第2話 邂逅

 落ちる、落ちる、落ちていく。地上へと、真っ逆さまに。抗えない、何一つ。すっかり小さくなった手足をばたつかせても、どうしようもない。

 喉が張り裂けそうに痛い。いやだいやだと叫んでいるはずなのに、何も聞こえない。自分の身体が風を切る音に遮られ、声にならずに消えていく。

 水のようなものが眼前に現れたかと思えば、空の方へと消えていく。それが私自身の涙と気づくのに、ほんの少しだけ時間がかかった。

 ひとしきり暴れて、叫んで、泣いて。やがて私は悟った。助からないと。その途端、体はピクリとも動かなくなって、声も涙も枯れてしまった。

 どうしてこうなってしまったのだろう。女神になって、何かを成したいと思った。世界の為に、平穏の為に。それを考えて行き着いた答えが、世界を脅かす魔王ゴーファの討伐。魔王を倒す事が出来れば、世界は平和になると信じて。信じて挑んだ結果がこれだ。我ながら情けない。これが地上で戦神と呼ばれて信仰されるサラマンダーの末路だなんて。先代のサラマンダーである母さんが聞けば、大笑いするだろう。もっとも、そんな母さんの顔を見る事も、もうかなわないが。

 視界の端に地上が見えてくる。もうまもなく地面へと激突するだろう。神族の力を失った今の状態で激突すれば、きっと原型は残らない。愚かな女神に相応しい末路だ。


 ――――せめて一度くらい、女神らしい事をしたかったな――――


 正常であればため息とつきながら言葉にしていたであろう、そんな事を思いながら、私の意識は鈍い音と共に刈り取られた。



――――――――



「う、ん…」

 

 目を覚ますと、木目上の天井が視界に広がっていた。体は鉛のように重くて、首以外は殆ど動かせないけど、ベッドに寝かされているというのは感触で分かった。でもそれは同時に、信じがたいもう一つの事柄が事実である事を意味している。


「いき、てる?」

「あら、目を覚まされたのですね」


 ふと声が聞こえた方に目を向けると、そこには給仕服を身に纏った一人の女性がいた。肩まで伸ばした銀髪に、エメラルド色の瞳。鋭角的な耳からして、エルフ族だろうか。両手に握られているのは、皮をむいた林檎に、包丁。その真下に皮の盛られた皿があるから、丁度剥き終わったところだったのだろう。


「あな、たは?」

「私はシルフィード、しがないメイドにございます。どうぞお見知りおきを」


 女性は包丁と林檎をさらに置くと、そう言って小さく頭を下げる。その直後、女性の後ろに見えた扉がゆっくりと開いた。


「シルフィード、目を覚ましたの?」


 現れたのは、赤を基調とした軽装の鎧を身に着けた少年だった。炎を思わせるような橙色の短髪で、青い瞳。騎士を思わせる風貌は一見様になっているが、どこかあどけなさを感じさせる。


「これはローア様。丁度目を覚まされたところです」

「そっか、よかった」

「だ、れ…?」


 頭は覚醒しているはずなのに、うまく声を出せない。それでも何とか絞り出して、少年に尋ねる。


「僕はローア。ローア・ブリティッシュ。よろしくね」


 少年…ローアはそう言うと、女性…シルフィードの隣に丸椅子を置くと、そこに腰を下ろした。ブリティッシュ…どこかで聞いた事があるけど、思い出せない。その間にローアは私に視線を向けたまま続けた。


「君、街の入り口に倒れていたんだよ、覚えてない?」

「正確には、明らかに不釣り合いな衣服と共に、ですが」

「それは言わないでおこうよ、目をそらすの大変だったんだから」

「そうですね、あと一歩近づいて視認なさっていたら、ローア様も昏倒なさっていた事でしょう」

「シルフィードの手で、だけどね。お願いだから真後ろからナイフは投げないでください」

「ご安心ください、模擬製ですので当たっても死にはしません」

「死にはしなくても痛いからね!?後頭部とか普通避けられないからね!?」


 突然漫才みたいな事を始めた二人を横目に、私は現在の状況を整理する。まず、私は魔王に挑んで、罠にはまって力を奪われた。さらに奪われた事による副作用か、それとも効果の一つなのかは分からないけど、身体も人間の幼子…鏡を見ないと何とも言えないけど、感覚からして大体十歳前後だろうか…にまで退行した挙句に地上へと落とされた。そしてそこから生還し、この二人に保護されて今に至る、と。

 うん、あの高度から落ちてどうやって助かったのかは分からないけど、状況に関しては間違っていないと思う。首を動かして、毛布の隙間を除いてみると、上半身に見知らぬ衣服を身に纏っているのが見える。肌の感触から、おそらく下半身も同様なのだと思う。おそらくはシルフィードが着せてくれたのだろう。一応ローアが着せたという可能性もなくはないのだが、それは正直考えたくない。

 それだと次は…と、私が次の思考に入ろうとしたところで、漫才を終えたらしいローアが私に向かって口を開いた。


「…そういえば君、どうしてあそこに倒れていたの?」

「あ、それは…」


 答えようとして、私はハッとなった。


(どうしよう…!事情なんて、どうやって説明すれば…!?)


