7 微睡み
ロビーの隅でマリナとナナミが小声で何やら話し合っている間、私は二人から少し離れフロントに近い場所に立っていた。
財布を出して会計を待ったがジュンは「いいから」と笑って、ヨウスケとユウキとそれぞれ出し合って私たちの分まで会計を済ませた。
私は三人に「すみません、ありがとう御座います」と頭を下げた。
ナナミたちもお喋りをやめて「いくらだったー?」とか「え、いいのー?」と白々しく言い始める。
何だかバカ正直に頭を下げた私だけが図々しく思えた。
ヨウスケは迎えを待つというから、私たちは少し先でタクシーを拾うことにした。
ナナミは私も待つと言ったが、マネージャーに見られたらまずいからとヨウスケが断った。
「お持ち帰りされたかったー、ね?」
帰りのタクシーの中でナナミはそうつぶやいた。
マリナは家の方向が同じだからとかでジュンとユウキと同じタクシーに乗って帰った。
「え?」
お持ち帰り。余韻に浸りながら窓の外を見ていた私はその言葉にぎょっとしてナナミの方を振り向いた。
ナナミは携帯を開きカチカチとせわしなく何かを打ち込んでいる。
「あ、レーネちゃんそーゆーのムリ?」
携帯から目を外すことなくナナミは半笑いを浮かべた。
疲れきっていた私は投げやりに返した。
「ムリとかじゃないけど」
「初めてでしょ?イケメンに奪って貰えば良かったじゃん」
ヒトナツノアヤマチってやつねとナナミは一人で笑っている。
別れ際のユウキの顔がリフレインして、自己嫌悪した。
そんなんじゃない、やめてくれ。
「ありえないよ。付き合えるわけないし」
「え?レーネちゃんもしかして超ピュア?付き合わなくてもヤれるよぉ」
さっきまでの清純そうな様子は消え去り、ゲラゲラと下品に笑うナナミがそこにいた。
そして、かわいい?とか、ナナも戻りたぁいと小馬鹿にした態度で言い続ける。
私は悔しさと恥ずかしさで耳を塞ぎたくなった。
私がムッとして黙ったことに気付いたのか、ナナミはごめんごめんと取り繕うように謝った。
「あ!ねぇ、マリからメール来たけど、ユウキくんあんなに話すの珍しいんだって!全然脈あったってジュンくん言ってたらしいよ!」
だから機嫌直してと言わんばかりだ。
からかわれ続けて流石に頭に来ていた私は「そうなんだ」とだけ言った。
今更だ。そんなことを今更言われたって仕方がない。
第一本当かどうかもわからない。
私に興味をなくしたのか、ナナミはまた携帯に集中し始めた。
私はため息をついて、大人しく車に揺られていることにした。
帰宅後、私はこっそりと客間に戻った。
ユカさんは寝ているようだった。携帯にはユカさんから「大丈夫?何時に帰る?先寝るね」というメールが届いていた。
洗面所を借りて化粧を落とし歯磨きを終え、さっさと着替えて布団に潜り込んだ。
ユウキにメールした方がいいんだろうか。
なんて?
メールの新規作成を開き、適当に文字を打つ。
楽しかったです、今日は……いや、最初に名前を入れた方がいいか、レイネです、楽しかったです、今日はありがとう御座いました……ああそうだ、夜も遅いし返さなくたっていいようにしておこう、おやすみなさい……堅いだろうか?
文末に無難な顔文字を入れてから私は宛先に登録したばかりのユウキのアドレスを選択して、少しの間送信ボタンを押せずにいた。
ユウキと話したこと、ユウキの顔、お持ち帰り、付き合わなくても……思い返して心臓がドクン、ドクンと高鳴った。
夜ももう遅い。
寝たかもしれない。迷惑になりやしないか?
