第19話あかり、4th ステップ

 「おはよう……ってわぁ! あかり、髪切ったの~? 一体どうしたのよ」

 キャンパスの門をくぐると、ライトブラウンの髪が肩から宙へ飛び立つ。

 枝毛が減り、朝日を反射して艶めく存在に誰もが目を奪われる。

 「さすが、まなみ! いい女は、いい女の変化に気づくのが早いね」

 あかりの言葉にはある意味が隠されている。察知したまなみは、自分自身に謙遜したい言葉を飲み込み、無言で頷く。

 まなみが三年生への進級が決まると、同級生で唯一留年したあかりを眼中から外す異性が半分以上、同性の同級生はほぼ全員になった。

 それから春休みが過ぎ、桜花とともに新入生を迎える頃には、あかりの存在を忘れようと取り巻きから外れる異性が増えた。五月に入ると、ほとんどの同級生は性を問わずあかりに声をかけるどころか、あかりが歩く道から遠ざかっていった。

 同キャンパス内で唯一声をかけてくれるのは、親友のまなみただ一人。

 当初は慣れない待遇に不安を抱いたが、今ではあかりはのびのびとした幼子のような自然の笑顔ができるようになった。

 「でもさー、大変じゃない? 髪が短いと、この時期は癖毛に髪全体の膨張の嵐! ちょっとでも気が緩んだらブローだけじゃどうしようもないんだから」

 「そこはほら、ショートヘアの大先輩がここにいらっしゃるんだから、大丈夫でしょ。ね、まなみ先生」

 Tシャツの袖を潜り抜けた二人の腕が弾き合い、シュークリームを丸のみするほど開口し湿った空気が高らかな声を包み込む。

 六月、梅雨入りの知らせが全国各地で広まる中、この地域は未だに梅雨前線が不安定だった。

 雨こそ降っていないものの、日本特有のじりじりと迫る湿気で人々は暑さを感じ袖が短くなった。

 「そういえばあかり、ゆうき先生にお世話になっているんでしょ? その様子だと、あかりはいい影響を受けているのね」

 「そ、そう?」

 あかりは影響が及ぶほど、ゆうきの世話になった記憶がない。汚部屋を片付ける手伝いをしてもらっただけで、私生活に口を挟まれたことはないはずだった。

 「あかりは気づいていないかもしれないけど、今のあかりはキラキラしている。私はそっちの方が断然好きだよ」

 「え~? Tシャツにジーンズスタイルなのに~? まなみってときどきおかしなことを言うよね」

 まなみは大きめのトートバッグからタンブラーを取り出し、中身を一口含む。

 喉に通し、何も言及せずハミングを奏でる。

 「もう、まなみってば……」

 人を巻き込む力は人一倍強いんだから、という言葉を、あかりは空気に触れさせず胃の中へと送り込む。

 まなみが言わずとも、あかりも自身の変化に気づいている。ただし、よい意味ではない。

 以前ほどおしゃれに気を配らなくなり、スカートよりジーンズを履く確率が高くなった。フルメイクではなく、ファンデーションとアイブロウ、そしてリップグロスのみという極めてシンプルな時短メイクに変わった。

 見た目に費やす時間のすべてを、勉強に充て始めた。バイトも週四日ではなく、週三日に変更した。勉強とバイトの合間に、これまで着用していたフェミニンテイストの洋服はフリマアプリで八割売却した。売れ残った二割の洋服は馴染のリサイクルショップにて破格で売却した。

 わずかに残った売り上げ、買取金を手に、収入を得る苦労を知り、実家の両親に電話をかけた。

 現在の心境を伝えた後、あかりは留年したことを謝り、学費を払い続けてもらうよう懇願した。

 母は何も言わなかった。スマホを耳に当てたままではその姿が見えない。悲しくて涙を流しているのではないか、と心が握りしめられたように息苦しくなった。

 受話器から離れた父の声も拾うことができなかった。今回こそは勘当されるかもしれない。大学を中退して就職する覚悟を決めたときだった。

 「……お前の気持ちは分かった。学費のことは心配するな。勉強第一で、カフェのバイトも社会勉強のつもりでほどほどに頑張りなさい」

 「お父さん!」

 バラの棘がしなびたような、低く柔らかい声だった。

 「お前を変えてくれた先生にもいずれご挨拶しなくてはな。ゆうき先生、といったかな」

 あかりは息を呑み込み、一直線に昇る声を握りしめる。唇を覆う左手に、無数の雫が代わる代わる曲線を描く。

 冷静な父に伝えられた言葉はただ一つ。

 「あ、り、がっ……と」

 龍が滝を上るような激しい圧迫感に耐え切れず、あかりはスマホの通話終了ボタンを力強く押した。

 何が理由で涙するのか分からなくなるほど、夢中で泣き始めた。

 悔しさも感謝も感じることではなく、本能を体が選んだ。

 心は体から思考を抑えられ、時間を忘れた。

 雫が小さくなりしゃっくりが始まる頃は日付が変わっていた。

 約三時間も泣き続けた、数日前のことだった。


 「さぁ! 今日もズボラなキラキラ部屋を伝授しますよ!」

 賃貸部屋に落とし穴を作ることができれば楽しいのに、と眺めるミディアムヘアーの女性と直径三十センチのぬいぐるみ。

 一人は地震を起こす勢いで左足をフローリングに踏み込む。

 「……ゆうきさんが!」

 「どうして自分で言いたがるのかしら。若いから?」

 ゆうきはぬいぐるみを抱えて正座をしている。

 客人とは思えないほど空気に溶け込んでいる。ぬいぐるみを抱えているにも関わらず。

 「ゆうきさん、今日のお題の前に訊きますけど、どうしてその……何のキャラクターかは知りませんが、持って来ているんですか?」

 「あ、この子? プリンっていうポケモンよ。この子と一緒だと寝つきが良くなるものだから、今日こそは自慢したくてね」

 あかりは再度尋ねる。予想通り、ゆうきはプリンのぬいぐるみをかかえて電車に乗って来た。

 「あの、お願いですから、ただ純粋にキラキラ部屋の伝授だけにしてください」

 

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