6 微動
途中、ナナミとマリナにトイレに行こうと誘われて席を立った。
内心名残惜しかったが、ここに残るわけにはいかない。
はしゃぐ声を抑えきれないといった様子の二人を後ろから眺めながらトイレに向かった。
「行けそう?」
「全然行ける!超ヤバイ」
私は鏡の前で黙々と化粧を直した。
ファンデーションを塗り、グロスを塗り直していると鏡越しにマリナと目が合った。
「あのー、レイネちゃん、どう?ユウキくん」
そう言ってニヤニヤと笑うマリナに、ナナミも笑いながら肩を叩いた。
「もーマリやめなって!」
「えー?よくない?」
酔いは急激に冷めていく。
そうだ、私はあの場にそぐわない除け者だ。
何を勘違いしていたんだろう。
私はヘラヘラと愛想笑いを浮かべ二人の反応を伺った。
「で?好きになった?」
「何その聞き方ぁ、マリうざーい」
私の頭の中で様々な選択肢が現れる。
そんなことないですと冷たく拒絶?わからないと濁す?好きですねとピエロになる?
そもそも好きってなに?
結局私はヘラヘラしたまま「よくわかんないです」と濁した。
ウブで何も知らない下等な田舎娘でいいじゃないか。
事実なんだから。
「だよねー」と哀れみを含んだような笑い声が響いて、二人は話題を変えた。
ユウキと話せたのは楽しかった。
でもここに来て良かったかどうかとは別だ。
早く帰りたい。
ぞろぞろとトイレを出て部屋に戻るとこちらでも何か話していたようだった。
概ね、私たちがトイレで話したようなことがこの部屋でも行われていたのだろう。
ユウキは私とのことを揶揄されたに違いない。
そしてやめてくれと拒絶したか、一緒になって私を馬鹿にしたのではないか。
大人しく時間が過ぎ去るのを待とう。
あまりいきなり黙りこくるのはよくないだろうから、相手の出方をよく見て少しずつトーンダウンすればいい。
ジュンが「おかえりー」と出迎えた。
私はユウキの隣に座った。
その後も皆のアルコールは進み、誰かが思いついたように歌い、時々話を振られると私は愛想笑いを浮かべて対応した。
ユウキとはぽつりぽつりと会話を交わした。
映画の主題歌の話になり、ユウキが映画をよく観ることを知った。
私はこれまた父の影響で古い洋画を観ることがあったが、ユウキは古いものから新しいものまで、それから洋画のみならず邦画もよく観るという。
そして私がジェームス・ディーンの演技に触れると、ユウキは熱っぽく語り出したのを今でもよく覚えている。
それらは日本のドラマの話題にも及び、少し昔に流行ったドラマ、IWGP、聖者の行進、未成年、ドク……職員室のテーマ曲のTHE YELLOW MONKEYが格好良かった、未成年の中のザ・ハイロウズが印象深くて……。
ユウキは演技と音楽のことに関して非常に熱く、そして強い拘りがあったように思う。
私は演技についてどうこう語れる立場にはなかったのだが、ユウキは俳優だったし、芝居というものが自分の人生に直結しているのだから熱が入るのも当然だった。
目をキラキラさせて、時々遠くを見て何かを考えながら少しばかり饒舌にユウキは話した。
会話が途切れた頃、ユウキがトイレに立った。
部屋に残された私は手持ち無沙汰になってバッグから携帯を取り出した。
ユカさんから着信が入っていた。
「レイネちゃーん、ユウキどう?気に入った?」
ジュンの声に顔を上げると、四人が一斉にニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ私を見ている。
先程までの僅かに心地の良かった世界は壊れてしまった。
いや、正確にはそんな世界など最初から幻だったのだ。
ここは男女の煩悩だけが蠢く部屋だ。
この部屋に足を踏み入れたなら、それは合意と見做されるのである。
私は「あはは、いい人ですね」とどんな受け取り方でも出来るよう答えた。
「レーネちゃん彼氏いたことないんだってー」
