第6話 虐殺

「じゃあ僕はこれで」とエリオンは、丸太で出来た見張り小屋の方へ会釈をする。ずんぐりむっくりとした体型のドワーフの男が、ドアの前で彼に向かって手を振っていた。


 森の中にある見張り場は、蟻塚から直線距離にして3キロ程である。しかし実際の道程は、荷馬車が通れるようひらかれた道を辿るので、その倍近い距離になる。

 空が晴れやかなうちに蟻塚を出たエリオンであったが、荷物を届けていざ帰らんとした時には、灰色の雲が森を覆い始めていた。


(なんか嫌な予感がするな)


 という彼の予感は、頬をポツリと濡らす雫となって現れた。


 半乾燥地帯であるティルニヤにおいて、時折降る雨は、正に恵みのそれである。しかしその恩恵は、必ずしも好事を招くとは限らなかった。

 今しがたエリオンが届けたヘビシラズの実は、擦り潰すことでモンスターが嫌う臭いを発する。蟻塚から延びる主要な道には、安全の為にその粉が撒かれているのであったが――雨はそれを流してしまう。


(早く帰らなきゃ……)と、身軽になったエリオンは、小走りにもと来た道を戻る。


 しかし、木々に囲まれ緩やかなカーブを描く土の地面は、次第に黒い斑点で埋め尽くされ、やがて彼の足音を、ペチャペチャと湿ったものに変えていった。そして虹色の髪がしっとりと額に張り付き、膝下がしっかりと泥に塗れた頃――。


「!!」


 エリオンの行く手を遮る様に、それが現れた。


「……グギギ」と一鳴き。


 目を見開き立っていたのは、薄毛で緑色の皮膚をした、鼻の長いひひの様な生き物。汚れた腰布を巻き、手には不格好な石斧。


「ゴ――」と言いかけて、口をつぐむエリオン。


 小人鬼ゴブリンと呼ばれるそのモンスターの体躯たいくは、エリオンよりも一回り小さい。しかし野生の筋肉は荒々しく猛り、腕の太さは彼の腿ほどもあった。

 拙くとも武器を造りだし、扱うことが出来るだけの知能を持った、極めて凶暴な大型の猿――それがどれほど危険な存在であるかは考えるまでもなく、エリオンは思わず、ゴクリと唾を飲み込んだ。


 雨のカーテンの向こう側から、じっと彼を見据えるゴブリンの眼には、明らかな敵意。すぐに襲ってこないのは、エリオンの身体に付いたヘビシラズの匂いが、雨で流されるのを待っているからであった。


(ど、どうしよう……)


 逃げようにも背を向ける勇気が無く、エリオンは戸惑いながらも、腰に備えた短剣に手を伸ばして――握る。しかしその軽さと短さは、彼の恐怖心を煽る材料にしかならなかった。


「………………」


 雨音だけの沈黙の中、ゴブリンがジワリと歩み始める――。両者の距離に比例して、エリオンの心臓の鼓動も、その間隔が狭まっていく。

 そしてエリオンが心を決める間もなく、匂いの消えた彼に向かって、ゴブリンが飛び掛かった。



 ***



「――やはり降ってきたか……」


 家の扉の前でドトは、くすみ始めた空を見上げながら、そう呟いた。


 珍しい雨に、蟻塚の子供達が笑顔で回廊を走り回る。その横で親達は、手摺りに渡された紐を手繰り寄せ、そこに干していたタオルや衣服を慌てて取り込んでいた。ドトはその平和な光景を横目にしつつも、見張り場がある東の森へと目を向けた。

 先刻出ていったエリオンが戻るには、まだ時間がかかる――それは明らかではあったものの、不穏の空は彼の心を妙に波立たせていた。


(何事も無ければ良いが……)


