9 アンコントロール

昼過ぎにユカさんと叔父さん叔母さんは家を出て行った。


奇跡的に飛行機のチケットは取れたらしい。

ナナミは自室から出てこなかったため、私が変わりに三人を見送った。


ユカさんは出る頃には少し落ち着きを取り戻しており、しきりに私のことを心配していた。

「一人で帰れる?」「場所はわかる?」と繰り返し聞かれた。

私がバスの時間と、それから乗口への行き方を言ってみせるとようやく安心したのか、それ以降は叔父さんと飛行機のことを相談していた。


三人が家を出てから私はしばらく暇を持て余し、ソワソワと客間とリビングを行ったり来たりしていた。

リビングに行けば犬がうるさいので、結局客間に引っ込んで携帯をいじって畳に寝転がった。


友達は昨日、地元の花火を観に行ったらしい。

それから他の友達は親とケンカしただとか、祖父母の家に来ているだとか、そんなことをサイトの日記に書いていた。


遊びに来ていた家の身内が亡くなるというショッキングな出来事を上手く文章にできる気がしなくて、自分の日記には結局何も書けなかった。

誰かに伝えたい気持ちはあるのに、伝えるための最適な言葉を選べない。

疲れているんだろう。


猛烈な眠気でウトウトし始めた頃、そういえばチケット……と唐突に思い出し、私は飛び起きた。


慌てて記憶を辿る。


一昨日の夜、東京行きのバスに乗る前にユカさんが私の分を手渡した。あれは行きの乗車券だった。

あれ、帰りの分は、いつ渡されたっけ。


冷や汗が流れた。


居ても立っても居られずバッグの中、財布の中、キャリーバッグの中を手当り次第探した。

ない。ない。

焦りばかりが大きくなる。

さっきは?さっき、ユカさんが家を出る前。

記憶を巡らせてリビングに向かう。


犬が吠えているのに目もくれず、テーブル、ソファ、キッチンまで覗いたが見当たらない。


震える手で携帯を開き、ユカさんに電話する。


……繋がらない。電源が切れていることを告げるアナウンスが聞こえた。


記憶の中のユカさんはやはりチケットを私に渡さなかった。

私もすっかり忘れていたのだ。

ああ、どうしよう、どうしよう。チケットがない。

焦り、不安。

新幹線で帰るか?何時に?とりあえず東京駅に?

