11 眠らない街
静まり返るエレベーターの中、私は緊張でどうかなりそうだった。
私はもうすぐユウキの家に。
昨日、旅行先の東京で知り合ったばかりの男の人の家に行く。
田舎の高校生だった私には全て刺激の強いもので、さっきからジリジリと手足の先に痺れが走っている。
エレベーターを降りて一番奥の部屋。
「母さん仕事でいないからさ」
ごちゃごちゃしてるけどどうぞ、そう続けてユウキが玄関ドアを開けた。
中は私の住むアパートよりずっと綺麗だった。
ナナミの家に比べてしまうと確かに狭く、洗練されているとは言い難いが2LDKのこの部屋は随分都会的だと感じた。
玄関の背の高いシューズボックスには売り物のようにたくさんのスニーカーが並んでいる。
ユウキのものだろう。
入ってすぐ見えたのが白い壁と白いフローリング、左右、真ん中にダークブラウンの扉。
ユウキはキャリーバックを抱え、右側の扉の向こうに入っていった。
「お邪魔します」
私もそう言ってから丁寧にサンダルを脱ぎ、ユウキの後に続く。
キッチン、ソファ、テーブル、テレビ、黒いカーテン。
テーブルには積み上げられた雑誌、ゲームなどがあり、乱雑にソファの上に上着が置かれ、キッチンにはプリントの貼られた冷蔵庫、背の低い食器棚の中には様々な皿、炊飯器、ポット、何かのコード、ビニール袋、ペン立て、レンジ……汚いわけではなく、そこには生活感があった。
ナナミの家にはなかったものがここにはある。
2LDKのマンションに母親とふたり暮らしなのだから、これくらいが普通だろう。
むしろ西新宿、駅からそう離れていないところに建つそこそこ綺麗なマンションに母子二人で住んでいるんだから、私の地元の生活水準など当てはまらない。
ソワソワと落ち着かないが、なんだか自分の家を思い出して少しだけ気が楽になった。
「えーっと……適当に座って」
ユウキはキャリーバッグを壁の近くに置いた。
私はおずおずとソファの端の方に腰をおろした。
「マジで汚くてごめん」
ユウキは忙しなくソファの上の上着を持ってどこかに移動させたり、テーブルに並んだ雑誌をまとめたりしている。
「そんなことないですよ、全然綺麗ですよ」と私が言うと、今度は「あ、なんか飲む?」と冷蔵庫の方へ向かった。
ユウキも落ち着かないのだろう。
互いの焦りが伝わって、どんどんぎこちなく時間は過ぎる。
ペットボトルのお茶を貰って飲みながら、私は話題を探した。
こういう時は何か、話題を振らないと、何か。
「ユウキさんのお母さんって、何時に帰って来るんですか?」
私の問いかけに、ユウキはゲームのソフトを片付ける手を止め壁の方を見た。
ユウキの目線の先の壁にかけられたカレンダーには、細かく予定が書き込まれていた。
「今日は……夜中だね。だから気にしなくても平気っていうか、ああそうだ、俺のベッド使っていいから!」
ユウキは思い出したように付け加えた。
私は驚いた。家に来るかと聞かれてのこのこ着いて来たものの、それがどういうことかをいまいち理解していなかった。
漠然と泊まることになるだろうというのはわかっていたのだが、どこでどんな風に夜を明かすのかまではわからなかったのだ。
「え、あの、床で、床でいいです!」
ユウキは吹き出した。
「床は流石にないでしょ」
「でも……」
「俺ソファで寝るし、いいよ」
「じゃあ私がソファで寝ます」
「いいから」
しばらくどちらがソファで寝るかの押し問答が続いた。
結局ふざけ合っている間に有耶無耶になって、街はすっかり夜になっていた。
ソファに二人で並んで座って、電気もつけずにテレビを見ていた。
CMに使われている曲にどうこう言ったり、私の地元の話題にも触れたり、本当に他愛も無い話が続いた。
ユウキは敬語を使わなくてもいいし、ユウキさんと呼ばなくてもいいと言った。
それなら私のことも好きに呼んでほしいと言ったら、それからずっとレイネと呼ぶようになった。
私も彼をユウキと呼んだ。
バラエティ番組を観ながら少し続いた沈黙のあと、ユウキの声で私は目を開けた。
「……眠い?」
今私、殆ど寝ていたかもしれない。
ぼーっとする頭で「だいじょうぶ」とだけどうにか絞り出す。
そういえば昨晩も禄に寝ていない。
興奮は徐々に冷めてここに来てようやく猛烈な眠気を体が思い出したようだった。
だけど化粧も落としてない、着替えてもいない。
ここは私の家ではないし、今となりにはユウキがいて……。
「……俺もさ、昨日寝てなくて」
ユウキの声が遠くで聞こえる。
目は開かない。
わたしも、と言いたいのに、上手く言えない。
「……さむくない?」
少し強めの冷房。
だが湿度を含んだこの空気にはちょうど良い。
うん、と言えただろうか、言えなかったかもしれない。
ユウキが何か言ったように思う。
それも遠くなって、私はついに心地よい眠気に身を預けた。
東京に来てから初めて体の求めるままに眠った。
ドアの開く音と、急に眩しさを感じた。
痛い。目が痛む。
ギュッと目を強く瞑り、少しずつ開く。
明るい。蛍光灯。テレビ。冷えた手足。
ここは何処だっけ。
東京に来て、ユカさんが去って、それで東京駅で……走馬灯のように今までの出来事が駆け巡る。
ユウキだ、ユウキの家。
私はハッと飛び起きた。
ソファで寝たせいだろう、体の節々が痛み、痺れている。
ユウキは?
