1 2005年、夏

あれは2005年、平成17年の夏だった。

もう少し詳しく言えば平成17年の8月のことである。


当時私は高校二年生。地元の高校に通っていた。

東北の田舎町の、偏差値の低い公立高校だ。


夏休みが始まって、表向き宿題の多さにうんざりしつつも私の心は躍っていた。


何故ならその日、東京行の夜行バスに乗っていたからである。


安い夜行バスの狭苦しい座席で殆ど眠れなかったのにも関わらず、頭はすっかり冴えきっていた。

閉じたカーテンの隙間から外を覗くと、窓の向こうには地元とは比べ物にならないくらい人工物、コンクリートに囲まれた街が続いている。

背の高いビル群、何本も、狭い街中を交差するように伸びる道路。


私は今東京にいる、ただそれだけで叫びだしそうなほど興奮していた。

足元のバッグから手鏡を取り出して、手ぐしで髪を整えているうちに通路を挟んだ隣の座席にいたユカさんも目を覚ましたようだった。

大きなあくびをしてからつぶやいた。


「……マジ眠い」


バスに乗り込んですぐ寝始めて、随分しっかり寝ていたというのにまだ眠いらしい。


ユカさんはオレンジに近い金色のショートヘアを手で撫で付けて、すぐに携帯を開いた。

私も染めたばかりの茶色いロングヘアをまた手ぐしで整えて、誇らしい気持ちになった。

忌々しいあんな場所から抜け出して、東京の一部に溶け込んだ気がした。


携帯を開いてはみたが、時間を確認する程度に留めた。

運転手のアナウンスとともに、車内の電灯が着いた。

朝だ、東京の。


ユカさんは私の元バイト先の先輩である。

歳は二十歳で、高校を卒業してからずっとフリーターをやっている。

背が高く、古着系ファッションを好んでおり、非常に面倒見の良い人だった。


高校一年生の時に地元のスーパーでバイトし始めて知り合い、何故か私をとても可愛がってくれた。

シフトが被った時には車で家まで送ってくれたり、休みの日に買い物やカラオケ、映画に連れ出してくれた。


成績が芳しく無いという理由で高校側からバイトを辞めるよう言われた時、抗議してやると高校まで行こうとしたのを必死で止めたのが懐かしい。

結局バイトは辞めたのだが、それでもユカさんは私と連絡を取り、働いていた頃と全く変わりなく可愛がってくれた。


こうして私が東京に脱出……もとい遊びに来れたのも、ユカさんが誘ってくれたおかげであった。


夜行バスから降りて早朝5時半の東京駅に放り出された私たちは、駅のトイレで化粧をしてからひとまず目的地である三鷹駅を目指し電車に揺られていた。

地元とは違う、朝から賑やかな駅に圧倒されて私は浮足立っていた。

大きなキャリーバッグやバッグの重さを感じないほどに。


隣に立つユカさんが持っていた携帯を閉じた。


「従兄妹、起きてるからすぐ迎えこれるって」


「ありがとうございます。私までお世話になっちゃって、すみません」


「気にしない気にしない、アタシが誘ったんだもん」


おじちゃんたちも気にしないし、歓迎してたよ?とユカさんは明るく笑った。


私は手元にある、地元の銘菓のお土産の入った紙袋をちらりと確認した。

ちゃんと挨拶できるだろうか、ユカさんの後輩でいつもお世話になっています、三日間お世話になりますといって、ツマラナイモノデスガとこれを差し出すことが出来るだろうか。

私の緊張を悟ったのか、ユカさんは話題を変えた。


「ねぇ、ママからメールきた?」


その話題はやや、いや、かなり厄介な話題だった。

私は首を横に振った。


「来てませんよ、てか多分ずっと来ないです」


ユカさんは苦笑した。


「離れてたら少し落ち着くかもじゃん?」


「私はこのままでもいいです。東京に住んじゃいたいくらい」


電車の窓にうつる私は、校則で禁止されている茶色い髪をしている。

この日のために買った、白のサテン地に黒レースのついたキャミソールと黒いタイトなミニスカート、ビジューのついたシルバーのサンダル。

しょぼくれた田舎で、母親のもとで暮らしている私とはもう違うのだ。


「住みたいのは超思う、従兄妹が羨ましいよ」


行き交う人々……東京に住んでいる人々を見て、親の在り方一つで、こうも人生は変わるのだろうと私は思った。


ユカさんに、夏休みは東京に住む従兄妹の家に泊まって、東京観光でもしないかと誘われた話をした時、母は開口一番「馬鹿じゃないの」と吐き捨てた。


悔しくて、必要なお金は貯めていたバイト代で賄うことや、ユカさんの従兄妹の家も賛成してくれていること、何よりあの、信頼している『大人』であるユカさんの誘いなのだから、何も余計な心配はいらないんだと必死に説明した。

しかし母は「騙されている」「まだそんなヤツとつるんでいるのか」「お前は何もわかっちゃいない」と怒鳴りつけ、しまいには「クズ」「大バカ野郎」「いいから諦めろ」と罵り、私の頬を思い切り三度ビンタした。