もういいじゃないか、このままここにいれば。

新幹線、きっぷはいくらだろう。まだ財布に余裕はあるし、口座にもいくらか残っているからそれで……。


ぐるぐると色々なことが頭の中で駆け巡る。

貰っておけばよかった、ユカさんなんで忘れてたんだろう、いや、後悔しても仕方ない、どうにかしなきゃ、ああ、貰っておけばよかった。


客間に戻り呆然と座り込んだ。

「どうしたの?」


起きてきたナナミが私の青ざめた顔を見て驚いた顔をしている。


「バスの、乗車券、ユカさん持ってっちゃった」


私が呟くように言うと、ナナミは大きな目を更に大きく見開いて「え、マジ?」と言った。

キャリーバッグの中身が出たままになっている部屋の様子を見れば、ナナミでもそれがどれほどのことかわかったらしい。


「レーネちゃん帰れないってこと?え、ユカばかじゃない?」


「……新幹線で帰るよ、きっぷ買うよ」


「……大丈夫?」


ナナミは私の顔を心配そうに覗き込んだ。

私は力なく笑った。


「ねー、レーネちゃんかわいそうすぎ」


ナナミは元気出してと私の肩を揺さぶったが、大丈夫だからと答えるので精一杯だった。


「てかさ、帰ってから予定あるの?」


「……特にないかな」


「じゃあもう一泊しちゃえば?」


「でも……」


そんなことしたら母親に怒られるとは言えず、口ごもるとナナミは「ナナ頭よくない?」と笑っている。


もう一泊。

どうせバスの乗車券はないんだから。新幹線に乗って帰るんだから。


「パパもママもいないしさぁ、いいじゃん、夏休みだし」


そうだ、夏休みだ。明日も明後日も予定はない。

もし母親から何か言われても、事情を話せばそれでいいじゃないか。

どうせ怒られるのは同じなんだから。


寝不足の頭に、ナナミの「ね、明日帰ろ?」という甘い声が響いてクラクラする。


仕方なかった。そう自分に言い訳をしながら、私は目の前の小悪魔の誘いに乗ることにした。


とはいえ、後悔もしていた。度々母親の顔がちらついた。

私の帰りが遅くなれば心配するだろうか。

いや、よく考えてみろ、明日は母親も朝から仕事だ。

バスに乗って帰っても着くのは明日の朝。

それから始発に乗って地元の駅まで向かって、歩いて家に着く頃には母親は仕事に出ているし、帰ってくるのはいつも夜の8時すぎ。


つまり夜の8時前に私が帰宅していればいいだけの話であり、明日の昼頃の新幹線に乗れば間に合うだろう。


大丈夫、大丈夫。

私は深呼吸をした。

ナナミがシャワーを浴びた後、私もシャワーを借りた。

あんなに眠かったのにチケットのことやシャワーですっかり目は覚めた。浮腫みも少しだけ引いて来た。


随分広げてしまった荷物を片付けているとメールが届いた。

ユカさんだった。


携帯の充電器を忘れたため電池がなくなりそうなことと、バスの乗車券を渡し忘れたことへの謝罪が綴られていた。


明日新幹線のきっぷを買って帰るので心配はいらないといった内容を送り、携帯を閉じた。


リビングからは犬の鳴き声とナナミの鼻歌が聴こえてくる。

親から解放されたナナミは上機嫌だ。

元々いてもいなくても変わらないだろうに、それでもやはり親を煩わしく感じるのだろうか。


喉の乾きを覚え、キッチンのウォーターサーバーから水を注ぎ飲んでいると、ソファに座っていたナナミが顔を上げた。


「あ、ヨウスケ来るかも」


ヨウスケ……、ああ、昨日の。

ナナミが狙っていた男だ。

そういえば昨日、別れ際に何か言っていたような。

仕事が終わってから連絡するとか言っていたっけ。


「レーネちゃんどうする?」

どうする?って、どうするも何もない。

ナナミが言っていることがよくわからず、私は首を傾げた。

そんな私を見て、ナナミは痺れを切らしたように言った。


「ヨウスケが泊まるから、レーネちゃんどっかで時間潰してよ」


馬鹿で無知な私でもやっとわかった。

二人きりで夜を過ごしたいから邪魔者は出ていけと、そういうことだった。


いくらなんでも自分勝手すぎないか。


私はカッとなった。


「どっかってどこ」


一晩時間を潰してわざわざこの家に戻る意味はない。

今日家を出たらそのまま新幹線に乗って帰れということだ。


さっきもう一晩いればいいと勧めて来たのはナナミだ。

今更手のひらを返したように出ていけだなんて。


「オケとかネカフェとか?あるでしょ」


「今から探せって?」


「しょうがなくない?ヨウスケ来るってさっき決まったんだもん。てかチケットなくさなきゃよかったじゃん」


「なくしたわけじゃないって」


「ないならなくしたのと変わんないし。ねー、もうユウキくんの家に泊まれば?ナナから頼んであげる、ね?」


「はぁ?」


めちゃくちゃだ。

何もかもが。


争っても仕方がないと宥める私と、いい加減我慢ならないと怒り狂う私とがごちゃ混ぜだ。


ああ、犬の鳴き声が鬱陶しい。


チケットもない、ユカさんもいない、おまけに今日泊まる場所さえなくなるだなんて。

私は何を期待して東京に来たんだっけ。


目眩すら感じるほどの怒りで煮え滾ったまま、私は無言で客間に戻った。


このまま一晩居座ってやろうか、そしてヨウスケの来訪を断らざるを得なくなって、ナナミが悔しがればいい。

