第71話 正義

 目を見開いたまま固まる、ゾーヤの顔。柔らかな金色の前髪がその瞳の前でそよそよとなびくも、彼女の表情が変わることはなかった。


「ゾ――……」


 エリオンは言葉を失う。


 半開きになったゾーヤの口から、ツゥーと垂れ流れてゆく血。ゆっくりと彼女の顎を伝い、そこから首のカザルウォードの手に滴り落ちる。――切り離された胴体は花葬の如く、青い花叢はなむらに埋もれていた。


「『弱い犬ほどよく吠える』っつーがよ」


 カザルウォードは呆れた表情で溜め息を吐くと、虫に食われた果実でも棄てるかのように、ゾーヤの頭部を拵雑ぞんざいに放り投げる。

 儚く花弁が舞って、金色の実は草葉に隠れて見えなくなった。


「ザコってのはどうしてこう、口ばっか達者なヤツが多いんかね?」


「…………ぁぁ……」


 掠れた声を洩らすエリオンの身体は、石化した魔獣に拘束されたまま、未だに動くことを許されていない。


「良かったな、ボウズ。これでモリドこいつらにゴチャゴチャ弄くり回されなくて済むぜ? まあが変わっただけで、お前に自由は無えんだけどな」


「………………」


 苦笑するカザルウォードの顔を、無言で見つめるエリオン。


 それは一瞬の出来事であった。――ゾーヤが狙いを定め、カザルウォードの眉間に弾丸を撃ち込んだ瞬間、彼はそれを顔面で弾き返し、お構い無しに距離を詰めた。そして彼女の髪を鷲掴みにして、ひと呼吸の間も置かずに手刀でくびを刎ねたのである。

 あまりにも呆気ない、戦闘と呼ぶことすらはばかられるほどの刹那の惨事に、エリオンは声を上げる間もなかった。


「さて、そんじゃあ帰るとするか」


 カザルウォードは軽く首を回してから、エリオンの虚ろな瞳を見返す。囚われた彼はまるで、自身までもが石と化してしまったかのように、青褪めた顔で硬直していた。


「なんだお前。助けて貰ったらフツーは礼ぐらい言うもんだぜ? それとも一緒に居て、コイツらに情でも移ったか?」


 冗談混じりに嘲笑うカザルウォード。その姿と無残なゾーヤの遺体を見比べているうちに、エリオンの肚の底では、沸々とドス黒い感情が泡立ち始めた。

 それは蟻塚の惨劇の時にも感じた、あの感覚――低い温度で臓腑はらわたを炙られるような、或いは情動が理性から、意識と身体の支配権を奪い取ろうとするような、不穏な衝動。


「なんで――」


 エリオンの鼓動が速まる。


「そんな簡単に……人間ひとを殺せるんだ……」


 ゾーヤに対して、無論エリオンの中に怒りはあった。多少なりとも恨みもあった。しかしそれは彼女の死を望むような闇の感情ではなく、ただ真摯に向き合って、ちゃんとした申し開きと「ゴメンね、エリオン」という一言さえあれば、彼はそれで決着をつけるつもりであった。


「魔族だからだよ、見りゃわかんだろ。つーかお前、マジで惚れてたのか? 純真バカなのかMなのか知らねえが、おめでたいヤツもいたもんだな」


 カザルウォードはそんなエリオンの心情など知る由もなく、失笑を隠すつもりもない。それに煽られて、更なる怒りがエリオンを押し流す――。


 だがその昏い衝動を堰き止めるかのように、


〈……エリオン――〉


 突如彼の頭の中に、声が響いた。


「?!」


〈聴こえるか……エリオン……〉


 低く野太い――しゃがれてはいるが、親しみと温もりを感じさせる懐かしい響き。聴き慣れたその声は、正しくドトの声であった。



 ***



 蟻塚でデバイス石の仕分け作業をしていたドトの許に、勢い良く扉を開けて入ってきたのはフェルマンであった。


「ドト!」


「どうしたフェルマン、そんなに血相を変えて」


 ドトは片眼鏡を机に起き、小さな木椅子をギシリと鳴らして振り返る。


「長老がそんなふうでは、皆が不安がるぞ」


「解っている。だが今はそれどころじゃないんだ。すぐに来てくれ」


「一体何だと言うのだ。どこへ来いと?」


「アイオドの樹だ。エリオンが危ない」


「なに……?!」


 その言葉でたちまち表情を曇らせたドトは、作業用の前掛けも取らず、直ちにフェルマンとともにアイオドの樹へと馳せる。そしてそこに入るや否や、彼は己の頭の中へと直接語り掛ける、無機質な男性の声を聴くのであった。