眩んだ目で隣を見るとユウキはあくびをしながら腕を真上に伸ばした。
「……ただいま」
後ろから聞こえた控えめな声に驚いて二人で飛び上がった。
振り返るとそこにはこちらをジッと見て佇む女性の姿があった。
年は私の母より上か、同じくらいに見える。
鼻筋の通った鼻と俗に言う猫目。
ユウキのお母さん、ああ、夜中に帰って来ると言っていた、挨拶……一瞬で頭の中はパニックに陥った。
「こ、こんばんは……」
掠れた声で咄嗟に挨拶をすると、ユウキの母は肩にかけていたトートバッグを床に置きながら「こんばんは」と表情一つ変えずに言った。
私は立ち上がり頭を下げた。
「お邪魔してます、急ですみません」
ユウキの母が何か言う前にユウキは「いいよいいよ、座ってなって」と気だるそうに言った。
ユウキの母はバッグから弁当箱や水筒を取り出してシンクに置いた。
しっかりまとめられたうしろ髪が見える。
怒っているのだろうか、そりゃそうだ、仕事から帰って来て息子が知らない女とソファで寝ていたんだから。
「びっくりした。名前は?」
振り返ってから言ったその声は先程より優しいものだった。
「イザキ、レイネです」
「レイネちゃんね。ユウキの母です。汚い部屋だけど、ごゆっくり」
微笑んではいるが何を考えているかはわからない。
私はどうしたらいいのかわからず、ユウキの方を見た。
ユウキはため息をついて、さっさと行けと言わんばかりに母親に手の甲を向けてシッシッと追い払う仕草を見せる。
ユウキの母は背を向けて奥の扉の中に入っていた。
バタンとドアの閉まる音が響いて、ようやく私はこの状況はまずいのではないかと不安を抱き始めていた。
「超寝たなぁ」
ユウキがぽつりと呟いた。
時計を見ると2時半を回っていた。
「ユウキのお母さん、怒ってないかな」
いや、きっと怒っているだろうし、迷惑に違いない。
せめて帰って来るまで起きていればよかった。
寝る予定ではなかったのに。
「怒ってないって。大丈夫」
ユウキは私を見て笑っている。
「でも……」
「大丈夫、いつもあんな感じだし」
私に気を遣ってそう言っているのかと思ったが、ユウキの様子を見ていると嘘ではなさそうだ。
ほっとしてソファに腰をおろした。
落ち着いて考えてみると、私は随分寝ていた気がする。
私が寝るのとほぼ同じタイミングでユウキも寝たらしい。
化粧をしたまま寝たため目がゴロゴロと痛い。
ソファの横に置いてあったバッグから化粧ポーチを取り出して手鏡を開き、目の様子を確認する。
化粧が少し滲んでおり、白目はやや充血していた。
「あー、腹減った」
腹減らない?とユウキは言った。
そういえばお腹が空いている。
昼にナナミの家で食べたっきりだ。
「お腹空いたかも」
「何か買って来よっか、コンビニ行く?」
「うん」
私とユウキはそれぞれ携帯と財布だけを持って立ち上がった。
何が楽しいのか自分でもよくわからなかったが、夜の街に、コンビニ目指してユウキと外に出ると自然と頬が緩んだ。
ちょっとだけ大人になった気がした。
深夜2時すぎだというのに東京の街は騒がしい。
それは昨晩行った歌舞伎町だけではなかったようだ。
本当に眠らない街なんだね、と私が興奮気味に伝えるとユウキは噴き出して笑っていた。
「どんな感想だよ」
「そのまんまの意味」
「ウケる」
遠くを見つめるようなユウキも綺麗だが、こうやって笑うユウキは魅力的だった。
どこか大人びた雰囲気が崩れて、年相応に肩を震わせて笑うのが嬉しかった。
ああ、出来ることならずっとこうしてユウキが楽しそうに笑うのを側で見ていたい。
叶わぬ願い。
胸がチリチリ痛くなった。
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