2 東京

簡単に挨拶を済ませ客間に荷物を運んだ後、ナナミとともに私とユカさんは朝食をとった。


広いリビングにはダイニングテーブルとソファ、アップライトピアノが置いてあり、壁にはナナミが小さい頃の写真がいくつも飾られていた。


バレエの衣装に身を包み、白粉と口紅で化粧したお団子ヘアの幼いナナミが叔母さんと写っている。

その横にはステージの上でドレスを着てピアノを弾くナナミ。

おそらくは海外のものだろう、白い砂浜とコバルトブルーの海の前で鮮やかなピンクのワンピースを着たナナミ。

裕福な家庭で両親からめいいっぱい愛されて育つ一人娘の姿。

ごく当たり前のようにそこかしこに飾られている。


テーブルの上に並んだ朝食は、まるで高級レストランのそれであった。

上品で高そうな皿に、丁寧に少しずつ盛り付けられた様々な料理。

おそらく栄養バランスもしっかり考えられた献立だろう。

これはすべて叔母さんが作ったのだという。

しかし私は無作法にならないよう、マナーを気にしてばかりでちっともそれを味わえないでいた。


対してユカさんは普段と変わらない様子で、好物だというヨーグルトを平然と二回もお代わりした。

向かいの席に座るナナミは携帯を弄りながらフォークでつまらなそうにサラダをつついている。

しまいにはヨーグルトのイチゴソースが嫌だと言いだして、叔母さんが甲斐甲斐しく冷蔵庫からブルーベリーソースを取り出し、取り替えてやっていた。


他所様の家庭の常識を見て、益々食欲は失せた。


ズルリ。妙な感覚に慌てて膝の上を見ると、そこにあった携帯が無くなっていた。


足元には先程からけたたましく吠えていた真っ白なチワワ。

私の携帯、正しくは携帯につけていた比較的大きなぬいぐるみのストラップを咥えている。


しまった、と思った時には遅く、犬は携帯やその他のキーホルダーをめちゃくちゃに振り回しながらぬいぐるみを引きちぎらんとしている。


「あらやだ、リボン!やめなさい」


叔母さんがなんとも無意味な声をかける。

ゴンゴンと携帯は床に打ち付けられ、犬は唸り声をあげ続けた。


私が手を伸ばすより先に、無残にもぬいぐるみは引きちぎられた。

繋いでいた紐やビーズがそこら中に弾け飛ぶ。


犬はぬいぐるみの残骸を咥えて、床に転がるビーズを追いかけ走り回っている。


「超バカ犬」


ナナミがケラケラと笑った。

ユカさんは立ち上がりすぐに携帯を拾い上げた。


「携帯大丈夫?」


叔母さんは「もう、ごめんなさいね」と言ってビーズを広い集めている。


携帯は無事だった。特に異常なく動いていた。


ストラップの方はめちゃくちゃで、千切れ、絡まり、犬の涎がついていた。

以前地元の友達数人とお揃いで買ったぬいぐるみのストラップ。

今や綿が飛び出し毛が散乱している。


ちょうど書斎から戻った叔父さんが部屋の中の様子を見て驚いている。

そして何かを察したのか、申し訳なさそうに私の方を見た。


この日は叔父さんが東京を案内してくれる約束だった。

だが一緒に行くはずのナナミが眠いと駄々をこねたため、結局私とユカさんだけで観光することになった。


叔父さんは今朝の犬の失態もあってか、非常に申し訳なさそうだった。

せめて車で駅まで送っていくよと言ったのでそれはお願いした。


「ナナは最近夜遅くまでレッスンと撮影があってね」


駅に向かう途中、叔父さんは言い訳なのか自慢なのかわからない話をぽつりぽつりと話し始めた。


「リボンも随分甘やかしているから」


過ぎたことは仕方がない。


軽くなった携帯を思い出し少しだけ怒りが蘇ったが、私はそれを圧し殺し、大人の対応をすることにつとめた。


「いえ、あの、私が膝に置いてたせいです。ストラップもボロかったし、いいんです」


ユカさんは黙って私と叔父さんのやり取りを聞いていた。

私はアルバイトをしていて身につけた処世術のようなものを、そっと顔に貼り付けて明るく振る舞ってみせた。


駅はバスやタクシーがひっきりなしに停まるから長くは駐車出来ないとこのことで、駅の手前の細い路地で私とユカさんは車を降りた。


