3-1

「マルクス。……おい、マルクス、聞いているのか?」


聞こえていた。マルクスは僕の名前だ。

それなのに、一瞬、自分が呼ばれていることが分からなかった。


「ごめん、父さん。聞こえてなかった」


「全く、お前というやつは。そんなぼんやりとした顔をしていると、結婚相手のお嬢さんに笑われるぞ」


「わかってるよ、ちゃんとする」



背筋を伸ばして表情を引き締める。

結婚することは決まっているのだから、どんな顔をしていても良いと思うけど、父の前ではそうもいかない。


マナーや言葉遣いに厳しい父は、適当な人間が許せないのだ。

長々と説教をされることを考えれば、父の前だけでも、きちんとした態度を取るのが賢明だろう。



父はその後も何かと小言を言っていたが、適当に相槌を打って聞き流す。



準備に時間がかかっているのか、シルヴィアはなかなかリビングに現れない。

退屈しのぎに室内を見渡す。


白い壁に黒い床。黒の本革のソファがワンセット、一人掛けのものが二脚に、二人掛けのものが一脚。

間には楕円型のガラステーブル。

部屋の角には、観賞用の植物が植えられている。


これといった特徴のない部屋だった。僕の家と変わらない。


「パパいる?……あ、すみません。ええと、父はいらっしゃるでしょうか?」


急にドアが開いたかと思えば、妹のアリーナが入ってきた。

明らかに、父親と客への対応が違った。

父はこういう子を許せない。


「いや、ここにはいないよ。シルヴィアが来るのが遅いから、様子を見に行ってる」


父が説教する前に、素早く返事をする。


「そうですか。姉さんまだ準備できてないのね、もう。ちょっと呼んできますね」



アリーナは少し呆れたような言い方をする。

でもそれが、僕達を気遣っての演技だということを僕は知っていた。


シルヴィアは準備などしていない。

僕に会うのが面倒くさいというのが本音だろう。

生まれた時に、いつ誰と結婚するのかが既に決まっているのが、この国「Amore perduto(アモーレ・ペルドゥート)」のルールだからだ。


わざわざ式の前に顔合わせをする必要はない、彼女はそう思っているに違いない。

気の強い女という噂は本当なのだろう。



ため息にならないように気を付けながら、ゆっくりと息を吐く。

気が重い。

アリーナが出て行ってから数分後にシルヴィアは登場した。



ワインレッドの膝上のワンピースに、同じ色合いのバラの髪飾り。

落ち着いた深みのある赤が、白く美しいシルヴィアの肌に映える。

ハーフアップにした、栗毛の髪も彼女によく似合っていた。


「すみません、娘が遅れてしまって。シルヴィア、お前もご挨拶しなさい」


父親に言われて渋々、シルヴィアも口を開いた。


「遅れて申し訳ありません。シルヴィアです」


挨拶したんだから、もういいでしょう?と言わんばかりの表情で、父親に目配せする。

僕とは一度も目が合わなかった。


「いえいえ。お会いできて光栄です。実に美しい娘さんですな」


「初めまして。マルクスです」


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