虫の居所が悪かったようだった。


私は泣きながら部屋に籠もるしかなかったし、母はその様子を見てざまあみろと言いたげに「フンッ」と鼻で笑った。


父と母は私が中学三年生の頃に離婚したため我が家は母子家庭だった。

母は別れてから思う存分仕事に打ち込み、早々に新しい男を作り、随分楽しそうに過ごしていた。

しかしどうも男がそばにいないと落ち着かないようで、会えない日が続くとこうやって爆発する。


二つ下の妹は頭から布団を被って泣く私を「もっとうまくやりなよ」となじった。


今度は比較的機嫌のいい日を見極めて、再度東京行きの話を母にしたのだが、母は最後まで首を縦に振らなかった。

私も何度殴られても罵られても意見を曲げなかった。

最後は「もう出ていけ」と追い出される形で家を出たのであった。


三鷹駅で電車を降りた。

既に暑くなり始めている外のまとわりつくような空気を浴びながら待ち合わせ場所まで歩いた。


ユカさんは東京に何度も来ているらしくすっかり歩きなれていた。

私はユカさんに着いて行くことしかできなかった。


見慣れぬ街を歩くのは楽しいが緊張感が拭えない。


どこをどう通ったのかも思い出せぬ道を歩き、ようやくパーキングにたどり着くとユカさんは1台の車に手を振った。

中から降りてきたのは線の細い中年の男性だった。


「おはよー、おじちゃん朝からごめんね」


ユカさんが車に近付いていった。

ひょろっとしていて、やや薄くなった髪、丸くて優しそうな目が眼鏡の向こうに見える中年男性。

彼がユカさんの叔父のようだ。


私が「おはようございます、すみません」と頭を下げると向こうも軽く会釈をした。


「ああ、君が」


優しそうな笑み。悪い人ではなさそうだなとほっとした。

薄水色のポロシャツから伸びる手足はどうにも頼りなさそうだったが、叔父さんは手際よく荷物をトランクに運び入れた。


挨拶を済ませて車に乗り込み、ユカさんは携帯を開いた。


「あれ?ナナミは?」


運転席の叔父さんはエンジンを掛けながら答えた。


「ナナは朝一でやることがあってね……ストレッチに、シャワーに、あとはヨガだったかな」


ミラー越しに見た叔父さんは困ったように笑っていた。


「マジで?芸能人って感じじゃん」


対してユカさんは冷めた調子である。


ユカさんが話していた従兄妹……ヨシノナナミは、この当時駆け出しのグラビアアイドル兼女優の卵であった。

私も最初、名前を聞いてもピンと来なかったほど無名の芸能人だ。

それでも事務所に所属していてたまに雑誌に載ったり、ちょい役でB級映画に出たり、固定のファンも何人かいるようだった。


そしてユカさんはというと、従兄妹が芸能人(の端くれ)だということは一つも自慢したりせず、むしろ最初は言いにくそうに、実は……と教えてくれた。

あまり従兄妹の芸能活動に興味がないとも言っていた。

それどころか反対しているようにも見えた。


この頃の私は、ユカさんは従兄妹に遠慮しているのだろうか?なんて考えていたのだが、今ならなんとなくわかる。

芸能活動ではなく、変わりゆくナナミの性格に嫌悪していたのである。


結局ナナミはこの後25歳までアイドル兼女優としてパッとしない芸能活動を続けていたのだが、その間に大小様々な噂が出回り、逃げるように結婚、引退してしまったらしい。


車内であれやこれやと話す叔父さんとユカさんを私は大人しく見守っていた。

時々叔父さんから、東京は初めてか?ユカはそっちで上手くやっているのか?など聞かれ、なるべく愛想よく答えた。

私とユカさんが地元の話をすると、叔父さんは目を細め、楽しそうに笑って聞いていた。


車はやがて大きな通りを抜けて、路地の入り組んだ方へと進んだ。

窓から見えた建物はどれも立派な一軒家ばかりで、ここは所謂住宅地で、しかも裕福な家庭の住まう場所だというのがすぐわかる。


そういえばユカさんが言っていた。

叔父さんはとある有名な企業に勤めているのだと。


そうこうしているうちに立派な家の前で車は停まった。

玄関ポーチには花々が咲き、窓には白いフリルのついたカーテンが見える。

絵に描いたように裕福そうな家だ。

叔父さんはそこの、これまた立派な車庫に車を入れた。

ここが叔父さんの家。

私にはないものだらけの家。

私には遠い世界。


迎え入れてくれた叔母さんと、一人娘であるナナミの姿を見てそれを痛感した。

若々しく、上品な振る舞いの美人な叔母さん。

叔父さんに似たのかぱっちりとした大きな目、細く長い手足、小さな顔にダークブラウンのロングヘアを靡かせるナナミ。


繰り返し頭の中で復唱した挨拶を述べてお土産を渡しながら、私は緊張と不安を打ち消すようにめいいっぱい微笑んだ。

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