第xx話 リアル

 慣れた手付きでキーボードを叩いては、マウスのホイールをカチリカチリと回していく――。整然とは程遠い、生活感が滲む7畳の洋室。


 湿った髪と首に掛けたタオル、Tシャツにハーフパンツという緩い格好で、池溝は自宅のパソコンと向き合っていた。

 ベッドの前に置かれた小さなガラステーブルに、コンビニで買ってきた干物ツマミの袋。彼が座っているデスクトップラックのモニター横には、汗をかいた缶ビールが置かれている。


「……これかな」


 独り言を呟いた池溝は、缶を口に寄せると、そのままの体勢で画面を見つめ、ゆっくりとスクロールさせていく。表示されているのは、北欧神話の神々を紹介するサイトである。


「ウルズ、ウルズル……英語ではウルド。――運命の神様、か……」


 エリオンから聴いた話の単語をインターネットで辿ってみると、案の定それらはすぐに調べがついた。そもそもが池溝自身、聞き覚えのある言葉も多かった。


 グビリと缶を傾ける。淡麗辛口が風呂上がりの喉を潤し、思わず息が零れた。


(やっぱり元ネタがあるんだよな。しかもかなりメジャーな話が多い。漫画、アニメ、映画……若者向けの映像作品が主なのかな)


 エリオンが語る話は、結局のところ、検索結果こういうものを繋ぎ合わせた創作に過ぎない。しかしそれらの共通点は、彼の記憶の鍵になる可能性がある――池溝はそう考えていたのであった。


(ジャンルはバラバラだけど、どれも似たような作品が多い。こういうのは人気があるって言うより、雛型の話テンプレートがあるんだろうなあ、きっと)


 推測と感想を頭の中で交えながら、残りのビールを一気に飲み干す。


(厄介なのは、なまじっか論理に破綻が無いせいで、彼自身、客観的な否定が難しくなってしまってるところかなんだよな……。患者の知能が高過ぎるっていうのも問題なんだ。なにせ彼は――)


 数日前、面談の最中にふとしたきっかけで、彼はエリオンに「最初の日のことを憶えているか?」という質問をした。

 すると彼は、その当時の池溝が発した言葉、仕草、エリオンに対する反応の一挙手一投足を、全て淀みなく答えてみせた。それどころか、会話した看護師の名前や顔、すれ違っただけの人物、面談が行われた時間、その日の天気や部屋の温度など、およそ彼が得られたであろう情報は、全て完全に記憶していたのであった。

 また言語に関しては、日本語、英語、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、ベトナム語、タガログ語までは、ネイティブレベルで会話や読み書きが出来ることを確認している。


(――能力だけなら、まるでサヴァン症候群だ。しかも一分野に特化している訳でもなく、ってやつだ)


 その異常さ故に、池溝はエリオンの話がどれほど荒唐無稽であったとしても、どこか信憑性を感じざるを得ないのであった。

 そしてまた、先日聴いた物語の――ツキノの死に、所謂いわゆるフィクションとは違う『何か』を感じていた。


(あれは残酷な演出や悲劇というのとは、何か根本的な違いがある気がする……)


 そこで池溝はふと、エリオンの話の中で、ゼスクスがドトに言った台詞を思い出した。


 ――『この世界はそれを否定しているのだ。そして理不尽であることを容認している』。


 その言葉が正に適切な表現であると、池溝は納得の面持ちで小さく頷いた。


(そう、あれは『理不尽』なんだ。現実では当たり前にあっても、フィクションにあってはならないような理不尽さ。この前の彼の話の中には、それがあった)


 池溝自身は脚本家でも演出家でもない。故に創作における持論など無いが、それでも理不尽さそういうものが、物語においてタブーに当たるというのは理解出来る。


 例えば、アクション映画の主人公が、脇役の流れ弾に当たって死ぬようなことはない。銃弾の雨の中に身を投じるのであるから、現実ならば死んでも何らおかしなことはないが、物語でそんな事態が起これば、それは登場人物から見れば理不尽極まりない。


(でも私は、あれを知っている)