 そう思いつつ振り返り、ドトは家の隅に立て掛けてある、古い一振りの剣を見つめた。



 ***



 跳躍とともに振り下ろされた石斧が、エリオンの肩口へと触れた瞬間――。


「グギャッ?!」


 ゴブリンは、何の手応えも無く己の武器が粉々になって消え去る様に、驚愕の眼差しを向ける。

 無論それはエリオンも同じことで、微かな触感だけを残して、サラサラと砂の如く散ってゆく斧に、一体何が起きたのかを理解出来ず、ただ固まっていた。


「な……何が――?」


 しかしゴブリンは、すぐさま当惑を闘争本能で塗り替えて、鋭い爪でもってエリオンに襲いかかる。


「うわあっ!」


 エリオンは思わず目を瞑り、遮二無二しゃにむに短剣を前に突き出した。するとその手にズグッと重たい感触が伝わり、「ギャウッ!」という濁った悲鳴が響いた。


「…………?」


 恐る恐る目を開くと、ゴブリンが少し離れた所で、腕から血を流している。そしてエリオンの手にあったはずの短剣は、柄はそのまま剣身だけが1メートル程伸びて、長剣の様な状態になっていた。


「剣が、伸びた――?」


 訝しむ彼の手元に、刃を伝って赤い血が届く。その生暖かいに怖気づいて、エリオンは剣をその場に投げ捨てた。

 一方ゴブリンは、腕を抑え「ギィギィ」と苦痛に呻きながらも、その瞳を一層凶暴に輝かせる。その迫力に圧されたか、後退あとずさるエリオンは、泥濘ぬかるみに足を取られて尻餅を突いた。


「く、来るな……! 怪我したんだから――もう来ないでよ!」


 視えない壁にでも頼るかの如く、必死に手をかざすエリオン。だがそんなことはお構い無しに、ゴブリンは嗤う様に牙を剥き出して、ビチャリッと足を踏み出した。


 しかし――。


「近寄るなあっっ!」


 エリオンの瞳が青く光る。そして彼の叫びと同時に、ゴブリンの身に異変が起きた。


「ギ……?!」


 がに股に開いた短い脚が、彼の言葉に応じて、潰れた。――正確に云えば膝上から脛の辺りまでが、視えない力で強引に圧縮されたのである。


「グッ――ギィィャァーッ!!」


 ゴブリンの怖ろしい叫喚が木霊こだまする。腿肉を突き破った骨や血飛沫までも、見る見るうちに圧し潰されていき、数秒と経たぬ間に、その脚はになるまで圧縮された。

 支えを失って倒れ込んだゴブリンは、泥土を掻き散らしながら悶絶し、そのまま動かなくなった。


「し……死――」


 唖然として立ち上がれぬエリオン。しかし彼がその現象を理解するより前に、生い茂る草木の陰から、獰猛な息遣いが聴こえてきた。それはどの方向からといわず、四方から彼を取り囲んでいた。



 ***



 木立を滑らす様に走る機械馬。跨がっているのは、腰に剣を携えたドトである。その横顔には焦燥が滲んでいた。

 既に陽は傾き雨が上がり、多少の悪路であろうともエリオンならば、とうに戻ってきてよいはずの時間であった。


(あいつの身に何か――)


 その心配が彼に剣を取らせ、走らせた。

 手綱ハンドルを引き絞り、脇目も振らず疾走する。しかしやがて、一際木々の多い曲がり道を折れた所で、彼は予想だにしない光景を目の当たりにしたのであった。


「エリオン!」


 道の真ん中で立ち尽くすエリオンの姿。それを見て安堵したのも束の間、ドトはその周囲に転がる、夥しい死体の山に絶句した。


「――!?」


 それは、数にして20を超えようかという、ゴブリン達の亡骸。頭を潰された者、両腕がひしゃげた者、胴体にポッカリと穴の開いた者――。言うまでもなくどれもが絶命し、辺りには、雨上がりの新緑の匂いすら掻き消すほどの、せ返るような血の臭い。


(何ということだ……これは)


 ドトは馬から飛び下り、返り血で染まったエリオンの許へ。その気配に気付いたエリオンが、おもむろに振り返り、口を開く。


「ドト――」


「無事か、エリオン」


「ドト……お父さん……」


「怪我は無いようだな……。何があった?」


「ゴブリンが……僕――」


「安心しろ、もうこいつらは死んでいる」


「違うんだドト。どうしよう、僕――何か変なんだ……」


 声を震わせ、虚ろな表情でドトを見上げるエリオンの瞳から、涙が流れ落ちた。

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