ドクン、ドクン、心臓は存在を示すかのように大きく鼓動する。
送ったら後は寝てしまおう。携帯を閉じてしまえばいい。
私は送信ボタンを押した。
ちゃんと送ったのを見届けてから私は携帯を閉じ、掛け布団を頭から被った。
暑がりのユカさんが温度を設定したのか、この部屋は夏だというのに寒さを感じるほどだ。
でも私の頬や体は熱くて、すぐに布団から顔を出し寝返りを打った。
疲れているのに頭は興奮状態だ。
慣れないとはいえ、バスの座席よりよっぽど寝心地の良い布団の中で私は何度も寝返りを打った。
枕元の携帯がブー、ブー、と鈍いバイブ音をたてて、ランプが点滅している。
ドクン、心臓はまた大きく踊りだす。
すぐに携帯を開いた。
ディスプレイが眩しくて目を細める。
メールの受信ボックスにマークがついている。
ドクン、ドクン、心臓がうるさい。
メールを開くと、送り主の欄にワタナベユウキの文字が並んでいる、
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
ユウキもまだ起きていたのか。
「こんばんは」タイトルの後を目で追う。
「俺も楽しかったです」「ありがとう」「東京楽しんでね」「おやすみなさい」
私は安堵と喜びと、言いようのない興奮で大きなため息をついた。
こんなことで舞い上がっちゃって馬鹿みたいだと思いつつも、タクシーの中でナナミが言っていた「脈があった」という言葉を思い出してしまう。
携帯を閉じて、私はもう一度ため息をついた。
目が覚めた。
障子から入る日射しが朝を告げていた。
昨晩は結局4時を過ぎても眠れず、空が白んで来た頃にようやくうつらうつらと枕に身を預けたのは覚えている。
隣の布団でユカさんはまだ眠っていた。
携帯で時間を確認すると7時過ぎであった。
体は非常にだるく、疲れもアルコールも残っているように感じた。
顔が浮腫んでいるのが鏡を見なくともわかる。
シャワーを浴びたかったが、客人の私にそんな自由な振る舞いは許されない。
せめてユカさんが起きるまで寝ようかとも思った。
しかし慣れない枕のせいか、目は冴えてしまっていた。
一度閉じた目をまた開けた。
携帯を開き、届いていたメルマガを適当にチェックしてお気に入りのアーティストのサイトを見て、友達のサイト、あと……受信ボックスの中の、ワタナベユウキの名前に手が止まる。
眠る前に届いたあのメール。
短い文章を何度も何度も読み返した。
おはようとメールする勇気はこれっぽっちもなくて、ただその一通のメールを繰り返し読んだ。
ユカさんの携帯から大きな着信音が鳴り響き我に返った。
ユカさんがモゾモゾと寝返りをうって手探りで携帯を開く。
アラームだったようだ。
そろそろ私も起きてもいいだろう。
そして謝らないといけない。
私は重い体を起こした。
「……おはよー」
ユカさんは眠そうな声で言った。
私もおはようごさいますと返して、すぐに昨日のことを謝ろうと思った。
しかしなんて切り出したらいいかわからない。
恐る恐る「昨日……」と言いかけたところでユカさんが口を開いた。
「昨日大丈夫だった?」
ユカさんは瞬きを繰り返し、目をこすっている。
「あ、はい……急に出かけちゃってすみません」
「んー……何時に帰って来たの?」
「3時くらいですかね、ほんと、すみません」
「いいよ、どうせナナミでしょ」
むしろこっちがごめんだよとユカさんは続けた。
ユカさんはなんとなく察しがついていたようで、私のことを心配していたらしい。
黙っていろとナナミに言われたこともあり、私は昨日の有様を話すこともできず、ユカさんの「変なことされなかった?」「あいつ許せない」「巻き込んじゃってごめんね」などという言葉に、ああ、とかまぁ、とかそんな気の抜けた返事をするしかなかった。
荷物を片付けて身支度をして、布団をあげているうちに叔母さんに朝食に呼ばれた。
テーブルにつくと犬はやっぱり吠えている。もう犬の鳴き声には大分慣れた。
テーブルの上の料理から漂う香り。しかしこれはやっぱり味がしないのだろう。
