12 紫
「明日、何時に帰るんだっけ?」
「お昼くらい、かな。新幹線の切符買えたらだけど」
「そっか」
「うん」
私とユウキはリビングでそれぞれが買った弁当を食べた。
正確にはユウキが全て支払ったため、私は選んだだけである。
断ったのだが「女子じゃん、だめだって」と強く拒んだため、仕方なく買って貰った。
ユウキに女の子扱いをされると何だかむず痒く感じた。
ユウキは最初に避けたミニトマト以外概ね食べ終えたようだった。
「トマト嫌いなの?」
私がなんの気無しにそう言うと、ユウキは静かに頷いた。
そのやけに神妙な面持ちがおかしくて、私は懸命に笑いを堪えた。
「トマトっていうか、野菜が嫌い」
「そうなんだ」
見れば弁当の添え物のキャベツもしっかり残っている。
ユウキは私の目線に気付いたのか、弁当の蓋に避けられたトマトを指差して「食べる?」と聞いた。
「うん。いいよ」
「え、マジ?」
「うん」
私が笑いながら言うとユウキは戸惑ったように「いやいや、いいから」と止めた。
元々野菜は好きだったし、私はミニトマトに手を伸ばしてひょいと口に運んだ。
蓋の中にヘタだけ返すとユウキは驚いたのか目を丸くしている。
酸っぱくてどこか甘い、青い香りが口の中に広がった。
「えー!トマト平気?」
飲み込みながら私はうんうん頷いた。
「美味しいじゃん」
信じられないといった様子でユウキは首を振った。
「ムリ、俺食えって言われたら泣く」
「そんなに?」
「超ムリ」
「なんか意外」
野菜くらい涼しい顔して食べそうなのに。
ユウキの細身の体からは想像出来ないが、本人は野菜や魚より肉と白米の組み合わせが好きらしい。
さっきも結構な量を食べていたし、所謂痩せの大食いというやつだろう。
体重計に乗って一喜一憂している私とは大違いだ。
そうこうしているうちに私もようやく食べ終えてごちそうさまでしたと手を合わせた。
久々にちゃんと味のする食事だった。
ユウキの母は私たちが買い物に行っている間にシャワーを浴びたのか、洗面所から出てくるところに出くわしたっきり奥の部屋から出てこなかった。
ユウキの母は長年看護師をしており、当時は看護婦長とかで随分忙しくしていたらしい。
夜遅くに帰って来ても翌日午前中から仕事に行くことはザラなんだとユウキは言っていた。
私は話を聞きながら、ふと母親のことを思い出した。
私の母親は自他共に認める完璧主義者だった。
いつだって一から十まで自分で決めた通りでなければ気が済まない人だった。
「東京に来る時、レイネの親心配してた?」
とりとめのない会話の流れで出た言葉に、私は考え込んでしまった。
母は絶対に心配などしていない。
私が母の決めた行動範囲内から出ていこうとしたから気に食わなかったんだろう。
一丁前に意思なんか持ちやがってと、そう思ったんだろう。
「……心配してないんじゃない?反対はしてたけど」
殴られ蹴られ、浴びせられた罵声。
一気にその光景が蘇った。
「連絡とってんの?」
「とってない。無理やり出て来たから」
「じゃあ家出じゃん」
家出。ああ、そうかこれは家出と同じだ。
アクシデントとはいえ帰るためのバスにも乗らず、お世話になる予定だった家からも飛び出して、私は昨日の夜合コンで知り合ったばかりの男の家にいる。
もしこのまま私が帰らなかったらどうなるんだろう。
あの完璧主義で体裁を気にする母親が警察に届け出たりするだろうか。
いや、私よりずっと可愛がっている妹が居なくなったならそうしただろう。
私が居なくなったなら母はユカさんを責め立てて、そしてどうにかここを突き止めて乗り込んで来るんだ。
罵声を浴びせ、ユウキのことも傷つけて、そうして私を連れ帰って、今度こそ殺される。
殺される。違う、私が自ら命を経つまで、ずっと続く。
「家出なんてしたらどうなっちゃうんだろ」
私が自嘲気味に言うと、ユウキは「どういう意味」と怪訝そうな顔をした。
余計なことを言ってしまった。
せっかく楽しい空気だったのに。
「うちの親厳しいから」
「へー、門限早いとか?」
「うん、まあそんな感じ」
私はヘラヘラと笑ってみせた。
ユウキは一瞬、納得がいかないといった表情を見せたが、ソファの背もたれにだらりと体を預けて天井を仰いだ。
「俺のとこはあんなのだからさ」
あんなの、とは先程のユウキの母の態度だろうか。
過干渉気味な私の母とは違って、随分ドライに見えた。
「昔はすっげーうるさかったんだけどな」
そう呟くユウキの横顔は、映画の中のワンシーンのようだ。
切なく鋭い横顔。長い睫毛。白い喉。
陳腐な言葉でこの独白の邪魔をしたくないとさえ思った。
「親父とさ、別れてからずっとああで」
ハスキーで甘い声。
ユウキは額に手を当て目を閉じた。
「……そっちの親は?別れてからなんか変わった?」
目が開かれ、こちらを見ている。
瞬間、ため息が漏れそうなほど見惚れていた自分に気付く。
胸は狂しく悲鳴を上げた。
「……変わった、かも」
「どんな風に?」
「別れたばっかの頃は、前より機嫌がよかったよ」
「今は?」
「今?今は……」
上手い言葉が見当たらない。
機嫌が悪い?過干渉、ヒステリック、暴力的、自己中心的?
