。
物を投げつけて、怒鳴った。
壁に穴があいた。
「だからマジで、家族なのに暴力とか、許せないっていうか……母さんもレイネみたいな痣、出来てて、一人でさ、泣いてたんだよ」
割れた皿を集めて、母は泣いていた。
目を真っ赤にして誰かに電話していた。
もうだめかもと何度も何度も言っていた。
泣いてほしくなかった。
私は何も言えず、いつも黙ってその時間が過ぎ去るのを待った。
「絶対痛いしさ、怖いじゃん、大人が泣くって、相当じゃん」
ユウキは優しい。
ユウキの不器用だけど真っ直ぐな優しさが私の胸に突き刺さって、凄く痛い。
お母さんが心配だった。いつも完璧主義で怖い顔をするお母さんが泣いていた。
お父さん、お金だって使っちゃうし、お母さんが朝から晩まで働いてもいつもお金は足りない。
私立の受験は諦めて。高校を出たら就職して。
そんなことをお母さんに言わせるお父さんが大嫌い。
言い合い、怒鳴り声、何かが壊れる音を聞きながら私は怖くて泣いていた。
ああそうだ、私はあの時、母の無事ばかり祈っていた。
「俺もよく親父に怒られてたんだよ、でも痣なんてできねぇし、ガキだから手加減してたのかもしんない。でもマジで痛くてさ、腫れて変な色になるって、これよりもっと痛くて、怖いんだって思って」
痛いよ、凄く痛いよ。
柱に頭を打ち付けられた時も、ハンガーでめちゃくちゃに殴られた時も、平手打ちで鼓膜が破れた時も、椅子を投げられた時も、熱い湯をかけられた時も、痛くて怖くて。
痣だらけでも、腫れても、熱が出ても、しばらく動かせなくても病院に行けなかった。
うちにはお金がなかったから。恨むならお金を使っちゃうお父さんを恨んでと母は言った。
お金、ないわけではないのに、今も病院には行けない。
お母さん、私のことを最後に病院に連れて行ったのいつだっけ。
「なんか何言いたいのかわかんなくなっちゃった、俺、心配だよ、レイネ無理してるじゃん」
私は肩を震わせ泣いた。
声が漏れて、涙が止まらなかった。
お母さん、なんで、私のことを殴るんだろう。
私が憎いから、私が嫌いだから?
お父さんみたいに私はいつか……。
濡れた背中に体温を感じた。
熱いくらいに温かくて、背中の痣が痛んで、でもそんなことどうでもいい。
骨ばって硬い腕が私を包む。
びっくりして身体が強張った。
ドクン、ドクンドクンドクンドクン。
心臓が跳ね上がって、お腹の底の方が切なく痛む。
「ごめん俺……」
耳元でユウキが何か囁いて口ごもる。
心臓の音、きっとユウキに伝わってるだろう。
ユウキの呼吸する音、振動。
クラクラする。これは現実?
涙はまだ溢れ落ちて、何が何だかわからない。
でも今私はユウキに抱き締められていることはわかる。
ユウキ、何を考えてるのかわからない。
私は、ユウキが、好きだ。
好きで好きで仕方なかった。
どれくらい経っただろう。きっと僅かな時間であったが果てしなく長く感じた。
私が泣き止んでもユウキは私を抱き締めたまま、二人で立ち竦んでいた。
私は遠慮がちにゆっくりとユウキの腕に触れた。
「……あ、背中」
ユウキは背中の痣を思い出したのだろう、そう呟いたあとに体を離した。
体温が遠ざかって背中には濡れた髪の冷たさがもどってくる。
私も涙を拭って急いで振り返った。
「ごめん、痛かった、よね」
私は首を横に振った。
ユウキを見上げると、ユウキはいつにもまして綺麗で、切ない目をしていた。
ユウキの手が私の肩を優しく掴む。
胸の高鳴り、恋しい。
私は衝動に任せて目を閉じた。
柔らかなそれが唇に触れる。
肌と肌が触れ合うたった一瞬のことなのに。
その一瞬でどうしてこんなにも全てが満たされた気になるのだろう。
お腹の底の方は熱く痛んでくすぐったかった。
もう全部全部ユウキに溶けてしまいたい。
「……ユウキ」
私に出来るのは、物悲しい声で名前を呼ぶことだけ。
ユウキはもう一度キスをした。
誰もいない部屋。夏。傷。孤独。
衝動が爆ぜた私たちを止めるものなどなかった。
ああ、リビドーとはこういうものなのだろうと冷静に考えたりもした。
全ての悲しさ、憤り、淋しさ、恋しさ、欲をぶつけ合うように私とユウキは衝動に身を任せた。
ベッドの上で天井と、私を組み敷くユウキを仰ぎながら「したことない」とつぶやくと、ユウキは「俺も」と苦笑した。
私たちは恐る恐る幼い肌と肌を重ねて、そこに互いがいることを確かめた。
結果的に言えば私とユウキは行為を終えた。
あまりの痛さに後悔が頭を少し過ぎったが、ユウキが綺麗な目で私を見下ろして、悩ましげに肩で息をしているから耐えられた。
私はもう処女じゃないんだ。
毛布にくるまってぼんやりと考えていた。
漠然と、処女と非処女には大きな隔たりがあるものだと思っていた。
大人と小さな子供くらい大きな差があるんじゃないと。
しかしいざことを終えてみたらそれは地続きで、今は性交をした私がいるだけであった。
気恥ずかしくて私が背を向けていると、ユウキは私の痣を指でなぞった。
チリチリと微かな痛み。
そしてユウキの腕は私の体を掴まえて、そのまま抱き着かれた。
「帰んないで」
お腹の底、先程から痛いその場所が反射的に反応して余計に痛んだ。
これまでの私であれば、うんとか、いいよとか言っていただろう。
私はユウキが好きだ。好きで好きで、ずっと側にいたかった。
「……帰りたくない」
帰りたくない。このまま、二人でいられるなら、いつか終わりが来るまでずっと。
罪悪感はとっくの昔、ユウキに組み敷かれた時に捨てた。
ユウキのこと以外何も考えたくない。
私とユウキは寄り添って、微睡みに身を任せた。
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