〈連れてきたようだな〉


「これは――?!」と訝しむドトに、フェルマン。


「心配ない、アイオドを通した念話だ。それよりも彼の話を聴くんだ。言葉は強く意識するだけで伝わる」


「念話……? アイオドにそのような使い方が――」


〈余計な話は後にしてくれないかね。それよりアンタがエリオンの父親ドトムワガで間違いないか?〉


〈う、うむ……。今はドトと名乗っているが――お主は何者だ?〉


〈自分はギルオート。訳あってエリオン少年と縁を得た者だ。そして今彼は窮地に立たされていて自分にはそれを助ける術が無い〉


〈エリオンが窮地に、だと?!〉


〈詳しく話している暇は無いので掻い摘んで話すが、アンタの息子は強大な力を持て余している。その力は彼自身を救うことができるはずだが無闇に使えば世界をも滅ぼしかねない。それを理解しているが故に彼は力を使えない状態にある〉


〈あいつが世界を滅ぼす……? そんなことは――〉


〈『使い方によっては』だ。普段の彼ならば問題無い。だが暴走してしまえば話は別だ。だからアンタに頼みがある〉


〈頼みとは何だ? 息子の為とあらば如何ともするが、何をすれば良い?〉


〈彼の迷いを払ってやってくれ。力を使うに値する正義を示して欲しい。それができるのは恐らく父親であるアンタだけだ。だろう?〉



 ***



 天から救いの手が差し伸べられたかの如く、エリオンは不意に届けられた声に、思わず空を見上げた。


「ドト――」


 彼が蟻塚を出てから、まだそれほどの時を経たでもない。しかし平穏な日々から一変した多難の旅路は、そのドトの声に懐かしさと郷愁を覚えさせるのであった。


「……ドト……」


 溢れ出んとしていた負の感情は瞬く間に消え去り、代わりに一筋の涙が零れ落ちる。


〈聴けエリオン。俺には今お前が、どれほどの困難に直面しているのかは分からん。だがこれだけは言える――〉


 一方アイオドの樹の中で、ドトは目を瞑り、遥か遠くにある息子の顔を想い描いていた。


 ――あの日、鉱山から掘り起こした虹色の髪の少年は、哀しく虚ろな目をしていた。細い身体に宿る温もりは儚く消え入りそうで、護ってやらねばなるまいと強く感じた。そしてフェルマンや周囲の人々の反対を押し切り、父となると決意したのであった。

 やがて共に過ごすに連れ、エリオンの顔は明るく、瞳は真っ直ぐ前を向くようになっていった。

 血塗られ、狂戦鬼バーサーカーと蔑まれた己にとって、息子エリオンのその無垢な笑顔が、どれほどの救いになったであろうか。


 誰に語るでもない想い出を噛み締め、ドトは言った。


〈エリオン、俺はお前を愛している。そしてお前も俺を愛してくれていると信じている〉


「ドト――父さん……」


〈お前は優しい。誰よりも他人を想うことができる。だからその気持ちを自分にも向けてやれ。己の力を受け容れ、他人と同じように自分自身も愛してやるのだ。愛を知る人間が道を踏み外すことはない〉


「でも僕は……神の権限ちからは皆を――」


〈お前がどのような力を持とうとも、たとえそれが神に匹敵する力であろうとも、そんなものは関係ない。恐れや葛藤も抱えたままで良いのだ。人というのは、正しくあろうとする時にこそ正しい。それが正義というものだ〉

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