第68話 遠い夜明け
基地には既に人工の明かりが存在しておらず、建物の裏口は今、傾いた月の影の中。そこにある金属製の扉は、途中で燃え尽きた蝋燭よろしく、醜く垂れ流れた形のまま冷え固まっていた。
その有り様を見ただけでも、カザルウォードの魔法がいかに強力なものであるか、窺い知るのに難は無い。
内側から慎重に扉を開けたアヤメは、薄膜の如く立ち込める煙に目を細めながら、周囲の様子を素早く窺う。
「酷い……」
敷地内にいくつかあった建物は、どれも
しかし彼女が倒し切れなかった、残り数十人いたはずの兵士の姿はどこにもない。その代わり、所々に小さな炭の山が積もっていて、それらのすぐ近くには、熔けて原形を失った銃火器が転がっていた。
(これは――)
戦場と呼ぶことが躊躇われるほど、一方的な蹂躙の跡。その景色はまるで、容赦ない神が残した、天災の爪跡の様でもあった。
無論アヤメであっても、その戦力を以てすれば、やはり彼らを殲滅することは可能であっただろう。だがそれは、彼女の絶え間ぬ研鑽とよく練られた戦術の上に、ギルオートの助力も合わさって、初めて得られる戦果である。謂うなれば努力の証左であり、相手の命を奪うにあたり、
少なくともアヤメの考えはそうであった。しかし――。
(これでは……虐殺だわ)
カザルウォードの所業には、そういった『戦い』という概念に含まれる暗黙の了解――人によっては騎士道や矜持とも呼べるものが、全く感じ取れないのである。
つまりそこに戦いなど存在せず、それはただ、己に比類するべくもない相手を叩き潰し、その力の差に満足して優越感に浸るだけの、幼稚で邪悪な行為に他ならなかった。
「魔王カザルウォード……。こういうことをする者が神の権限を手に入れようだなんて、許容されるべきではないわね」
とは云えその魔王は、現状アヤメが止められる相手ではない。もし可能であるとすれば、それは本来彼女が救うべき相手――囚われのエリオンだけである。
そして彼女は、正にその為の方策を持って、再び舞い戻ったのであった。
アヤメに続き建物を出て、辺りを見回すギルオートとザガ。
「敷地内に生体反応は確認できない。魔王は去ったようだ」
「ふむ。確かに匂いは無いが……だが撤退という訳でもあるまい。エリオンを追ったと考えるべきだな」
「ええ。ですから急がねばなりません。――ギルオート、
「やってみなければというところですがね。まずは通信設備が生きているかどうか確認します。しかし常識を覆す作戦だ」
ギルオートの台詞にザガも頷く。
「うむ。まさかギルオート殿とAEODを繋いで、彼を即席のAEODに仕立てようとは。ルーラーを直接知る者だからこそ、そんなことを思いつけるのだろう」
もしこの場に、ルーラーを信奉する『ルーラー教徒』と呼ばれる人間達がいたならば、その作戦は真っ向から否定されたであろう。
しかしユウという人物をよく知るアヤメには、そういった
「全くマスターの機知には感服しますよ。しかし正直自分の処理能力ではAEODの代役などどこまで務まるか」
困ったように首を振るギルオートを、アヤメの言葉が一刀両断。
「世辞も泣き言も結構です。為すべきことを成さねば、人には後悔しか残りませんよ」
「厳しいお言葉ですがその通り。では早速始めるとしましょう」
顔を上げたギルオートの視線の先には、焼け爛れ折れ曲がった低い通信塔があった。
***
渓谷の岩っ縁で、湿った風に吹かれながら、物言わぬ炭人形と化しているニムヴァエラ。
黒光りする鉄靴がその横に降り立つと、鎧の主は呆れた様子で溜め息を吐いた。
「おい、ニム。何やってんだお前」
カザルウォードは自らの胸に手を突き刺し、その内側から赤黒い
「ったく……面倒掛けさせんじゃねえよ」
そのコアを握り、彼が魔力を流し込むと、それを介して赤い光の靄が、黒焦げたニムヴァエラの身体に注ぎ込まれていった。
すると彼女の表面の炭がボロボロと剥がれ、内側から、真新しい皮膚を纏ったニムヴァエラの姿が現れた。
パチリと眼を開いた彼女は、カザルウォードの顔を見るなり嬉しそうに微笑む。
「あらん、魔王様。おはようございますん」
スゥーと浮かび上がり、立ち上がる。
「あらんじゃねえよ、バカ。グレイターなんぞに足止めくらいやがって。ちゃんと仕事しろ」
「思った以上に小賢しい子達でしたのん。でも躊躇いなく味方ごと殺せるなんて、ちょっと見直してしまいましたわん」
「どうせ、あの仮面野郎の部下だろ? ナメてかかったお前が悪い。――で、どっち行った?」
「川沿いに。北西かと思われわますわん」
「そうか。んじゃ後は俺様がやる。お前は先に戻って、連盟の主だったヤツを集めとけ」
そう告げるカザルウォードに、ニムヴァエラが甘えるように
「ええぇん、今度こそワタシが――」
とその瞬間に、カザルウォードの手が彼女の首を鷲掴みにした。爪を深く突き立てながら、ミシミシと力を加えて、その身体を悠々と持ち上げる。――彼の瞳の中に昏い光が揺れた。
「ぐっ――!」と、声を詰まらせるニムヴァエラ。
「お前……あんま調子んノッてんじゃねえぞ……? ニム。この俺様が、何度もミスるようなバカを赦すとでも、思ってやがんのか? あ?」
カザルウォードから発せられる魔力の波動は、ニムヴァエラですら身を
「も、申し訳……ござい、ません……」
口から青い血と、切れ切れの震え声を洩らす彼女に、しかしカザルウォードの表情はすぐに緩められた。
パッと手を離し、いつもの気怠気な口調に戻る。
「ま、そんな遠くまでは行ってねえだろ。ちゃっちゃと拐ってくるわ。ついでにお前を煩わせたヤツは消しといてやる」
「あ……ありがとうございます……」
ガクンと膝を折って地に伏したニムヴァエラは、息を荒めて頭を垂れた。若々しく妖艶であった美貌が、見る間に老け込んでいく。
「さて、次はもう少し楽しめる相手だといいんだがな――」
不敵な笑みを浮かべるカザルウォードが、じっと見据えた先――下流の空は微かに白み始めていた。
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