降り際、叔父さんはユカさんに「観光する分のお小遣い」として2万円を差し出した。

そんなに貰えないと戸惑うユカさんだったが、もう車を動かさないといけないから、と叔父さんはさっさと札を握らせた。


「帰りに迎えにくるよ、楽しんでおいで」


叔父さんは笑顔で言い残し去っていった。


遠ざかる車を見送ってユカさんはため息をついた。


「貰っておこうよ。ストラップ代」


私の気持ちは既にこれから目指す原宿や渋谷の方に向かっていたから、すんなりとユカさんの手渡した一万円を受け取った。


そうだ、こんなことでいちいち驚いていたら仕方ないのだ。

私は東京にいる。

なんだって叶う気がしている。

テレビと思い出の向こうにしかない、遠い景色の中にいるのだ。


その日はまずユカさんに付き合って混み合った原宿に行き、ユカさんが好きだという店を廻った。

原色の黄色やピンクが並ぶ店内に私は圧倒されてしまった。

そしてこれまた混雑したゲームセンターでプリクラを撮って、ようやく私の行きたかった109に行き心ゆくまでショッピングを楽しんだ。


観光らしき観光といえば、原宿でクレープを食べたことくらいだった。

初日だしそれくらいでちょうど良いと思った。


この街を歩く人々と私はなんら変わりがない、東京の一部になれたという錯覚で誇らしかったから。


田舎とは違う茹だるような暑さにもその内に慣れた。

建物や電車の中は寒さを感じるほど冷えていたし、まあこんなもんかとすら思った。


東京という街は、たとえユカさんが派手な髪色をしていようが、私のような子供が大袈裟に化粧をして背伸びした服を着ていようが、誰も気にとめやしない。

こんなに大勢人がいるのに、誰も他人には興味を持たない。


もしも地元で私たちがこのままの格好で出歩いていたなら、たまにすれ違う年寄りは振り返って見るだろうし、車の運転手だってジロジロとこちらを眺めるだろう。

息苦しくてたまらない。


東京は寂しい街だ、お金がかかる、空気も水も汚いと地元の大人は悪態づくが、あれは田舎に留まることしか出来ない自分を慰めるためのものだと私はこの時はっきり確信していた。


結局ずっと遊び回っていた私たちは午後三時すぎには目当ての店を巡り終えてしまった。


意味もなく目についた店に入ったりすることにも疲れ始め、既に明日はどこに行こうか、無難に東京タワーでも観に行ってみる?という話題が上がっていた。


そのうちに電車や駅が混み合う前に帰ろうということになり、私たちは午後四時すぎの少し混み始めた電車で三鷹駅に向かった。


三鷹駅から降りて今朝来た時と同じ場所まで歩き、これまた今朝来た時と同じように車を停め待っていた叔父さんの運転で帰った。


体は疲れ切っていたが、頭は興奮しており、どこに行った、こんなことがあったと私たちは始終笑いながら叔父さんに話して聞かせた。

叔父さんは楽しそうに目を細め、調子を合わせて笑ってくれる。


今朝のことは私の中ではとっくの昔、まるで何日も前に起きたことのように感じていた。


家に帰るとナナミは居なかった。


叔母さんが「ナナちゃん、今リボンのお散歩に行ってるのよ」と言った。

私たちはさっさと客間に引っ込んで今日の戦利品を互いに広げてみせた。

途中、ユカさんは独り言のように呟いた。


「ナナミが散歩に行くなんて、絶対ブログのためじゃん」


ナナミは事務所の方針で時折ブログを更新していて、更新の際写真を載せるノルマがあるらしい。


散歩はブログのためと言われると納得がいった。

ナナミは犬に対して無関心なようだったし、むしろ吠え立てる犬に「バカ犬」「ウザい」と吐き捨てては足蹴にしていた。

叔父さんも叔母さんもそれを当たり前の光景のように、特に気に留めることもなく生活している。


何もこれは東京に、ナナミに限ったことじゃない。

こうやってペットを物のように扱う子は田舎にだっている。

しかしやたらめったらに吠えまくり、挙句客人の持ち物を壊す犬も、それを粗末に扱う娘にも知らん顔している大人……親である叔父さんと叔母さんにカルチャーショックを受けたのは事実であった。


