第38話 魔王と死神

 パルゲヤで波乱を乗り越えたエリオンらが、その境遇とは対照的ななぎの海へと船を出していた――丁度その頃。


 鉱山市ティルニヤの北西遥か、自由国境を越えた先にある、荒れ果てた寒冷地。常にどんよりとした雲に覆われたその地には、過酷な自然環境こそあれど、太陽の恵みや豊かな動物達の営みなど無い。故に国名すら持たず、人々からはただ『魔境』と呼ばれていた。


 鮮やかな色が存在しない景色で、たまに目に付く生き物と云えば、毛皮が地面に着きそうなほど伸び切った、『ただれうし』なる土食性の巨大な牛ぐらいなものである。そしてそこから更に北に向かえば、あるのは氷の山原だけという、正に人外のみが棲むことを許された極地――。そんな魔境の平野に、直径数キロに渡る洪大な穴があった。

 底が視えぬほど深く、覗くだけで吸い込まれそうな暗闇の断崖。その縁からは脚の無い石橋が中央に向かって伸びており、それは穴の真ん中にある、不気味な城へと続いている。


 その城は生物の骨を思わせるいびつな形で、すすを塗り固めたかに見える、鈍い黒。途轍もなく太く大きな鎖が、孤島の様な土台と四方の縁を繋いでいるが、その緩やかなたわみは、島が宙に浮いていることの証であった。

 そして城へと続く橋の手前には、キャタピラを持つ巨大な棺桶の如き列車――殊能者統括戦線モリドの戦略要塞車両ミドガルズオルムが、ゴゥンゴゥンと重々しい機械音を響かせながら停車していた。



 ***



 陰鬱いんうつな静寂の城内に、硬い単音が響く。それは数秒毎に、同じリズムで繰り返されていた。そして肋骨をモチーフに造られた様な、不気味に歪んだ廊下を、それとはまた別の音を鳴らしながら歩く人影――ハッキリとした目鼻立ちで、灰色の長い髪をした妙齢の女性である。黒百合の如き妖しい美貌のその女は、しかし腿の付け根から下が驢馬ろばのそれであった。


 そこさえ除けば人間と大差ない彼女は、その美しい肢体を惜しげも無く晒し、乳房と陰部だけを蛇皮で覆っていた。謂わばほぼ全裸に近く、その他に衣服らしき物と云えば、首に掛けた眼球のネックレスぐらいなものである。肩にかかる灰色の髪の両横――耳よりも少し高い位置には、蝙蝠こうもりの様な羽根が付いており、それすら装飾ではなく自前のものであった。

 妖艶な雰囲気を過剰なまでに漂わせるその女は、言わずもがな人間ではなく、サキュバスと呼ばれる種族である。彼女は、この城の主にして魔導師連盟の盟主、魔王カザルウォードに仕える魔族であった。


 その女の後ろには、黒面の死神ことモリドの首魁ゼスクス、そして彼の部下である、緑髪の暗殺者エイレと小柄で金髪のゾーヤ。

 彼らが廊下の突き当りにある巨大な扉の前に辿り着くと、サキュバスは手も触れずにそれを開き、中に声を投げ入れた。


「失礼致しますわん、魔王様ん」


 なまめかしい笑みを浮かべ、先んじて部屋へと入る――。そこは、臓器の内部を彷彿とさせる、グロテスクな意匠の大広間であった。

 奥にある玉座の前では、濃紺の分厚いマントを羽織った男が背を向けており、その男の元から、返事代わりにガキンッという硬い音が届く。――どうやら先程から響いていた音は、彼が発信源であるらしかった。


「何をなさってらっしゃるのん?」


 というサキュバスの問い掛けに、男が振り返る。――銀色の長い髪。その頭には、羊のそれに似た渦巻きアモン角。肌は白く、凛々しく端正な顔立ちである。全身に纏った黒い鎧からは、赤黒いオーラの様な光が漏れ出ており、その威圧的な外見だけで、この男が只者ではないと見て取れる。

 だがしかし、何故かその手には、凍り付いたバナナと釘。


「何って、見りゃ分かんだろ。バナナでクギ打ってんだよ」


 見た目に似つかわぬ軽い口調でそう返した男に対し、サキュバスの女は更に問う。


「バナナでクギ? それにどんな意味がありますのん?」


「強いて言うなら、知的好奇心からくる真実の探求ってやつだな。果たして本当に凍らせたバナ――」


「暇潰しねん?」と、笑顔で遮る女。


「……うん、まあそういう言い方もあるか」


「そんなにお暇でしたら、人間共と遊んで差し上げたら宜しいのにん。魔王様が御姿をお見せしないから、連盟の魔導師こどもたちが不安がっておりますのよん」


「ほっとけ。アイツら面倒臭えんだよ。それにここ遠いしな」


「でもこんな所に城をお造りになられたのは、魔王様ご本人ですわん」


「そりゃそうだが……ほらアレだ、やっぱ魔王って言ったら『北の果て』とかに居る方が雰囲気出るだろ?」


「そういうものかしらん?」


「そういうモンだ」


 男は自分に言い聞かせる様に頷くと、両手を黒い炎で包み、バナナと釘を一瞬で消し炭にした。


「――んで?」と、雑な動作で玉座に座りながら、サキュバスの後ろに控えたゼスクスらに目をやる。


「何の用だ?」


「お客様をお連れ致しましたん」


「見りゃ分かる。ソイツらに訊いたんだ」


 男の黄色い瞳は、今までとは打って変わって強い眼光を放ち、ゼスクスらを射抜く様に睨み据えた。――その眼差しにエイレとゾーヤに緊張が走る。

 しかしゼスクスだけは一切動じず、すっぽりと被った黒い仮面から、管を通るような響きの声を発した。


「殊能者統括戦線、モリドのゼスクスだ」


「ご丁寧にどーも。俺様はカザルウォード、んでそっちのはニムだ」


「ニムヴァエラと申しますわん」


 サキュバスの女――ニムヴァエラは会釈をしてから、笑顔でカザルウォードの許へ。そして彼の横にと寄り添う。


「んで、グレイターの親玉がわざわざ何の用だ? 連盟ウチ戦争ケンカでもしてえのか?」


 肘掛けに肘を突いて、玉座のカザルウォードは不敵に嘲笑う。するとゼスクス。


「警告をしに来た」


「ハッ、警告だあ? お前さ――、俺様が誰か解ってて言ってんだよな?」


「無論だ、魔王カザルウォード。俺は、魔導師連盟の盟主である貴様に言っている」


「…………。んで、どんな警告だ?」


「神の権限から手を引け。聞かぬというなら、貴様の言う喧嘩とやらも辞さんつもりだ」


「へえ――」と返したきり、黙り込むカザルウォード。


 その横でニムヴァエラは、可笑しそうにクスクスと声を洩らした。


わらうなよ、ニム」


「だって魔王様ん。グレイター如きが魔王様に歯向かうだなんて、蛙が蛇に挑むようなものですわん」


 堪え切れずにケタケタとわらいだした彼女に、エイレがギリリと奥歯を噛む。ゼスクスはその殺気を感じ取って、小さく手を挙げて殺意それを制した。だがそうしつつも、彼自身、その身体から冷たい殺気を放っていた。


「返答は――?」とゼスクス。


 するとカザルウォードは溜め息を吐いてから、あっけらかんとした様子で答える。


「答えはノーだ。俺様が手を引こうが、お前らが手を引こうが、結局アレは誰かに利用されるだろ。そうなりゃ俺様のまったり魔王生活チートライフも危ねえからな」


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