第73話 転回
滑らかに注がれる澄んだ洋紅色の液体から、薄い湯気と爽やかな香気がほんのりと漂う。
コールマンは白磁器のティーカップを3つ、そっと差し出すと、口元に皺を寄せて白い歯を見せた。
「生憎とこれが最後の茶葉でね。おかわりは出せないよ」
「お気遣いなく。ありがとうございます」
テーブルに着いた池溝は、その笑顔に会釈を返してから、改めて部屋を見回す。
研究室とは云うものの、そこはデスクからキャビネットから、或いは床までもが書類の山で埋め尽くされており、その様相は荒れた書庫か物置のそれであった。真新しい壁にすらメモが所狭しと貼り付けられ、場所によってはボールペンやマジックで直接、数式やらスケッチやらが殴り書かれたりもしている。
彼が連れてきた門倉も、この部屋を訪れるのは初めてであったようで、想像以上に乱雑な風景を少し意外そうに眺めていた。
到底居心地が良いとは言い難いその部屋で、しかしコールマンだけは心地良さげに、ドシリと椅子に腰を下ろす。そして畏まる彼らの感想を察したか、頭を掻きながら口を開いた。
「意外だったかね? 最先端のAIを造ろうという人間が、前時代的な書類の束に埋もれているというのは」
「あ、いえ……」と言葉を濁したのは池溝。
「空間というのは便利なものだと思わないか。パソコンの中とは違って、座標という三次元の情報を視覚的に捉えることができる。つまり『何処に置いてあるか』ということ自体で、情報の有用性や関連性が示されている。直感的にそれを把握できるのは、デジタルデータには無い強みだと思うね」
「では、博士は記憶されてるんですか。この――」
「論文の内容は当然全て頭に入っている。その上でカテゴリごとに整理して、積み上げてあるのさ。この紙の山を結べはそれは私の思考回路と同じだ。この部屋は謂わば、私の頭の中そのものだよ」
「なるほど……」
池溝と門倉が感心した様子でいると、コールマンは満足げに紅茶を啜る。
「それでエリオン君。さっきの話の続きを聴かせてくれないか。正直なところ私は、君の話の9割方を信じていない。そして残りの1割は君ではなく、優秀な頭脳と分析力を持つ、そこの門倉君への信頼でしかない」
そう告げたコールマンは、つまりエリオンの、彼に関する話を全く信用していないということである。しかしその台詞とは裏腹にコールマンの瞳は、興味深そうにエリオンを注視しているのであった。
そしてそんな彼の言葉に対し、エリオンは別段不満を顕す様子はない。ただゆっくりと手を差し出すだけである。その掌は上に向いていた。
「? 握手ではないね」とコールマン。
「はい。僕が
「つまり科学的に証明してみせる――と?」
「貴方に検証する術はありませんので、これが証明と云えるかどうか。でも観測することは可能です。少なくとも誰にでも」
そう述べたエリオンは、特に大きな動作をするでもなく、静かに己の掌を見つめた。その視線に促されて、コールマンも池溝も門倉も彼の手を見やる。
すると間もなく掌の上で、ポツリポツリと小さな青い光が瞬き始めた。それは戯れる蛍の如く宙を舞い、そして次々と湧き出る光は次第に集まり、寄り添うようにしてひとつの塊――淡く青い、光の蝶へと変化するのであった。
「これは……?」
不可思議で幻想的な光景に、コールマンを始め他の二人も息を呑む。
「結晶蝶です。
「バルドルの――それは何かね?」
「クロエ・リマエニュカによって
エリオンが人差し指をそっと上げると、結晶蝶がヒラヒラとそこに舞い降り、静かに羽根を開閉させる。
それを眺めながら池溝が、
「彼は殊能という超能力のようなものが使えるんです。この前は病室で、ペットボトルをビー玉ぐらいの大きさに」と付け足した。
「なるほど……」と、コールマンは頷いたものの、にわかには信じ難いという表情である。
「池溝さんに見せた能力は物質の圧縮ですが、『バルドルの船』の本質は、情報を圧縮し別の世界へと運ぶための手段です」
「別の世界に? それはつまり――」
「はい。僕らから見た別の世界とは、つまり今貴方がたがいるこの世界のことです。そして僕は、僕がここに来た理由をお話しておかなくてはなりません」
***
赤く染まった空から、豪雨の如く降り注ぐ炎の蝿。大気を震わす羽音とともに、カザルウォードが召喚したその蟲の群れが、仁王立ちのハドゥミオンを包み込んだ。波及する高熱は大地を焦がし、瞬く間に高原は焼け野原へと変わる。
「ダメ押しってヤツだぜ」
宙からそれを見下ろすカザルウォードが、その手を掲げると、更なる上空に巨大な魔法陣が、雲を退けながら出現した。
「
カザルウォードは眼下のハドゥミオンを睨み、
「――
詠唱。空が墜ちるかの如く――魔法陣から顔を覗かせた洪大な黒曜石の様な塊が、ゆっくりと落ちてくる。実際には凄まじい落下速度であるのだが、そのあまりの大きさ故にそのように感じられるのである。
揺らめく大気と火の粉の中で、白い巨人は動かない。そこへ隕石が落ちてゆくのを、カザルウォードは勝ち誇った様子で見守っていた。
しかし、
「……ああん?」
加速するはずの隕石は、徐々にその速度を緩め始めた。そして燃えたぎる炎の中でハドゥミオンが、腕をもたげて掌を
「コイツ……! まだ動きやがっ――ッ!?」
それだけではなかった。ハドゥミオンが開いていた手を握ると同時に、隕石に地割れの如く亀裂が入り、凄まじい勢いで内側に圧砕される。
直径200メートルはあったであろう大質量の塊は、ほんの数秒足らずで視認できぬほどの小さな粒へ、圧縮され消え去った。
ハドゥミオンのコックピット――乳白色のゲルの繭の中で、淡い光を湛えながら膝を抱えて、胎児のように丸くなっているエリオンは、頭の中にいるルーシーへと呼び掛ける。
〔周りを元に戻したいんだ。できるよね?〕
〔可能です。志向性散逸構造場を展開、半径1キロメートル以内のエントロピーを減少させます〕
ルーシーの返答とともに、機体を中心にして透明の膜が拡がってゆく。すると間もなく炎は消え、その発生源であった蟲も、細かな粒子となって散っていった。
そしてまるで時間が巻き戻るかのように、煙と火の粉が地面へと還り、花々や草木を、二人の戦闘が開始される前と同じ、豊かに咲き誇っていた状態へと戻っていくのであった。
さしものカザルウォードも驚きを隠せず、忌々しそうに牙を剥く。
「この力……(まさかルーラーと同じ――)」
そこで畳み掛けるように、突如として空から轟音が降り注いだ。雲とは別の、もっとはっきりとした人工的な形の影が、二人のいる高原を覆う。
「なんだっつーんだよ、今度は?」
見上げたカザルウォードの視線の先には、騎士の盾を思わせる、
「チッ、星船かよ。このタイミングで登場たぁ、インヴェルの
一方ハドゥミオンは微動だにせず、その中のエリオンも、この宇宙船の接近に対して動じることはなかった。ただ機体の眼を通して、厳かに下降してくるその船を、じっと見つめているだけであった。
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