4 空

「レーネちゃんアイプチ?」


ナナミはマスカラを塗り終えこちらを振り返った。


私は手鏡を覗き込みブラシでチークを塗り、色づきを確認しながら答えた。


「うん。奥二重、いやだから」


私は元もとの狭い二重幅がどうにも嫌でアイプチを使っていた。


「そうなんだぁ。整形は?超楽だよ」


「整形?」


私が驚き聞き返すとナナミはあっけらかんと言ってのけた。


「そー、整形。ナナ一重だったからずっとアイプチしてんだよね。高校入ってから二重にしたの。すっごく楽だよ」


くっきり二重の丸く大きな目は叔父さん譲りだとばかり思い込んでいた。

しかし実際は整形だという。


私は色白で、切れ長の瞳が美しい叔母さんを思い出しなんとなく合点がいった。

目元は叔母さんに似たのだろう。


「整形かぁ……」


決して興味がないわけではなかった。


アイプチを使う煩わしさから解放されるのは大いに素晴らしい。

いつだってこの手鏡の向こうの、化粧を終えた自分でいられるならそうなりたい。


前髪を直しまた鏡を覗き込んだ。


「あ、これ内緒だよー」


取ってつけたようにそう言って笑うナナミは、私のそれとは違い自然な目元をしていた。


東京の裕福な家庭に産まれ、何もかもに恵まれているように見えたナナミがほんの少し身近に感じた。

ただ、整形を認め費用を出したであろう叔父さんと叔母さんのことを考えると、やはり私とは天と地ほどの差がある。


ナナミがローテーブルに向かい化粧を続けている間に私はさっさと服を着替えることにした。


ナナミの部屋に入ってからナナミと決めた服。

今日買ったばかりの黒いホルターネックのトップスと、デニムのミニスカート、ゴールドの太いベルト。

この大人びた服を着て、私はちゃんと夜の東京に溶け込めるだろうか。


ナナミは薄いピンクのベアトップワンピースを選んだ。

ピンクで統一されたこの部屋にすっかり馴染むような色だ。

お姫さまが好き、お人形になりたいんだとナナミは言っていた。

お姫さまやお人形より、私は大人になりたかった。


ナナミの支度を待ちながら同時に携帯の充電が終わるのを待った。

ユカさんはまだ風呂に入っている。

かれこれ一時間は経ったはずだ。


「ユカお風呂長いよね。携帯持ってくし」


ナナミが言うに、毎度あと30分は出てこないらしい。


「へー、長いね」


「ナナ一人で長風呂とかムリ」


どうでも良い話を事務的にこなしながら携帯の充電を確認すると、もう充電は完了したようだった。

ナナミは殆ど準備を終えている。もうすぐ出発の時間が迫っていた。


詳しい行き先もわからない。

その場にいるメンバーを誰も知らない。

何時にどうやって帰るのかも決まっていない。


目的を思い出すと気が重かった。

これも大人になるための階段だ、東京の夜にはよくあることなのだと自分自身に言い訳をしつつその時を待った。


「でーきた!行こっか」


ついに出発の命令が下り、重い腰を上げた。


ここから先はナナミ頼りである。

昼間はユカさんと一緒だったからなんの不安も抱かなかった東京という街も、今や恐れと憂いの塊に見える。


ナナミはリビングの叔母さんに「ナナ今からレーネちゃんと遊んでくるね」と声をかけた。

叔母さんは「今から?」と怪訝そうな表情を浮かべた。


時刻はもうすぐ21時になろうとしている。

ナナミはそれでも押し切るように「お昼遊べなかったんだもん、ナナもレーネちゃんと遊びたい」と駄々をこねてみせた。

叔母さんは小さくため息を吐いた。


「遅くならないようにね」


すぐにナナミの言うままにタクシー代を渡していた。

私も「すみません」と頭を下げたが、叔母さんはすべてわかっているのだろう、気の毒なほど申し訳なさそうにこちらを見ていた。


早く行こうとナナミに急かされて、罪悪感に駆られながら家を出た。


私は相手の男性たちを想像し、嫌で嫌で仕方がなかった。


外に出た途端まとわりつく熱気は不快そのもので、更に私を憂鬱な気持ちにさせる。

日が落ちたというのに外灯や家々の明かり、それからビル群の電灯で眩しく感じた。


見上げた空に星はなかった。


地元の夜道であれば外灯は数えるほどしかなく、また家の明かりもまちまちで、暗闇ばかりが続いていたのに、空には星が無数に輝いていたのに。


田舎の夜の暗がりは不便で仕方ないが、あの星空だけは妙に恋しい。


私は四歳まで東京に住んでいた。

父親の仕事の関係で産まれてすぐに東北から引っ越したそうだ。

そのうちに妹も産まれ、決して広いとは言えないが東京の下町のマンションで家族四人慎ましく暮らしていた。


あの頃のことは既にあやふやで、はっきり覚えているのは通っていた幼稚園の名前くらい。

幼稚園の年中に上がって夏が過ぎ、父親の急な転勤で東北地方のとある大きな街に越した。

そこで中学一年生までを過ごした。


東北の中でも比較的都会とはいえ東京との差は大きく、私の知っている当たり前は当たり前ではないのだと、幼いながらに頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。