 自分は戦神のサラマンダーで、魔王に戦いを挑んだら力を奪われた挙句幼女化して地上に落とされました、なんて、口が裂けても言えるわけない。というか、言ったところで信じてもらえるわけがない。行き倒れた少女が頭のおかしい事を言っていると思われるだけだ。とはいえ、言い訳するにしてもどうすれば…。


「えっと…大丈夫?」

「ふむ、なるほど」


 表情に出てしまったのか、内心焦っている私を見て、ローアは困惑しながら尋ねてくる。その隣でシルフィードは納得したようにうなずいて…え、頷いた?


「えっ?シルフィード、何かわかったの?」

「いえ、彼女の心の声が聞こえたので」


 えっ?えっ?心の声?聞こえた?

 何のことか分からずに混乱する私に答えを教えるように、ローアが口を開いた。


「それって風の読心魔法の事?シルフィード、あれ使うのやめたんじゃ…」

「はい。ですが恥ずかしながら体質上、多少の威力は常時展開してしまっていますので」

「え?でもそれも確か、魔力抵抗の殆どない赤ちゃんくらいにしか効果がないんじゃなかったっけ?」

「はい、ですので信じがたい話ですが、彼女にはその魔力抵抗がないものと思われます」

 

 きょとんとしながら尋ねるローアに、淡々と答えを返すシルフィード。その光景を見ながら、私は自分の血の気がどんどん引いているのが分かった。

 風魔法の中に読心の魔術がある事は思い出せた。だけど、魔力抵抗がない?赤ちゃん?今の私には、人間の幼子程度の魔力抵抗すらないって事?

 もちろん、シルフィードが私を陥れるために吐いたハッタリという可能性もあるけど、ローアの表情から見て、共謀しているようには見えない。むしろあの目は、シルフィードの言葉を完全に信じている目だ。でも事実だとすれば、私は隠し事すら出来ないという事になる。それだけならまだいいけど、この心の記憶さえ、子どもの妄想から生まれた偽りだと断じられれば、私には何一つ打つ手がない。自身を拒絶されるかもしれないという絶望に恐怖を感じている間に、ローアが詰みの言葉を発した。


「…それで、何かわかったの?」


 終わった、と。直観的に思った。これでシルフィードが話したら、どんな反応が返ってくるだろう。嘲笑か、怒りか。どの道、ロクな反応じゃない。私は自分の頭の中が絶望に染まっていくのを感じ取った。ごめんなさい、母さん、父さん。神族と戦神の名に泥を塗るような真似をして…。


「真に申し訳ありませんが、申し上げられません」

「そっか、分かった」

「…えっ?」


 思わず、そんな言葉が出た。分かったって、え?それだけ?それで会話終わりなの?さも当然のように断りを入れたシルフィードよりも、それを当然のように受け入れたローアに、私は視線を向けた。


「きか、ないの?」

「どうして?」

「だって…きに、ならないの?」

「そりゃ、本音を言えば気になるけど…言いたくない事っていうのは君を見ればわかるし、シルフィードがこう言う時は大抵理由があるし、それに」


 ローアはちょっとだけ考えるように唸ると、唐突に右手を私に近づけて、その頭をそっと撫でて来た。


「あっ…」

「君が悪い人じゃないってわかったから。今はそれだけでいいかなって」


 そう言って、ローアは微笑んだ。その表情が一瞬だけ、私の記憶の一つと重なる。不器用で口下手で、母さんに全く頭が上がらなかったけど、幼い頃の私が隠し事をしようとしている時に、何も聞かずに頭を撫でてくれた、あの人に。



――「お前はわるい子じゃないと分かっているから、今はそれでいいさ」――



 思い出そうとすると、胸が痛い。ううん、そうじゃない。これまでに浮かんだ感情がいくつも混ざって、わけが分からなくなって来ている。


「…ローア様、その方は目覚めたばかりで混乱してらっしゃるご様子。暫し御一人にして差し上げた方がよろしいかと」

「そっか、確かにちょっと話しすぎちゃったね。一旦失礼しようか」

「林檎は切り終えていますので、落ち着きましたらお召し上がりください。それでは、今はごゆるりと」


 そう言うと、二人は部屋を後にして。私が一人だけ残されて。ふと皿の方を見てみると、盛られていたはずの皮の代わりに、綺麗に六等分された林檎が置かれていた。お腹はすいていたけれど、私の視線は直ぐに二人が消えた扉の方に向かっていた。


「なに、それ」


 なんとか絞り出せたのは、そんな言葉。何も語らない幼子なのに。傍から見れば間違いなく怪しいのに。シルフィードって人の言葉を確かめもせずに信じて、それに私の事も、あんな…。

 もう分からない。一日の間にたくさん起こりすぎて、何も。でも今はどうでもいい。それだけははっきりと言えた。


「う、あぁ…!」


 わずかに動くようになった体で寝返りをうって、顔を枕にうずめる。すぐに湿り気を帯びてきて、それが涙だとすぐに気づいた。でも、今はもう構わない。構うものか。


「うあ、あぁぁ、あぁぁぁぁぁぁ………!」


 その日、私は生まれて初めて、大声で泣いた。同じ建物にいるであろう二人の事等、気にも留めずに。それが力を奪われた事による怒りや悲しみからなのか、それとも二人と接した事による反動からなのかは分からない。ただ、今この時だけは、ひたすら泣いていたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

喪失女神と研鑽騎士の冒険譚 レイとん @Trpglike

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る