第52話 策略

「っ?! ……!!」


 エリオンは目を丸くしたまま、魔法をかけられたかの様に硬直した。ほんの数瞬、彼の頭の中は真っ白になって、ゾーヤの柔らかい唇の触感だけが浮き彫りになった。


「ちょ――」とツキノ。


 唐突な出来事に、全く予想外の行動に、彼女もまた一瞬固まったものの、すぐさま声を上げる。


「ちょっと!」


 しかし彼女が割り込むより早く、ゾーヤは微笑みながらそっと離れて、エリオンだけを見つめて言った。


「お近づきのシルシ。――イヤだった?」


「え……? あ――ううん。不思議な感じがした」


 と思わず本音を洩らしたエリオンを、ツキノが睨む。しかし甘い残り香と、濡れた唇が乾いていく感覚に囚われた彼は、その視線にすら気付かず、ふわふわと惚けたままであった。


「ちょっとエリオン! って言うかゾーヤ! アナタ突然何なのよ!」


 一人怒り心頭のツキノの怒声が、廊下をザワつかせ、講義室の中にいた上級学徒のシュンを呼び寄せる。


「おいおい、何事かね君達。学舎でのいさかいは厳禁だよ。討論であれば歓迎するが」


「す、すみません」と、ツキノは慌てて頭を下げる。


 そしてエリオンの手を強く引くと、ゾーヤを置き去りに、そのまま足早に廊下を去っていった。



 ***



「ちょっと、何なのよアレ!」と、中庭の噴水の前でツキノ。


 昼下がり、外で食事をとる者も少なくないところで、しかし彼女はそれを気にせず声を荒げた。何人かの学徒が、張り上げられた怒声に振り返る。


「アナタ達、知り合いだったの?!」


 これみよがしに突きつけられた彼女の指先に、エリオンはたじろいで後退あとずさる。


「い、いや……知らないよ。初めて会ったんだから」


「じゃあなんで――! なんであんなことするのよ?! おかしいじゃない!」


「ぼ、僕だって解らないよ……。それに連れて来たのはツキノだし……」


「!?」


 思わず出たエリオンの反論に、ツキノの身体が強張った。そして彼女が無言の間に、エリオンは、自分が言ってはいけない事を言ってしまったのだと気が付いた。


「あ……いや、その――」と戸惑いながら声を掛けるが、下手な言い訳すら出てこない。


 ツキノは奥歯を噛み、目に一杯涙を溜めながら睨んでいる。


「ごめんツキ――」


「――バカっ!!」


 エリオンの胸元に、ツキノのノートが投げつけられた。バサバサと落ちるそれを、エリオンが慌てて拾おうと屈み込んだところで、彼女は逃げる様に走り去っていってしまった。


「…………ツキノ……」


 地面に手を伸ばしたまま、それを見送ることしかできないエリオン。しかしツキノの名を呼んだ唇に、それでも今尚、ゾーヤの甘く溶けるような感触が残っている。


(あの女性ひと――何なんだろう……?)


 エリオンは、小さくなるツキノの背中を見つめながら、自分の唇にそっと触れる。彼は己の心境が、かつてないほど複雑な状態であることに戸惑って、呆然と立ち尽くしていた。


 ――その様子を、離れた廊下の窓から見下ろすゾーヤ。


(ふぅん。なんか面倒臭そうな女……)


 彼女は周囲に人がいないことを確認すると、耳に付けたピアス型の通信装置に触れて、小さな声を発した。


「アマツバメよりオヤドリへ」


 すると間もなく、エイレの声で応答。


『私だ。問題発生か?』


「いや、大したことじゃないけど、ターゲットの近くに目障りなのがいるんだよね。アレがいるとやりづらいかも。……消しちゃっていい?」


『死体が見つかると面倒だ。それならこちらで処理する。特徴は?』


「ティルニヤから付いてきた白髪の女」


『了解した。始末しておく』


 エイレが淡々とした声でそう告げると、そこでプツリと通信が切れた。

 ゾーヤは、廊下の向こうから来た学徒に、すれ違いざまに微笑みかける。そうして人当たりの良い新人を演出し終えると、すぐに軍人の顔へと戻るのであった。



 ***



 夕刻のイグルス。当然、この街の住人は何も学徒のみという訳ではなく、ここには商売人も職人もいれば、傭兵や旅人などもいる。

 学舎の正門前の道は、そのまま目抜き通りへと繋がっており、露店が並ぶ市場から一本横に入れば、そこはささやかながらも酒場が並ぶ、所謂いわゆる繁華街の様相であった。


 その中の一軒、様々な人種がざわめく店のカウンターに、ツキノは独りで座っていた。目の前に置かれたコップに注がれているのは、アルコールなど入っていない、ただのセラハ水である。


「おい、嬢ちゃん。アンタ学徒だろう? いいのか、こんな店来て」


 ほんのりと青みを帯びた丸い水面を、ぼんやりと眺める彼女に、カウンターの中から髭面の店主が尋ねる。


「自分で言うのもなんだがよ、嬢ちゃんみてえな子供が来るには、ちと行儀のいい店じゃねえぜ?」


 店主の言う通り、店にいる客の大半は、どちらかと云うと健全な市民よりも、やさぐれた風体の剣士や傭兵の類が多かった。


「それにウチは、ペット類そういうのは禁止なんだがな……」


 ツキノの膝の上では、蟲兎のププが小さく耳を丸めて行儀良く座っている。しかし店主は、何となく訳あり顔の彼女に、それ以上強くは言わなかった。


「私――子供じゃないもの。これでも成人だわ」と、沈んだ表情で呟き返すツキノ。


(キスはしたことないけど……)


「だったらせめて、酒ぐらい注文して欲しいもんだがな」


 店主は溜め息を吐いてから口を閉ざす。とそこへ、ツキノの後ろから男の声。


「なんだ、シケた女しかいねえと思ったら、可愛らしいお嬢ちゃんがいるじゃねえか」


 いかにも質の悪い酔っ払い、といった感じの二人の男が、彼女を囲う様に両脇へ陣取って、カウンターに肘を掛ける。――薄汚れた軽鎧を着て、使い込まれた剣をいた男達であった。

 だがツキノはそんな二人に無視を決め込んで、膝上のププを撫でている。


「へえ、思ったより上物だぜ。学徒ってなァお堅い人種かと思ってたが、こんな店に来るなんざ、結構ユルいもんなんだな? もユルいかどうか、俺らが試してやろうか」


 男らは下卑た笑いを浮かべて、ツキノの物憂げな横顔に顔を近付けると、大量に酒気を帯びた息を吐きかける。


(言わんこっちゃねえ)と呆れた顔の店主。


 ツキノは不快感を露わにしつつ、ププを腰のポシェットに促すと、早々に席を立った。店はオルスの前払いであったので、無言のまま足早に出口へ。

 その姿をニヤニヤとした顔で見つめる二人組は、彼女が店を出たのを確認すると、互いに目を合わせて頷いてから席を立った。

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