でもきっとナナミは私にお構いなしにヨウスケを迎え入れるだろう。

邪魔者扱いしながら、二人で盛り上がるのだろう。


荷物をまとめて飛び出してしまおうか。

そんなことしたらナナミの思う壺だ。

悔しい。悔しい。悔しい。


涙が零れそうになるのをぐっと堪えた。

別のことを考えて、落ち着いて、冷静に考えよう。


気がつけば私は自然と荷物をまとめていた。


どうせなら早いほうがいい。

今なら新幹線に乗れるかもしれないし、ダメならカラオケかネットカフェを探そう。


勢いで荷物を身支度をして、化粧を直し、駅までの道のりを携帯の地図機能で確認した。

昨日ナナミと歩いた道をなんとなく思い出した。

大きな通りまで出て、その後まっすぐ行けば駅につく。


覚悟を決めて私は立ち上がった。

リビングの前を通りかかった時に「じゃあ、お世話になりました」と乱暴に告げた。

ナナミは何も言わなかった。

玄関ドアを開けても何の反応もなかったから、聞こえていた上で無視をしたんだろう。


犬の鳴き声を背に、私は外に飛び出した。


外の空気は酷く蒸し暑かった。

日射しは陰り、曇った空。

すぐにダラダラと汗をかく。

息をするのも辛くなる、どうにも嫌な暑さだった。

頭がぼーっとのぼせる。


ナナミへの怒りを糧に、私はキャリーバッグを引きずって歩いた。


暑い。それでも歩みは止まらない。


一人で歩く東京の街は、なんだか現実味がなかった。

迷わないかハラハラしたが、やがて見覚えのある大きな通りに出た。

よかった、合っていた。


ナナミは後悔しただろうか?いや、そんなこと絶対にしないだろう。

私がいなくなったところで、邪魔者が消えてラッキーだと喜んだだけだ。

それでもいい。あんな場所にはいられない。


昨日日傘でも買えばよかった。

曇っているのに暑くてたまらない。

日が落ちるのとは違う、曇天による暗がりが少しずつ広がってゆく。


雨が降るのかもしれない。

湿気を含んだ空気がそれを示している。


私は急ぎ足で駅を目指した。

人混みをかき分けるようにして切符を買って、すみませんと小声で謝りながら荷物を抱え満員電車に乗ったのが午後4時半。


東京駅に着いたらみどりの窓口に行こう。

新幹線のきっぷを買おう。


雨が降って来た。

寿司詰め状態の車内は湿度を増して、しまいには体を濡らした乗客が目立ち始めた。

傘を持たない私はどんどん不安になった。


ユカさん、今頃どうしてるだろう。ナナミはどうしてるだろう。


新幹線に乗れるだろうか。切符はいくらだろう。


ああ、なんでこんなことになったんだろう。


母親に怒鳴られ、殴られ、東京行きを反対されたことを思い出す。


犬に壊されたストラップ、無理やり連れていかれた合コン、嘲笑う目、叔父さんに握らされた一万円。

泣きそうだ。


私が愚かなせいだろうか、私の運が悪かったんだろうか。


不安と後悔が渦巻いて、長い長い30分間だった。

押し合いへし合いを経て、ホームから改札を目指した。人の波を確認しながら、外れないよう注意深く歩いた。


改札を抜けて、湿度と水滴で滑る床を歩いている途中、バッグから携帯を取り出して時間を確認した。


着信ありの表示に驚き、隅の方で立ち止まって開いてみる。

つい2分前に「ワタナベユウキ」からの着信があったようだ。


その名前に驚き、見間違いじゃないかと何度も読んだ。

ワタナベユウキ。

この着信は何かの間違いではないだろうか。

ユウキ。か細く不安定な心の、唯一の小さな拠り所。


途端に鳥肌が立った。

ユウキからの着信。なぜ?間違い?確かめなければわからない。


無意味に周りを見渡してから、私は震える手で着信履歴の一番上のユウキにカーソルを合わせ、通話ボタンを押した。

押してしまった。


携帯を耳に当てて応答を待つ。

ドキドキと胸が高鳴っている。間違いだったら、つながらなかったら。ユウキは出るだろうか?


ああ、私はどうしてあと2分早く携帯を開かなかったのか。


呼び出し音が2回流れる間、期待と後悔が入り混じって押し潰れそうだった。


『……もしもし』


ユウキの声だ。約半日ぶりのユウキの声が聞こえた。

感情は一気に昂って、雑踏は遠くに消えさった。

「もしもし」


『あのー……昨日の、ユウキです』


「……はい」


遠慮がちに言うユウキがおかしくて、私の頬は緩んだ。

電話の向こうのユウキは何処かを歩いているようだ。

少しのノイズと声の揺れがそれを教えている。


『今どこにいる?』

 

着信は間違いかもという疑念は消え、目的は私であったのだとわかった。

慌てて現在地を思い出す。


「えっと、東京駅の、中の……」


ここは改札を抜けた先の、改札はなんという名前だったか、確か……私が口に出すより早くユウキは言った。


『東京駅か、わかった。ちょっと待っててください』


「え、あ、はい」


反射的に返事をしてしまった。

ちょっとって、どこでどのくらい待てばいいのか。

ユウキは今ここに向かっているのだろうか。


『じゃあ、一旦切るね』


「はい、じゃあ……」


『じゃあね』


電話は切れてしまった。

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