既にテーブルについていたナナミは眠そうにしている。
叔父さんはソファに座り新聞を読んでいた。
「ナナミ」
食事の途中、ユカさんは低い声で言った。
「なに」
ナナミは携帯片手にサラダをつついている。
「昨日どこ行ってた?」
ユカさんを横目で見ると真顔でまっすぐナナミの方を見ていた。
ナナミは携帯から目を外すことなく、興味なさそうに言った。
「カラオケ」
「誰と」
ユカさんの怒りは私にも伝わってきた。
叔母さんは困ったように様子を伺いながら犬に餌をあげているし、叔父さんは新聞を読んだまま微動だにしない。
犬の汚らしい咀嚼音ばかりが響く。
「はぁ?なに?レーネちゃんとだし」
「二人で?」
「そうだよ、ねー?」
ナナミは平然と私にそう投げかけた。
私は「まぁ……」と乾いた笑いとともに答えた。
「ねぇユカ誘われなかったから怒ってんの?ごめんね」
ナナミはユカさんの怒りをあしらうように、またからかうように吐き捨てた。
ユカさんの表情は険しくなる。
どうすることも出来ず私は箸を持つ手を止め黙っていた。
「あんたが好き勝手やるのはいいけどレイネちゃんは関係ないじゃん」
ユカさんは優しく面倒見が良いのだがとても気が強く、正義感も強い。私はそれをよく知っていた。
バイト先では迷惑な客と言い合いをしたこともあったし、要領が悪く自分勝手な上司に食ってかかったこともあった。
争いごとを好まない私は、いつもそれに怯え、必死で宥めた。
「ナナとレーネちゃんが仲良くしちゃダメってこと?おかしくない?」
ナナミもまた気が強い。ピリピリと張り詰めた空気が漂った。
頭が痛くなる。
「あの、私は大丈夫だから、ユカさんも、ナナミちゃんも、ご飯食べちゃいましょう、ね?」
上手い言葉も見つからず、私はとにかく二人を止めるために声を出した。
ユカさんは何か言いたげだったし、ナナミもこちらをジロリと見ていた。
それでも私はまさに争いが始まるその空気に耐えられず戯けてみせた。
「昨日お買い物楽しかったし、カラオケも楽しかったし美味しいご飯まで出してもらって、私今マジ幸せです」
帰りたくないくらいで、とヘラヘラ続けると、叔母さんが「ありがとうね」と笑った。
新聞を読んでいた叔父さんもようやく顔を上げて「うちの子になるかい?」なんてふざけて言い出した。
「あはは、言うこと聞かないですよ、私」と返したら、叔父さんと叔母さんも「あはは」と笑った。
ナナミはもうサラダをつついていたし、ユカさんは黙って箸を動かした。
既に餌を食べ終えた犬はけたたましく吠えていた。
鏡の向こうの私はいつもに増して醜く見えた。
浮腫んでいてアイプチも上手くくっつかない。
イライラしながら、もういいや、と諦めて誤魔化すように太くアイラインを引き、つけまつげをつけてマスカラを塗った。
ナナミやマリナは、こんなにアイラインを使わなくてもいいんだろうなと考えて虚しくなった。
ユカさんはあまり化粧をしないから私より早く支度を済ませて携帯をいじっている。
「10時半にバスが出るから、10時前には乗口にいないとね」と独り言のように言ったから、私は「はい」と返した。
夜の10時半に私は東京を出て、またあの牢獄に戻るのか。
しかし心身ともに疲れきっていたから、こちらに来た時よりも地元のつらい日々の記憶は薄まりつつあった。
気を遣うことなく食事をして、あとはとにかくゆっくり寝たい。
それから友達に土産話の一つとして、東京の町並みやショップの中、人混み、付き合い合コン、ユウキ……田舎にはない刺激的な話をするのだ。
そうしてこの東京観光は終わって、私はしばらく陳腐な田舎で暮らしてゆく。
いくつか買った服や化粧品のおかげで行きより大分増えた荷物をまとめ、客間を出ようとした時だった。
ユカさんが「えっ!」と大きな声を上げた。
ユカさんは携帯を開き、まじまじと画面を見つめている。
「どうしたんですか?」
私が声をかけるとユカさんはこちらを振り返った。
「おばあちゃん、死んじゃった」
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