そうして私は周りを注意深く観察して溶け込むこと、自我をなるべく殺すこと、とにかく足並みを揃えることを覚えた。


確かあの街にも星空はなかった。

「東京よりは空気がマシだね、星が見える」と母は言っていたが、記憶の中の夜空は東京もあの街も大して変わらないように思う。


「通りに出たらタクシー拾お」


軽快に歩き出したナナミに合わせ、私も歩き出した。

隣に並んで歩くとナナミはユカさんと同じくらい背が高いことに気付く。

ヒールの高さを抜いたって、165はあるだろう。

スタイルの良い家系なのかもしれない。


ナナミが携帯を弄りながらさっさと歩くもんだから、置いていかれないよう必死でペースを合わせた。


東京の人たちは歩くのが速い。

きっと普段から歩き慣れているからだろう。


今朝とそして帰りに叔父さんの車に乗って通った道を歩き、駅前へと続く大きな通りに出た。


ここから更に進まないと駅には着かない。

車通りは多くなり、スーツを着た人から学生までたくさんの人が行き交っている。

コンビニ、ビル、様々な店の明かりが耐えない。


ナナミは慣れたように手を上げてタクシーを停めた。ナナミに続いてタクシーに乗り込んだ。

「歌舞伎の……まで」と行き先を告げ、タクシーは走り出す。


歌舞伎、とはきっと歌舞伎町のことだろう。

歌舞伎町、しかも夜の。


テレビや雑誌、ネットの偏った情報しか知らない私は思わず隣に座るナナミの方を見つめた。

ナナミは澄ました顔でまた携帯を弄っている。


カチカチと絶え間なくボタンを押す音が聞こえる。

不安がまた波のように押し寄せる。


ああ、私は今日、今までの私ではいられなくなるのかもしれない。



「……ねぇ、もしヨウスケくんに話しかけられてもテキトーにしといて」


ナナミが低い声で告げた。


「あとジュンくんも。マリのだから」


要するに牽制である。

くれぐれもナナミと、そしてその友達の邪魔だけはしてくれるなと。


「うん、わかった」


まあ緊張して喋れないと思うし、と私はおどけてみせた。

ナナミはカチリと携帯を閉じてから小さくため息をついた。


「向こうにもう一人男の子いるんだよね。レーネちゃんはそいつとお話してて」


これからどこで誰とどんな会話を繰り広げるかはわからないが居心地はそりゃ心底悪いだろうということだけははっきりとわかる。

向こうだって、突然人数合わせで素人の田舎者が来たらがっかりするに決まっている。

がっかりするだけならいい方で、怒る可能性だってある。

上手く笑って、その場の空気に合わせておどけて、馬鹿にされて、それからくれぐれもナナミたちの足だけは引っ張らないようにしなければ。


膝の上で抱えたバッグの持ち手をギュッと強く握った。


車内でこの後ナナミとどんな会話を交わしたのかはよく覚えていない。

今まで彼氏がいたかとか、好きな人はいるのかとか、そんな当たり障りのない会話だった気がする。

高校に好きな人はいない、彼氏だっていたことがない。


ナナミは話題こそ振るが、私の返答に対しふーんと興味なさそうな返事だけ寄越した。

そしてまたナナミが携帯を開き、カチカチと忙しなくボタンを押す音がひっきりなしに響いて、道中は沈黙ばかりが続いた。


目的地に着いたのは22時を過ぎた頃であった。


夜の歌舞伎町。

テレビや雑誌、ネットの偏った情報しか知らない私にはまさに異境だ。


大きなビルが暗い空に向かっていくつも伸びている。

行き交う人々は昼間渋谷や原宿で見たそれよりも少ないが、それでもどこを見ても人、人、人。

靴の音、話し声、店の中から流れる音楽。

若者と大人。子供はいない。

曲がり角の向こうは至るところで看板の文字がけばけばしい色で自己主張をしていて、ああ、これぞ夜の東京だと感動すら覚えるほど。


家を出る前に叔母さんから貰った万札を運転手に渡し、お釣りを受け取ると颯爽とナナミもタクシーを降りてきた。

バタンと閉まるドア。走り去るタクシー。

置き去りにされた気分でいっぱいだった。


目の前の建物の壁にはでかでかとカラオケの文字が光っている。

ナナミが自動ドアを入って行くから私も追いかけるように続いた。


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