 医師である池溝は、他の人間よりも最期それを目の当たりにすることが多い。


(ピンチの時に都合良く助けてくれるヒーローなんていないし、死というのは必ずしも、必然性や重要性が伴うものじゃない。それまでの出来事なんて関係なく訪れるのが『現実リアル』だ)


 とは云え、それだけでエリオンの話を真実とするには、余りにも弱過ぎる根拠である。


「はぁ……」


 彼は背もたれに体重を預けると、天井を仰いで溜め息を吐いた。ギシリと鳴る椅子の音は、登場人物の死などよりも、遥かに現実的であった。


(まあそんなことより、早く彼の病状を明確にしないとな。でないとまた、噂を嗅ぎ付けたマスコミとかが来るだろうし……。外見も能力も境遇も、どれを取ったってエリオン君は話題には事欠かないからなあ)


 しかしそれは何としてでも避けたい、というのが、池溝が抱く医師として当然の考えであった。


(本当に、どうにも彼は謎が多過ぎる。それに私も嵌ってる気がする。誰か他の人の、客観的な意見を聴くべきかも知れない)


 そんなことを考えながら、空いた缶を軽く握り潰す。そして追加のビールを取ろうと、冷蔵庫の前に立った彼は、そこに貼ってあるカレンダーに目を留めた。――翌週の主だった予定が書き入れてある中で、彼の視線を縫い止めたのは『シンポ』という文字であった。


(学会のシンポジウムか。そういえば来週だったな――)


 数秒の間、その文字をぼんやりと眺めてから、池溝は小さく頷いて冷蔵庫を開けた。



 ***



 論文が映し出された横長の巨大なスクリーン。その上に『心理学シンポジウム』の吊り看板。扇状に広がるシンポジウムのホールは、暖色の照明とともに拍手に包まれた。それを受けて、壇上にいた白髪の男性が一礼してから降りる。


『――ご発表、ありがとうございました。これより20分間の休憩を挟みまして――』


 ざわめきとアナウンスが入り交じる会場で、端の席に座っていた池溝は、そそくさと立ち上がると、見知った男の背中に声を掛けた。


「先輩! 門倉かどくら先輩!」


 その呼び掛けに、灰色のスーツを来た小太りの中年男性が、周囲を見回してから振り返る。


「――池溝? おお、やっぱり池溝か」


「ご無沙汰してます」


「久しぶり、っつーかお前、老けたなあ。たまには連絡ぐらい寄越せよ」


 そう言って池溝の背中を叩くのは、池溝の大学時代の2つ上の先輩で、彼がゼミで最も世話になった門倉という男である。いかにも中年太りといった体型ではあるが、身なりは清潔で、落ち着いた眼差しには理知的な印象があった。


「すみません、色々忙しくて」と池溝は、ばつが悪そうに笑う。


「まだ東鴻大にいるんだって? ゴマ摺り下手なお前じゃあ、出世は厳しいだろう?」


「ええ。仰る通り。まあ自分は上に立つガラじゃないんで、いいんですけど」


「そういうところは相変わらずだ、お前らしいな」


 そんな軽い挨拶を終えたところで、門倉は池溝の後ろに控えた青年に目をやる。周りに合わせた地味なスーツを着ているものの、その見た目が明らかに浮いている、白髪の美青年。


「彼は――?」


「エリオン君です。自分の、まあ知人というか友人というか……」


「凄いイケメンだな」


 お茶を濁す池溝に構いも無く言う門倉に、池溝は「ですよね」と笑った。


「実は今日ここに来たのは、シンポとは別の目的なんです。誰か学のある人に、彼の話を聴いてもらいたくて」


「学のあるったって、お前もそこそこ優秀だっただろ」


「いえいえ、自分じゃとても。でも先輩なら申し分ない。これからお時間頂けませんか?」


「俺かよ? まあ今日は一日空けてあるから構わないが……。話ってのはどういう話なんだ?」


 門倉が怪訝な顔で問うと、池溝はエリオンと顔を見合わせる。しかし誤魔化しの笑みを浮かべるだけで、その場で答えることはしなかった。

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