第18話あかり、3rd ステップその3

 あかりは顎で固定されているマスクを引き伸ばし、顔全体を覆おうとする。

 「たとえマスクが破けても、あなたが埃を吸い続けた日々の記憶を破ることはできないのよ」

 ゆうきは裸になったワイパーヘッドを手渡す。あかりが受け取った時点でお役目御免となるはずだった。

 「あら、これからだって天井にもあなたの肺にも塵は積もるのよ。現実を受け入れて、お手入れを続けなさいな。天井拭きだけには役立つのよ、それ」

 ゴミ袋に入れようとしたが、あかりは寸で止める。ダークグレーの塊が自分の体を侵すと聞き、安易に想像できた。喫煙者と似た悪影響が及ぶと、あかりは危機感を持ってワイパーヘッドで宙を拭う。

 自身が変わるために不要と害虫の存在を体内にまで許す気はない。あかりはゆうきに聞こえないように唸る。

 「はいはい、聞こえていないわよ~。知らない奴のために割く時間はありませ~ん。ちゃっちゃと終わらせるわよ~、あかりさ~ん」

 「思いっきり聞こえているじゃないですか、ゆうきさん! ってか、私を差し置かないでくださいよ!」

 ゆうきは両ひざを床に着けて、ファイバークロスで水拭きを始めた。バケツの中には中性洗剤がキャップ三杯分混ざった水。クリアな泡風呂がファイバークロスを受け入れるたびに鈍色にびいろに染まる。あかりはゆうきにならい、ぎこちない動きで汚れをかき出し始める。

 麦茶色への変色を境目に、ゆうきは何度もバケツの濁水を捨て、新しい水に中性洗剤を混ぜる。水の交換の度にあかりの動きが俊敏しゅんびんになる。誰だって汚濁したものに触れたくないものだ。

 徐々に水の変色が鈍くなり、最後の水が新居のフローリング色になる頃には、ゆうきもあかりも一言も発さなくなる。

 リビング、台所の棚、冷蔵庫の内外、食器棚、トイレ、浴室、洗面台。ついでに洗濯もの干し場であるベランダの掃き掃除。竿さおも角ハンガーもぬかりなく磨く。

 下校する小学生のはしゃぐ声で、二人はようやく時の経過を知る。

 「うっわ……何これ、夢中になる。ゆうきさん、これ本当にズボラがする掃除なんですか?」

 「そうよ、ズボラだからこそ没頭しちゃうのよ、現にあなたがそうでしょう?」

 あかりは頷く。

 「でも、どうしてわざわざ『ズボラ』ってワードを出すんですか? どう考えても几帳面にしか思えませんよ」

 「あら、じゃあ逆に聞くけど、あなた掃くことと拭くこと以外に何かした? バラエティでよく紹介されているような、チマチマ手間をかけるようなことは?」

 「いいえ。むしろ原始的でした。流行りのオキシクリーナーとかクエン酸とか、お掃除芸人が伝授するようなことは一切なかったですよね」

 ゆうきは頷き、木材本来の色を取り戻したフローリングを手で指す。

 元ホテルマンであるがゆえに、親指は手のひらに収まるよう折っている。ゆうきの中々抜けない癖である。

 「で、どう? インスタ映えとか関係なく、素直に『好き!』って言える部屋になったかしら?」

 あかりは返事の代わりに、床に頬ずりをする。愛着の証に、チークが床に移る。

 「あらあら、せっかく頑張ったのに。ま~た拭き直しね。あかりさんの場合、掃除のときはすっぴんの方がいいかもね」

 ゆうきが手拭きを強く勧める理由は以下の通り。

 機械や道具では伝わらない手のぬくもりにより、拭く対象物に対してより強い愛着を感じるようになる。

 愛着を感じると、物を大切に扱うようになる。

 その結果、物が長持ちし、自分自身をも大切にする。


 キラキラ女子の必須条件。それは自分を一番大事にすることである。

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