第59話 闇の中
暗室の如き赤い光に満たされた部屋。天井から垂れた鎖は僅かに短く、それに手枷を繋がれたエリオンは、爪先立ちの格好で吊るされていた。乙女の様に白くか細い彼の手首が、自身の体重を受けて鬱血している。
エリオンを連行してきた兵士が立ち去り、物々しい鉄扉が閉められると、部屋には彼一人だけが取り残された。外が静かなだけなのか、しっかりとした防音が為されているのか、いずれにせよエリオンの耳に音が届くことはなかった。
「………………」
暫く間を置いても、兵士が戻ってこないことを確信したエリオンは、痺れて徐々に感覚が失われていく手に意識を集中した。
(殊能で鎖を引っ張れば――)
毎夜レンゾと行っていた特訓を思い出し、それを試みる。
「…………っ! ダメか」
――手応えがない。しかしそれ故、自身の不調が原因ではないということも解った。
喩えるならば、暗闇で目を見開いたり、空気の無いところで声を上げるような感覚。つまり能力を発動する為の媒体となる、殊能量子波そのものが、彼の意思に応えてくれないのである。
(でも確か、ペタグラフトニウムは魔素を遮断することは出来ないはず……)
そう思い、今度はイメージを殊能から魔法へと切り替えてみる。フェルマンとの練習では、魔法陣の反応すらなかったものの、その後のゼスクスらとの戦いでは、無詠唱で自在に使うことまで出来たのである。
(あの時の感覚を思い出せれば)
じっと目を瞑り、大気から己へと流れる魔素を、懸命に感じ取ろうとするエリオン――。しかしやはり、結果は同じなのであった。
「くそぅ……なんで――」
するとそこで、ガコンッと重い音を立てて、鉄扉のドアノブが回った。射し込む四角い明かりの中に立つシルエットは、すらりとした長い髪の女性兵。それが聴き覚えのある、芯の通った声で言った。
「あの時のようにはいかんだろう?」
勝ち誇ったような、冷笑の響き。
(この声――)とエリオン。
淑やかに軍靴を鳴らし、
「お前は……! よくもドトを!」
「ドト? ああ、あの時の
「どっちだって同じだ。お前達がやったんだ」
近付いて明らかになった女の顔は、言うまでもなくエイレであった。彼女はエリオンを見下し、その顎を乱暴に持ち上げる。
「だが
「――っ!」
「……正直なところ、私は疑っていた。無論大佐の言葉ではない、貴様の力の程をだ。だがアレを見て認識が変わったよ。神の権限は、貴様のような子供に与えられるべきものではない。我々モリドに――ゼスクス大佐にこそ相応しい」
エイレがエリオンを突き放すと、ジャラリと鎖が鳴る。一層食い込む手枷の痛みに、エリオンは顔を
「僕が望んで手に入れた力じゃない――でもお前達には渡さない」
「フン。道理も解らぬくせに、ほざくな愚か者」
「何がっ――じゃあお前達は、神の権限が何なのか知ってるっていうのか?」
彼の手首から滲み出た血を、エイレは冷ややかに流し見て答える。
「少なくとも貴様よりは理解している。神の権限とは、AEODを通して
「!?」
正に今しがたそれを試みて失敗したエリオンは、自身も知らざるその原因を教えられて、思わず反論の言葉を失った。
「魔法は、膨大な知識とその
「……だ、だけど僕は――」
「貴様は自分で魔法を使ったのではない。ルーシーの魔法の
「…………僕が、偽物だって言うのか」
悔しそうに、忌々しそうにエイレを睨むエリオン。しかし出来ることと云えばそれだけで、エイレはそんな彼を嘲笑いつつ告げた。
「我々は間もなく侵攻を開始する。貴様は己の無力さを噛み締めながら、学園市諸共、この大陸が燃えゆく様を見届けるがいい」
「ッ?! なんでそんなことを……!? お前達の目的は僕なんだろうに!」
「驕るなよ少年」
驚愕と悲痛の響きが混じったエリオンの声を、彼女は
「理不尽な世界に終焉を。忌まわしき
「僕は……! 道具なんかじゃ――」
「ならば人間だとでも謂うつもりか? 数千の人間を、町ごと復元するような奴が? そんなふざけた存在が神の創った道具でないと、何故言い切れる?」
「――!!」
部屋に射し込む光が、徐々に
反論を期待するかのように立ち止まったエイレが、肩越しに振り返ってみせると、エリオンは小さな声で訊いた。
「……ツキノと……ゾーヤは――彼女達に何をした?」
すると彼女は落胆の溜め息を吐いてから、抑揚の無い口調で告げる。
「ゾーヤは我々のスパイだ。貴様を
その台詞の反応を見ることもせず、エイレは扉を力強く閉めた。
***
深夜の山林――月影の濃い道無き道を、3メートルはあろうかという巨大な金毛の狼が、疾風の如く抜けていく。細い木々の間隙や、踏めば音を立てる小枝を巧みに避けて、それでもそのスピードは、平地を走る機械馬よりも速い。
そして時には、銃を抱えて練り歩くモリド兵の遥か頭上を、彼らに一切悟られることなく、無音で跳び越えてゆくのである。
エリオンが捕らえられている建物を臨む、基地から数百メートル離れた岩陰――。狼はそこに戻ると、まるで岩の一部の如くじっと身を潜めていた二人の前で、瞬く間に人間の姿へと変じてみせた。
「どうでしたか? ザガさん」と、隠れていたアヤメが尋ねる。
人狼のザガは、その彼女の隣にいるギルオートからローブを受け取ると、それを手早く
「数はそれほど多くない。50か60か、まあそんなところだろう。全滅させるとなれば話は別だが」
「マスターと自分であればそれでも問題無い数だ。でしょう?」
ギルオートが言うと、しかしアヤメは首を振る。
「私達の目的はエリオン君の救出です。必要とあらば斬りますが、なるべく隠密に。――それで彼の所在は?」
「建物は3箇所あるが、警備が厚いのは東の建物だ。他は倉庫か何かのようだった」とザガ。
「ではそこに向かいましょう」
アヤメがそう言うと、ギルオートとザガが無言で頷く。そして三人は、揃って夜の闇の中へと溶けていくのであった。
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