第69話 変化

 歩くほどに近付く夜明けとともに、エリオンらの視界を狭めていた渓谷は広がりを見せ、やがて辿り着いた山裾の先には、低草木の茂る高原が姿を現した。

 若葉色で染まった台地に、刺々しい群青の実を付けた小さな赤い花が、所々アクセントのように点々と咲いている。その更に向こうは途切れた地平――崖の先に見えるのは、青く広大な『ゲの海』である。


 足元も岩場から土や草へと転じ、ホッと一息、顔を緩ませたゾーヤが独り言のように、


「やっと抜けたあ。ここまで来れば――」と、安堵の声を洩らした時であった。


 ズン!という震動と刹那の閃光が、彼女とエリオンの後ろで瞬いた。


「っ?!」


 同時に振り返った二人の前では、今しがたまでそこに居たはずのモリド兵らの姿が、跡形も無く消え去っていた。代わりに、彼らのあった地面がぶすぶすと黒く焼け焦げており、燻されたような臭いと白煙が立ち昇っている。


「『ここまで来れば』よぉ、なんだっつーんだ?」


 ――上空から声。ゆったりと舞い降りる、魔王カザルウォード。白んだ空は、夜を吸い込んだ様な彼の姿を浮き彫りにしていた。


「『最期に海が見れて本望だ』とか、そういうのか? まさか『逃げ切った』とか思ってんじゃねえよな?」


 前触れも無く現れ、一瞬で兵士二人を消し去った彼に、エリオンは言葉を失う。ゾーヤの顔をチラリと横目で覗くと、彼女もまた絶句したまま、苦々しい表情を浮かべていた。


「んだよその顔は。一応訊いとくが、お前らか解ってんだよな?」


 面識のあるゾーヤは当然それを承知しているものの、エリオンは彼が何者であるかを知らない。


「ゾーヤ、あいつは?」


「……ヤベー奴。魔王だよ。魔王カザルウォード」


 そのカザルウォードが、すげなく花を踏み潰して降り立つと、彼の鎧から滲み出るオーラによって、周囲の草木は見る間に枯れてゆく。


「魔王――って?」


 エリオンが聞き慣れぬ言葉に疑問を呈すると、その本人が言ってのける。


「ラスボスって意味だぜ、ガキ。それとな、超目上の相手には『様』を付けろよ? じゃねーとニムが怒るぜ?」


 不敵に微笑うカザルウォードと、ゾーヤ、エリオンとの距離は5メートル程しかない。

 狙撃を得意とするゾーヤには不利な間合いであったが、しかし彼女は、手持ちの中で一番大きな、拳大の鉄球を腰のポーチから取り出した。


「エリオン……下がってて」


 パシリッと手から発する火花放電が、指示それを促す。それを見てカザルウォード。


「そいつがお前の能力か。じゃあニムをくれたのはテメぇだな?」


「だったらどうする?」


「遊んでやる」


 そう言ってカザルウォードは手をひと振り。――オーラの一部が衝撃波となって、エリオンの身体を吹き飛ばした。


「ッぐ!」


「殺しゃしねえが、逃げるなよ? ――出でよ石翼魔像ズーム・ガーゴイル!」


 そのままエリオンに絡み付いた黒い靄は、たちまち石の翼を持った1匹の悪魔へと変化し、彼をガッシリと抑え付ける。そしてその悪魔が、パキパキと音を立てながら自身を石像に変えると、抱えられたエリオンは身動きひとつ取れなくなるのであった。

 だがその言葉通り、命に害が加えられる類のものではなそうであった。


 その様子に微かな安堵を窺わせたゾーヤは、並行に突き出した両腕で鉄球を挟み、それをカザルウォードに向ける。

 徐々に広がる腕の隙間で球が浮き、バチバチと電気が渡る。


「それがテメぇの必殺技か? 面白え、やってみろ」と、カザルウォードは自分の額を指差した。


「言われなくてもってやるよ」


 ゾーヤはその照準ゆびさきをカザルウォードの顔面に合わせると、己の力を一気に解放した。



 ***



 軽くノックして個室のドアを開けると、入室した池溝が声を掛けるより先に、


「おはようございます」とエリオン。


 彼は既にベッドで身を起こしており、解かれたカーテンを揺らす窓辺の風に、虹色の髪をそよがせていた。


「あ……」


 池溝は挨拶を返すのも忘れ、魅入られたようにその姿を見つめた。

 前日まで真っ白であった頭に、美しく彩られた柔らかいグラデーション。当然髪の色素としてはあり得ぬその色が、しかし何故か池溝には、ひと目でそれが生来の――或いは彼を示す色であると解った。


「エリオン君……その髪は――」


 話に聞いていたから、という訳では勿論ない。仮にエリオンの物語を知らずとも、その姿を見ればやはりそうであると、確信できたに違いないのである。それほどまでにエリオンという青年には、その幻想的な髪色がのである。


「はい。どうやら少しずつですが、紐付けがなされ始めたようです」


 患者衣の胸元を少し開けて、ほんの微かに笑みを浮かべるエリオンは、自分でもそれを確認するように、前髪を軽く摘んで弄んでみせた。

 空に舞うシャボン玉の如く、僅かな角度の変化でも色が変わるその髪を、池溝は不思議そうに顔で眺める。


「紐付け……?」


 小首を傾げる彼の後ろで、体温計を持った看護師もまた固まっていた。だがそれはどちらかというと、池溝の驚愕とは別の意味で、ただあまりの美しさにのようであったが。


 エリオンはそんな彼らの驚きに満ちた表情を、しかし特に気にした様子もなく、池溝の疑問に淡々と答えた。


「紐付けとは次元接続のことです。独立して存在する宇宙を、情報の関連付けによって繋ぐ――それはアルテントロピーを持つ人間の認識と想像に依存しています。本来はAEODがそのくさびとしての役割を果たしますが、彼らがいないこちらの世界では、僕自身がそれを行うしかなかった」


「それはつまり――いや、どういうことなんだ?」


 池溝は問いつつも振り返り、申し訳なさそうな手振りで看護師に退出を促した。門倉は別としても、このやり取りを第三者に見せるべきではない――そういう直感が働いたからである。

 看護師の彼女は、名残惜しそうにチラチラとエリオンの顔を見ながらも、間もなく部屋を出ていった。


 そして改めて池溝がエリオンに顔を向けると、エリオンは、


「こういうことです」と、ベッドの脇の床頭台しょうとうだいに置いてある、ペットボトルに手をかざした。


「え……?」


 池溝の目の前で、そのボトルが、まるで視えない手で持ち上げられるように、スッと浮き上がる。そしてエリオンが手を握ると同時に、それはグシャリと潰れて、一瞬にしてビー玉サイズにまで圧縮された。


「!?」


 穏やかな病室――心地良い風が入り込む見慣れた部屋は、紛れも無く池溝の知る現実。しかしそこで起こった、目を疑う非現実的な現象に、池溝は吃驚する他なかった。


「今はまだこの程度です。僕の殊能『バルドルの船』の一部が顕現しただけ。ですが、これからこの世界は変わる――いえ、変える必要がある。はその為に来たんですから」

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