ナナミがひけらかすように言ったから、ナナミとジュンも「わお」とか「マジ?」なんて囃し立てる。
「意外だねぇ。可愛いのに」
ヨウスケの言葉にナナミは口をつぐみちらりとヨウスケの方を見た。
「いえいえ、そんな……」
私は必死に否定をして、早く終われと祈った。
「あ!ユウキとメアド交換すればよくね?」
「いいね、レーネちゃんメアド交換しなよ!」
「話も超盛り上がってたもんなー」
「ねー、二人の世界って感じだったし」
「ユウキもレイネちゃんのこと可愛いって言ってたよな。なぁジュン」
「言ってた言ってた!マジで!深キョンに似てるよなぁって」
少し動揺したが、口裏を合わせてからかっているんだろうと悟り「えー、ホントですかー?」と笑っておいた。
酔っているのかナナミとマリナはキャーキャー悲鳴のような声を上げて興奮している。
私と深キョンが似ているだなんて、深キョンに失礼だ。
憂鬱な感情よりも、惨めさが勝り、やがて腹の底からじわじわと怒りが込み上げてくる。
人をからかって暇を潰すのはいい加減にやめてほしい。
そちらが楽しみたいなら勝手にやってくれ。
私はお前たちのように下心や欲を満たすために来たわけではない。
無理に連れて来られただけにすぎないのだ。
ああ、これがもし地元であれば。
地元であればさっさとこの場を抜け出し家に帰っていたかもしれないのに。
帰る術も帰る場所もない私は籠の中の鳥だ。
怒りとは裏腹に、私はヘラヘラ笑っていた。
溶け込めない。
田舎にも溶け込めないし結局東京にも溶け込めない。
それは誰のせいでもない、私のせいだ。
「ねぇどう?ユウキのことカッコイイと思う?」
さあ、なんて答えて笑わせてくれるんだと期待を含んだ好奇の目。
「うーん……まあ」
カッコイイなんて生半可な言葉じゃ言い表わせない。
冷たくて、神秘的で、瞬きや眼球が動くのをただじっと見とれてしまうような、強烈な引力を持った切れ長の瞳。
小さな顔にスーっと迷いなく通った鼻筋は、シャープな印象を際立たせた。
横に広く、上下の厚みが均等で真っ直ぐな唇は強い意志を感じさせ、僅かに口角が上がるだけで、まるで一種の許しを与えられた気持ちになる。
透き通り冴えわたる白い肌、細く長い首。
どうして彼らは、平然としていられるのだろう。
すぐ側に在る圧倒的な美、神がかりで、畏れを抱くほどの刹那的な輝きを目にして、自分を恥じることなく、ましてや他の男にうつつを抜かすだなんて信じられなかった。
こんなこと、口にも態度にも出せないけれど。
私はすっかりユウキにのぼせ上がっていたのだ。
しかし諸手を挙げて思いの丈をぶつけられるほど身の程知らずではない。
「ヒュー、レイネちゃんいいねぇ」
散々揶揄され、私は完全にナナミたちのことを恨んだ。
もう関わりたくなかったし、恐れるどころかむしろ蔑んだ。
グラスに残ったカシスオレンジを飲み干して、笑顔を取り繕うことをやめた。
時刻は0時を過ぎていた。
扉が開いて通路に溢れる騒音とライトが部屋になだれ込んでくる。
ユウキが黒く艷やかで、襟足の少し長いその髪を触りながら戻ってきた。
バタンと扉が閉じると、またこの部屋には一瞬だけ静けさが漂う。
「お、戻ってきた」
これから始まることはなんとなく予想がついていたから、私は口をきゅっと閉じてテーブルの隅に視線を落とした。
「なんだよ」
ユウキが笑いながら、そして遠慮しながら私の前を通り隣に座る。
「今レイネちゃんとお前のこと話してたんだよ、ね?」
「まあ……はい」
どうか傷つかないように、打ちのめされたりしないように。
私は感情を押し殺した。
「そっか。どんな話?」
「ふふっ、レーネちゃん、ユウキくんとメアド交換したいって」
一瞬でも喜んだり不安そうな顔をすれば場は白けてしまうだろう。
私は黙って聞いていた。
強い冷房のせいもあって、私の肌は驚くほど冷えている。
「あーメアドね、いいよ」
ユウキは携帯を取り出した。
嫌ではない?空気を壊さないため?
