10 引力
通話が終わり何が何だか分からないまま携帯を握りしめていると、すぐにユウキからメールが来た。
どこの改札にいるのかという内容だった。
私は昨日の朝バスから降りた八重洲中央口にいた。
どこに迎えばいいのかわからず、とりあえず来たことのある場所を目指したのだ。
八重洲中央口にいると急いで打ち込み返信した。
湿度が高いことも、新幹線のことも、ナナミのこともどうでも良くなっていた。
ただ目の前を行き交う人と携帯を交互に眺めるばかりであった。
ユウキともう一度会えるかもしれない。
頭の中はそれだけ。
時間にしてどのくらいだっただろう。
改札の方をぼーっと眺めていると、見覚えのある若い男性の姿が見えた。
ああ、あれは。
目をそらしたら見失ってしまいそうで、私はその姿を見つめ続けた。
前髪を少し直して、あとそれから……あたふたと慌てている間に、ユウキはこちらを見つけたようで歩みを早めた。
こんなに人がいて、同じくらいの年代の人が何人も通り過ぎたのに、ユウキが一番綺麗だった。
白い肌と小さな顔、艷やかな黒髪、それから切れ長の目は遠くからでもすぐにわかった。
ドクン、ドクンと騒ぎっぱなしの心臓。
どうかバレませんように。
まっすぐ私に向かって歩いて来たユウキは、近づくにつれて笑顔を浮かべた。
「レイネちゃん」
ユウキが私の名前を呼んだ。
見知らぬ土地、見知らぬ人の中にいる私を、今この人だけが知っている。
良かった、会えて良かった。
感情がコントロール出来なくなって、ずっと堪えていた涙が溢れた。
なんで泣いてるんだろう。突然泣いたらユウキを困らせてしまうのに。
指で押さえて誤魔化そうにも、後から後から涙は流れた。
喉が焼けるように熱く痛む。こんなとこで泣くなんて恥ずかしい。
「え、大丈夫か」
ユウキは駆け寄り私を心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫です」と、そう伝えたかったのだが声が出ない。
泣きながら笑って、うんうん頷いた。
「ちょっと待って、えっと、なんか飲む?」
ユウキはキョロキョロと辺りを見回した。
私は首を横に振った。
涙を指で拭ってどうにか声を出した。
「だいじょうぶ、大丈夫です、すみません……」
私がヘラヘラ笑ってみせるとユウキはほっとした表情を浮かべた。
「ビビった……急に来てごめん」
とにかく落ち着かなければ。
一つ、大きく呼吸をした。
「……いえ、私もなんか、すみません」
恥ずかしかった。
なんで泣いてしまったんだろう。
会えただけで泣いてしまうなんて、はた迷惑な女だと思われただろう。
いや、迷子になって泣いている幼稚な田舎者だと思われかもしれない。
化粧は崩れていないだろうか。穴があったら入りたいとはこのことだ。
まともにユウキの顔を見れず私は俯いた。
「あのさ、ジュンから話聞いたんだよ」
ユウキは遠慮がちに話し始めた。
ヨウスケがナナミの家に行くこと、ナナミが私を追い出したこと、それで私が今晩行く宛がないこと。
マリナからジュンに連絡が行って、それからユウキに話が届いたらしい。
「うち来ない?」
別に変なつもりじゃなくて、とユウキは慌てて付け加えた。
私はびっくりして顔を上げた。
ユウキは行く宛のない私のためにここまで来たのだ。
その事実が信じられなくて、飲み込むのに時間を要した。
「でも、迷惑かけちゃうし、本当に?」
しどろもどろでどうにか言葉を繋いだ。
雑踏。アナウンス。話し声、靴の音、スーツ姿、学生。戸惑いと焦り、不安、それを押し上げる喜び。
「いいよ」
ユウキは照れくさそうに小さく笑う。
心臓は一層強く、痛いくらいに大きく波打った。
これは夢かもしれない。
知らない場所で一人、私は夢を見ているのかもしれない。
頬は緩み、熱くなる。
「じゃあ……お願いします」
昨日私はユウキとどうやって話したんだっけ、自然な話し方ってどうするんだっけ。
目まぐるしくて思い出せない。
たくさんの話し声と白い床、私のサンダルのビジューが光っている。
新幹線の切符なんか明日買えばいい。そういう予定だったじゃないか。
それよりユウキの家。どんな家だろう。
ナナミの部屋を思い出した。
東京の家と言えばナナミと、あと私が幼い頃住んでいた小さなマンションの朧げな記憶しか知らない。
ユウキは「じゃあ行こっか」と言って、私のキャリーバッグを自然と手に取り歩き始めた。
「あの、悪いです、私持ちます」
「いいから、持つよ」
ユウキは涼しい顔で歩いている。
なんて優しいんだろう。胸がいっぱいになる。
「すみません」と謝って、私はユウキの隣を歩いた。
ユウキの少しだけハスキーな低い声は、心地よく、また不思議と強く印象に残る。
優しい声色だけどぶっきらぼうにも聞こえるし、滑舌がいいかと言われれば決してそういうわけではない。
一つ言えるのは、この声もまた彼の生まれ持った才能だということだ。