これがもし、ナナミが私で、叔父さんと叔母さんが母だったなら、と考えて身震いをした。


鼓膜が破れるほど横っ面を思い切り殴られて、髪を掴んで引きずられているだろう。


そうこうしている間に、廊下の方からキャンキャンとけたたましく吠える犬の声が聞こえた。

ナナミが散歩から帰って来たようだ。


私とユカさんは一瞬顔を見合わせてから急いで荷物を片付けた。


「あー超疲れたぁ」


ノックもなしに横開きのドアを開けて、ナナミが部屋に入って来た。

部屋のど真ん中に座り、無防備にホットパンツから放り出した脚は私のそれより細く長かった。

しかし色の白さは然程でもなく、ほんの少しだけ優越感を覚えた。


「あ、ねぇ今日どこ行ってきたの?」


私とユカさんの買い物袋を見つけてナナミは手を伸ばした。


ユカさんはやれやれいつものことだと言わんばかりにちらりとこちらを見てから、ナナミの手からやんわりと買い物袋を取り上げて中身を広げ始めた。


「原宿と渋谷。アタシは原宿で」


「ふーん、ユカのはいいや。いつも同じだし」


そう言ってイタズラに笑う仕草にまるで嫌味はなく、まさに小悪魔である。


ユカさんも「はぁ?ちゃんと見ろし」と言いながら笑っている。

自己中心的な振る舞いをしても許される何かがナナミにはあった。


「ねぇ、えっと…レイカちゃん?だっけ?わかんないや、ナナ、レーカちゃんの見たいんだけど」


ナナミは私の方を振り返って言った。

私が訂正するより先にユカさんが「レ、イ、ネ、ちゃん!覚えな」と言った。

私は愛想笑いを浮かべるしかなかった。


「レーネちゃん?え、名前かわいくない?ハーフ……じゃないよね?」


「あ、違います。変な名前ってよく言われます」


「えー、うけるんだけど。てかタメでしょ?敬語とかいいから」


私は圧倒されつつ「うん」と返事をした。 


ユカさんもそうだが、ナナミは人付き合いに恐れなど微塵も感じていないようだった。

ネアカというやつだろう。臆病で、あまり積極的ではない私はこういう人に憧れ、また同時にどこか厄介に思った。

ただ、何でも勝手に決めるもんだから居心地が良いのも確かである。


早く見せてとナナミに急かされて私は先程しまったばかりの買い物袋を開けて見せた。


「へー、こういうの好きなんだー。これカワイイ、マルキュー?」


ナナミはそう言って、どう?似合う?と自分にあてて見せた。

私はうんうん頷いた。


「ナナもっとお姫さま系が好きー」


急に興味をなくしたようにナナミは服を乱雑に袋に戻した。

くるくると態度が変わって忙しない。

後でたたみ直さないといけないな、と思った。


「てか聞いて。ナナさっき起きたの。凄くない?」


「は?うちらがいない間ずっと寝てたの?」


「そーなの。ナナ昨日、ミクがロケ行くからさびしくてマリとシオとー、あとメグとオケ行ってお別れ会してたらフツーに終電逃したの」


「ばーか、何やってんの」


「え、ひどー。ひどくない?」


ナナミに同意を求めるよう振り返られ、私は「うーん……」と苦笑する他なかった。


その後続いたナナミの話を要約すれば、同年代の芸能関係者(ナナミと同じく駆け出しの芸能人)たちと夜通し遊んでおり、結局朝方にタクシーで帰宅したとのことだった。


お察しの通り、ナナミは当時から派手に遊び回っており、未成年飲酒は当たり前、芸能関係者と合コンをしたり付き合ったりとやりたい放題であった。


今でこそ目撃情報などが簡単に出回ってしまうが、この当時はネットの情報は掲示板が主流であり、あくまで噂程度の本当かウソかわからないものが流れるばかりであった。

ましてやナナミとその周りは無名の芸能人なもんだから、本人たちがわざわざ言い触らさない限り誰にも知られることはなかったのである。


幸い、私もユカさんも駆け出しの芸能人たちに興味はなく、更にゴシップともなれば完全にどうでもいい情報の一つでしかなかったため、ナナミがこれ程までに危機管理能力が低くかろうが芸能活動を続けていられたのだ。


この後も芸能界の裏情報をペラペラとナナミが話していたのだが、名前すら覚えていない若手や今やとっくに消え去った芸能人の話ばかりなので割愛する。


私はしばらくナナミとユカさんのやり取りを大人しく聞いていた。


携帯を開いてメールを確認するが、受信ボックスに届いていたのはメルマガだけだった。


母は今頃どうしているだろう。中学三年生の妹は部活の後、誰かと遊んでいるのだろうか。

友達は帰省でもしているのだろうか。


元より私は連絡不精で、携帯を使っていてもメールも電話もせずネットを見ている時間の方がずっと多かった。

この頃流行っていた個人サイトを見れば友達の動向はわかったし、こちらから誰かに連絡することは殆どなかった。


そうこうしているうちにこんこんと控えめなノックが響き、次いでドア越しに叔母さんの声が聞こえた。


「夕ご飯にしましょう?」


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