ユウキの気持ちなど、捻くれて臆病で、何より場違いな私がどれだけ一生懸命考えても見えるわけがなかった。
だがユウキはこれまで丁寧に私の相手をしてくれるような優しい人だということは知っている。
私は絞り出すような声で「え、本当に?」と訪ねた。
ユウキは「うん。いいよ」とさも当然のであるかの如く言って、携帯を開きカチカチといじり出す。
私も携帯を開いた。
たどたどしくも赤外線で互いの電話番号とアドレスを交換すると、野次馬していた四人はいやらしい歓声を上げた。
途端に心臓がバクバクと大きな音を立てて激しく鼓動し、気の抜けた笑い声が口から漏れる。
ユウキの顔も少しほころんで、美しい目は優しい弧を描いた。
安堵と仄かな期待。
ネガティブな考えは相変わらずそこに在ったのだが、舞い上がったこちらを恨めしく見るばかりだった。
ワタナベユウキがアドレス帳に追加された、たったそれだけでも十代の私をその気にさせるには充分すぎた。
あれほど神秘的な彼が急に現実味を帯び始め、今手が届く距離に確かにいるのだと気付かされる。
ユウキも一人の人間なのだ。
私と同じ。
私はとうに華やぐ心を抑えきれなくなっていた。
不器用な笑顔は頬が緩むままに変わっていたし、慎重に紡いでいた言葉は心から勝手に沸き上がって飛び出した。
ユウキもそれにつられたのだろう。ジュンやヨウスケに話すのとそう変わらない、くだけた話し方へと変わっていた。
私が戯ければユウキは顔をくしゃっとさせながら笑った。
反対にユウキがおかしなことを言ったなら私もケラケラ笑った。
そうして過ごすうちに、ヨウスケが携帯片手に部屋を出て行った。
この後どうする?なんてジュンは皆を見回していた。
時間は深夜2時を過ぎていた。
終電はもうない。
どうするも何も、あとは始発で帰るかタクシーで帰るか、それくらいしか私には思いつかなかった。
二次会に行くか、それともまだここにいるかを問うているのだろうと私は思っていた。
ナナミは「ヨウスケくん次第かなぁ」と呟くように言って、マリナはジュンに目配せをした。
私はいずれにせよナナミ次第である。
ガチャと音をとたててドアが開き、携帯を手にしたヨウスケが入って来た。
「悪りぃ、そろそろ帰るわ」
ナナミが「えぇー」と残念そうな声をあげた。
「ごめんね、マネージャーがうるせぇんだ」
ヨウスケは明日(正確にはもう今日なのだが)の朝から仕事が入っていた。
ヨウスケは少し前から仕事が増え始めており、それに比例するように華々しく遊び歩いていた。
若く愚かな彼の余計なスキャンダルを恐れ、マネージャーは口煩く管理していたのだろう。
「帰っちゃうの?」
ここに来る前に見た、あの甘えたようなわがままをナナミは見せた。
「迎えに来るって言ってるんだよ」
ヨウスケはあっさりとそれをかわすとナナミの隣に腰掛けた。
そしてぽんと頭を撫でて「仕事終わってから連絡するよ」と優しく言って聞かせた。
男と女のやり取りに、私は思わず目をそらした。
「じゃあ一旦解散?」
ジュンが言うと、皆周りを伺いつつ賛同した。
またねと言って別れたところで、私にはその「また」が来ることはないだろう。
ああ、これでユウキとはお別れなんだ。
連絡先は交換した。しかし元々メールのやり取りが苦手な私には特に意味のあるものではなかったじゃないか。
明日はユカさんにどう言い訳をしよう。
謝って許してくれるだろうか。
気まずい空気で東京観光するのは嫌だ。そうだ明日は朝起きたならお礼を言ってナナミの家を出て、東京駅に行って観光をして、そしてそのまま夜にまた狭い夜行バスに揺られて田舎町に帰るのだ。
これは田舎者が東京で見た夢だ。
いやいやながらに連れて来られた合コンで、たまたま優しい話し相手がいた、それだけ。
今はやっと合コンから解放されることを喜ぼう。
30分後に迎えが来るということで、私たちは各々で帰り支度をし、楽しかったね、またね、明日連絡してね、などと言い合いながら部屋を出た。
通路を歩く間、明るいところで見たユウキはやはり美しい顔をしていた。
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