溢れ出る思いの中から当たり障りのない言葉を探した。
世間の親は、世間の親子は、互いをどんな言葉で形容するのだろう。
「なぁ、それどうした?」
ユウキが遠慮がちに言った。
「え?」
ユウキは私の背中を見ている。
私は自分の背中の方に手を伸ばした。鈍い痛み。
電流が走ったように一気に思い出した。
家を出る前、母が思い切り投げつけた水筒。私の肩に当たった。
背中が少し開いたキャミソール。
すっかり忘れていた。
東京行きに浮かれていたし、次第に痛みにも慣れてしまって、疲れきってそれどころじゃなくて。
「……ここ、今どうなってる?」
私は俯いた。ユウキの方を見られない。
ユウキはソファから体を起こし近寄った。
「紫。痣?」
今写メって見せるよ、とユウキはテーブルの上の携帯を手に取った。
私はただ頷いた。
背中を向けて待つと携帯のシャッター音がして、ほらとユウキが促した。
ユウキの携帯を受け取ると、画面には肩甲骨から背中の中央にかけて拳より小さいくらいの紫の痣が広がる私の後ろ姿が映されていた。
きっと今までは髪の毛と服で隠れていて見えなかったのだろう。
ユカさんにもナナミにも何も言われなかった。
ナナミはともかく、ユカさんならこれを見てすぐに声をかけただろうから。
出ていけと怒鳴りつける声、衝撃、息が出来なくなって、うずくまり、這うように靴を履いたこと。
私は何も言えなくなってしまった。
「痛くない?」
ユウキは携帯を見つめたまま固まる私の様子を伺っている。
私は我に返って「大丈夫、ありがと」と携帯を返した。
「うそつけ、絶対痛いじゃん」
ユウキは携帯を閉じた。
「本当だって。今まで忘れてたもん」
「つーかそれどうしたんだよ」
「これは……水筒が当たっただけ」
「はぁ?水筒?」
「ちょっと強めの親子喧嘩。私が無視してたらお母さん怒って水筒投げて、奇跡的に命中しちゃって。お母さんのコントロール力凄くない?ウケるよね」
ヘラヘラ笑って、せめて笑い話にしなきゃ。
私は早口でまくし立てた。
「この前も教科書テーブルに置いてたら、こんなとこに置くなって、いや、今片付けるからで喧嘩になっちゃって、もう掴み合い。ほら、私の家くだらないことですぐ喧嘩してて、だから」
「なんだよそれ」
まっすぐ私を見るユウキの目は、綺麗で冷たい。
「……ただの喧嘩」
私も悪いんだから、どうか気にしないで。そう言いたくて、言えなくなってしまった。
「こんなの虐待だろ」
必死に避けていた言葉を突きつけられ、私は目の前が真っ暗になった。
ギャクタイって、もっといい子にするものでしょ?
真面目で優しくて、言うことを聞くいい子に理不尽に暴力を奮うことでしょ?
違う。私が反抗的で、卑屈っぽくてのろまで要領が悪いから怒られているんだよ。
「ちがうよ」
違うよ。そんなに大袈裟なことじゃないよ。
「違わねぇよ。こんな痣、ただの喧嘩で出来るかよ」
なんで背中が隠れる服を着て来なかったんだろう。
なんで上手く誤魔化せなかったんだろう。
私は要領が悪い。
「本当に、大丈夫だから」
ユウキは何か言いかけたが、眉間にシワを寄せ口を噤んだ。
数秒の気まずい沈黙の後、ユウキの方が先に沈黙を破った。
「……レイネの住んでるとこは、そういうの普通?」
独り言のように小さな声だった。
私も小さな声で言った。
「普通じゃないけど、多分……ちっちゃい頃から、そういう人だから」
「……そっか」
昔から漠然と、この状況から誰か助け出してほしいと願っていた。
しかし同時に、哀れんだ目で見られることが怖かった。
普通の幸せと普通の安寧と、普通の悩み、普通の悲しみ、そして普通の自由が欲しかった。
大人になれば全て自分で決めて生きていける。欲しい物は自分で働いたお金で、誰の機嫌を伺うことなく買える。
大人になりたい。早く大人になって、怯えも怒りも絶望も不安もない家で眠りたい。
「湿布貼らなくても平気?」
ユウキは声の調子を戻して言った。
私は微笑んで「うん、大丈夫。ありがとね」と答えた。
ほら、大丈夫だよと伝えたくて、大袈裟に。
ユウキもつられたのか、少しだけ微笑んだ。
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