第xx話 ファンタジー
池溝が籍を置く
池溝自身もその医学部出身であり、今年で勤続8年目の37歳。妻も子も無く、これといった趣味も持たない彼は、
「――先生、お髭伸びてますよ」
「ありゃホントだ。昨日剃ったんだけどなあ。……いや一昨日か」
数本の白髪が目立つ頭を掻きながら、エレベーターホールで溜め息と一緒に、銀色の扉が開くのを待つ――。その横に
「やあ、池溝くん」
「ああ、おはようございます高橋先生」
「また泊まり込みかい? 当直じゃなかったろう?」
「ええ。でもなんか最近は、家に帰っても落ち着かなくて」
「自律神経? 医者の不養生は良くないね」
「耳が痛いです。――高橋先生はオペですか?」
「昨夜の急患の処置がさっき終わったとこだよ。三次だった」
「事故ですか?」
「うん。中学生が、交差点でトラックに撥ねられたみたいでね。バイタルは安定したけど意識は戻らないかもな。――そういえば、あの患者さんはまだ?」
「あの――? ああ、エリオン君ですか? サッパリですね……」
「もう1週間だよな、たしか」
「ええ。毎日話はしてるんですが、まだ症状も掴み切れてなくて」
「話っていうのは、君が言ってた例の『未来の物語』ってやつか」
「完全に
池溝は苦笑いを隠しもせずに、手をヒラヒラと振ってみせる。しかし高橋はそれに対して、深刻そうな顔で言った。
「それは、ひょっとしてあの病気かも知れないな……」
「え? 心当たりが?」と、池溝がその顔を覗き込む。すると。
「ああ。それはきっと『
「…………」
「……冗談だよ」
「茶化さないでくださいよ、高橋先生」
落胆の溜め息を吐く池溝を、してやったりと高橋が笑う。
「――薬も考えてるんですけど、幻覚は無さそうだし……。一度、田中先生に
池溝は独り言を発し、首を回しながら、降りてくる
「彼については、
「まあ、あの外見ですしね。モデルでもやってたのかな……?」
柔らかな電子音がポーンと鳴り、扉が
「何階ですか?」
「ありがとう、2階で」と高橋。
「2階ですね」
「………………」
「………………」
――また数字を見上げて、暫し沈黙。
「…………そうだ、高橋先生。今度飲みに行きません? 田中先生も誘って」
「ああ、いいね。駅前にできた手羽先屋、美味しいらしいよ」
「いいですね、手羽先。じゃあそこ行きましょう」
「そうしよう。お疲れ様」とエレベーターを降りる高橋に、池溝は「また」と会釈を返した。
間もなく自分も1階で降り、清掃員しかいないエントランスロビーを抜けて、晴れやかな外に出る。背筋を伸ばして大きく深呼吸をすると、昨夜の雨の残り香が、鼻を潤す感じがした。
建物のすぐ前は、駅とこの病院を結ぶバスの停留所と駐車場であったが、彼はそれを避けて、横に広がる屋根付き道を辿っていく。その先にはネットフェンスと植栽に囲まれた、ちょっとした広場があり、雨水に濡れたベンチが並んでいた。
「――?」
池溝はそこで、植栽枡の草花をじっと眺めている、水色の患者衣の青年を見つけた。
「エリオン君……?」
後ろ姿であっても、色が抜け落ちた様なその白い髪と、長い脚のせいで七分丈になっているズボンを見れば、それが彼であるとすぐに判る。
芽吹く前なのか、それとも枯れてしまったのか、閑散としてしまっている枡に咲いた白い花弁を、エリオンは柔らかな手つきで撫でている。細い指先に冷たげな雫が付いた。
「弱っていますね」とエリオン。
「……その花かい? クレマチスって言ってたかな? 大きくて沢山咲く花らしいけど、そうでもないね」
「………………」
「どうやってここへ? ナースさん達に止められなかった?」
近付いてそう問う池溝に、エリオンは花に視線を落としたまま答えた。
「直接降りてきたので、他の人には会いませんでした」
「? 直接って……?」
池溝は怪訝な表情で振り返って、エリオンがいたはずの病棟を見上げる。――恐らく彼の部屋であろう、7階の窓が開け放たれ、そこからベージュのカーテンが外に
「…………(まさか、そんな訳ないよな?)」
その手段はさて置き、彼が突然消えたとあっては、看護師達が大騒ぎになるのは目に見えている。しかし自分の携帯が鳴らないうちはまだ、せいぜい用足しか何かだと思われている可能性が高いだろう――池溝はそう考えた。
「とりあえず
彼はエリオンに対して『君は病気だから』とは言わない。無自覚の患者にそういう表現をすると、症状の悪化を招く恐れがあるからである。故に記憶が戻るまでは、安全の為に一時的に保護するのだ、という説明をしていた。
池溝の言葉に促されると、エリオンは最後に葉っぱを一撫でしてから、大人しく彼の言うに従った。そして歩き始めた時に。
「それは僕も同じです」と一言。
「――?」
何が同じなのかと疑問を抱きつつも、問うことのない池溝に、エリオンもまたそれ以上語る事はなく、静かにその場を後にした。
***
――次の日。
池溝が昼食を食べに病院の外へ出たところ、先日の広場の方で、何やらワイワイと騒ぐ小さな人だかりを見つけた。その中には大きなカメラを担いだ男性や、上に飛びすガンマイクがあった。
「撮影……?」
丁度そちらに向かう様子の女性看護師がいたので、池溝は彼女を引き止めて尋ねる。
「ねえ、アレなんかの取材?」
すると看護師は意外そうな顔で言った。
「ご存知ないんですか? あそこ、今朝からスゴイことになってるんですよ」
「凄いこと――?」と首を捻りながら、池溝はその人だかりに向かう。
そして片手で拝む様に割って入ると、その光景を見て唖然とした。
「何だ……これ……」
それはまるで、荒れ狂う花の海であった。植栽枡から溢れ出た彩り豊かなクレマチスが、フェンスの網目に絡み付いて色彩の津波となり、ベンチを埋めて花弁の水面となっていた。
その一画だけが現実を離れ、幻想世界へと迷い込んだ様な景色に、池溝はしかし胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
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