もちろん役者として、人前や舞台に立って、スクリーンやテレビ越しに生きる人間としてのである。
ユウキはその後、私の分の切符を買ってくれた。
何もわからない私はただ後をくっついていくことしか出来ない。
道中、すみませんとありがとう御座いますを何度も言った気がする。
車内は私が乗っていた時よりもずっと混み合っており、キャリーバッグを抱えて乗るには到底向かない混雑っぷりであった。
そんなもの持って来るなよと睨まれたって仕方がない。
そこには人はいなくて、生きた"物"がただ作業的に押し込まれているように見えた。
これが寿司詰め状態なんだな、とどこか他人事な目でそれを見てしまったのは、私が田舎から出てきた観光客の一人だったからだろう。
私とユウキがその"物"の一つとして車内に潜んだ時に、距離が近くなるのは必然である。
この隣にいるお姉さんも、あとおじさんも、みんなくっついてるのは仕方がないと意識すらしないのに。
どうして目の前のユウキとくっつくのは不自然で、異常事態で、こんなに困ってしまうのだろう。
入口を背に立っていた私のすぐ近く、目と鼻の先にユウキがいる。
ドクン、ドクン、ドクン……うるさい心臓の音が周りにも響いていやしないかと怖くなる。
ふわりと甘く、切なくなる匂い、これはブルガリだ。
ユウキの黒いTシャツ。ユウキは何も言わず、私の頭の向こうの窓を眺めているようだ。
顔を上げるどころか、緊張と混雑ぶりで指の一本すら動かせず、静かに呼吸だけ繰り返す。
頭にはモヤがかかっている。思考がまとまらない。ぼーっとする。
心臓だけが早送りし続けて、胸がビリビリ痛い。
大好きなブルガリの香りに、私のつけたスカルプチュアのとろけるような甘さが溶け合って、痺れてしまいそうだった。
ユウキはどう思ってるんだろう。何にも気にせず、私のことをただの障害物くらいにしか思ってないのだろうか。
一瞬だけ、その表情を見たくて斜め上のユウキの顔を見上げた。
ユウキも視線を動かしてちらりとこちらを見る。
目が合った。目が合ってしまった。
切れ長の目の、その大きな黒い瞳に捕らえられて、私は逃げるようにすぐ目を逸した。
恥ずかしい、ずっと見ていたと思われたらどうしよう、ああでも目をすぐに逸したら失礼じゃないか、どうすれば……。
一人気まずさと叫び出したいほどの後悔と恥を抱えて、満員電車に揺られ続けた。
人混みの中、はぐれないように入り組んだ駅の構内を歩くのは大変だった。
こんなに広くて複雑で、どこもかしこも人だらけ、同じような景色の連続で案内板も禄にないこの新宿駅の中をユウキは慣れた様子で歩いている。
ユウキだけではない、ここを歩く皆が携帯を触りながら、イヤホンで音楽を聞きながら、下を向いたり前を向いたり、誰かと喋りながら、ただ目的地に向かって迷うことなく歩いている。
彼らはどうやって道を覚えたんだろう。最初は迷ったりしたんだろうか。
しかし地元に越してきた頃、田んぼと民家だらけの町並みに「どこも同じ田んぼだらけで道が覚えられない」と嘆いたことを思い出して、慣れれば何とかなるんだろうなと納得した。
なんとか新宿駅を出たのだが、見渡す限り続くビル郡と人、車、看板の文字に圧倒された。
三鷹駅は昔住んでいた地方都市に作りが似ていて親近感と懐かしさを覚えたくらいだったが、新宿駅は東京駅とそう変わらない「知らない場所」に思えた。
雨は止んでいたようだが空には曇が広がっており、まただんだんと夜が近付いているのか暗くなり始めていた。
湿度を含んだ不快な風と、アスファルトの熱気で外はサウナのようだった。
どう話したのかまでは覚えていないが、私とユウキは歩きながら昨晩の合コンについて話した。
車線の多い道路、人の波、雑踏に紛れぬよう、少し声のボリュームを上げて。
元々ユウキとジュンは同じ事務所の仕事仲間でヨウスケとは最近、ジュンを介して知り合ったという。
たまたま三人で集まったところ、ジュンが女の子を呼ぼうと言い始め、結果的にあのカラオケで合コンする流れになったらしい。
ジュンはお目当てのマリナを呼び出し、マリナはその場にヨウスケがいることを聞いてナナミを呼び、そして何の縁か私が連れ出され……。
ユウキが最初からあまり乗り気ではなく、さっさと帰ろうとしていたことを聞き私はほっとした。
「私も断りきれなくて」と言うと、ユウキは「だよね。俺も」と笑った。
私がナナミの家から飛び出した話を聞いただけでここまで親切にしてくれるのだから、ユウキはとても優しい人なのだろう。
断りきれず、友達のためにカラオケに参加するのを渋々承諾したユウキの姿は想像に容易い。
時間にして15分ほどだろうか。
大きな通りのすぐ横の、高いビルとビルに挟まれた細い路地に入った。
ユウキはそのビルの自動ドアの前で立ち止まった。
これがユウキの住むマンションであった。
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