003:その日の朝2
「相変わらず、何度聞いても到底信じられる話ではないわね」
朝食を食べ終えると同時に、とても微妙な表情で、真希はそう言った。半目で生ごみでも見るかのような、向けられる側としては実に不愉快な表情。絶対信じてないな、コイツ。
「しかたないだろ。信じられないって言っても、本当に事実なんだから」
悪態をつくように、険悪な面持ちでそう言う。俺だってこんな、到底信じられる話じゃないってことくらいわかっている。わかってはいるが、そうあからさまに馬鹿にされては黙っていられない。
「まぁ、兄さんは昔から、よく変なことを口走るおかしな子だったし」
「オイ。人を虚言癖かキチガイだとでも言うつもりか」
「違うの?」
うぐっ、違う――と、思いたい。せめてそう思わせてください。
「嘘をついてる――とは思ってないわよ? 疲れてるのよ、きっと」
「――そうなのかな」
「そうなのよ」
半ば強制的に、そういうことになった。有無を言わせない強制力――こういうところ、妹の凄いところだと、俺は思う。
「ただ――」
付け加えるように、聞き加えるように、真希が尋ねる。
「ただ、分からないわね。それだけじゃあ、兄さんが新学期学校に行きたくない理由にはならないわ。この《魔法使い》――つまるところ、巫女装束の女の子に遭遇するのがいやだって言うのなら、それこそ春休み中家にずっと籠ってるってもんでしょ。このチキンなら」
「おい。最後の余計だ、撤回しろ。認識を改めろ。ていうか、顔すらろくに見られてないんだぜ? この広い椚町の中、そんなピンポイントで出くわして気付かれる――なんてことは、極めて可能性の低い話だ。有り得ねぇよ。俺はそこまで臆病じゃないんでな」
「じゃあ、何故?」
何故、学校に行くことを恐れているのだと、そう問われた。
妹の問いに、俺は一拍の沈黙を置いた。そして気まずそうに――どちらかというと、恥じるように、こう答えた。
「――その巫女装束の女の子。ウチの学校指定のローファーを履いていたんだよね」
◆
結局、あーだこーだウダウダ言っててもしょうがないし、なにより男らしくないんで、学校に来た。来なければならなかった。現在、校門前だ。
「――はぁ」
たるみ切った猫背をいっそう丸くしてため息を吐く。どんよりとした面持ちは、傍から見れば徹夜明けか何かにでも見えるのであろうが、実は全然違う。ぼくはめちゃくちゃ健全です。
じゃあ何故、こんな重い空気を漂わせているのか――そう問われれば、少しだけ答えづらくなるのが正直なところ。
いや、なに、俺としては今日一日程度なら学休むこともそう吝かではなかったのだが、
『は? 何言ってるの。阿呆がサボったら余計に阿呆になるでしょう。バカも休み休み言いなさい。とは言っても、学校は休んだら殺すわよ』
――と、妹が殺すとまで脅してくるもんだから、まぁ来たわけである。そういうわけである。無理矢理なのである。グスン。
いや、でも、予め誤解をといておくと、それは俺がビビってるとかそんなんじゃなく、ただ俺は、大上大河は、危ないことはなるべく避けて通りたい主義なのだ。
安全第一――うん、いいことじゃないか。賛美されるべきであって決して非難されるようなことじゃないんだから、誰も俺を否定することなぞ出来やしないのだ。
ふっ、と謎の勝利感に浸りつつ不敵な笑みを零し、校門を跨いだその瞬間だった。
「……よっ! たーいーが!」
という、何者かによる不意の呼かけに対して、完全に意表を突かれてしまった。
「うわぁあああああーーっ!!?」
「うわっ、なんだお前。朝っぱらから元気かよ」
絶叫からほんの数秒。ようやく、いきなり肩を叩いて脅かすなぞいう、不遜な行いを働いた愚か者の正体に気付いた。気づかない筈が無かった。
「ぁぁあーー……あ? ――あぁ、なんだ、冬弥かよ。驚いた」
驚いたのはこっちだぜ、と明朗な笑顔を返してきたこの男、友人の
薄みのかかった短い茶髪に、少し不良じみた乱暴な目つきがなんともマッチした顔が特徴的だ。背は俺より頭一つ分高い180cmとかなりの高身長で、それも相俟り、たびたび不良なんかに間違われることがある。
だが実際はそんな暴力的なヤツなどではなく、むしろその手の行為をひどく嫌っている好青年だったりもする。――が、今のような脅かしやからかいなんかは日常茶飯事という、茶目っ気と言えば聞こえはいいのだろうが、実のところ、大変な悪戯坊主でもあるのだ。
「大丈夫か? 朝から発狂とか、お前、変なモンでも食ったんじゃねぇの?」
「うるせー。あんな不意打ち、誰でもビックリするっつーの」
悪態をついて、緊張していたことを悟られぬよう、咳払いを挟む。
「いやぁ、しかし。あの驚きようは近年希に見る才能があるぞ大上クン」
「そりゃどうも」
「どうじゃ、ワシと一緒に芸人を目指さんかね」
「――お前の夢、俳優じゃなかったっけ?」
「ばっか。オメェ、芸人も俳優も同じようなもんだべ?」
「全っっっ然違ぇよバカ! 謝れ。今すぐ全国の俳優さんと芸人さんに謝れ。そしてその誤った解釈を正せ。今すぐにだ。ハリー!」
ったく、なんて事を言いやがるコイツは。
「ふーん。まぁいいや。オレがどっちもこなせるエリートになりゃいいだけだからな」
「お前のその自信はどこから来るんだろうな、一体。末恐ろしいよホント」
「ふっふっふ――まさか! 恐ろしいのは俺自身の才能だよ!」
「ふーんへー」
「まぁこんな感じに、俺の演技は既に完成していると思ってくれて構わない。――安心しろ、大河。有名になっても遊んでやるからよ」
ぐっ、と親指を立てて自信満々に宣う冬弥。なにが安心できるのか甚だ疑問ではあったが、とりあえずその親指を立てた拳を、クルリと一回転させてみたくはあった。
――とまぁ、こんな風に喋ってみればコイツは普通にいいヤツだ。偶然ではあるが、先程までの緊張も、今では嘘のように消し飛んでいる。こういうところ、コイツを嫌いになれない理由の一つでもある。
「そう言えば大河。もうクラスは確認したのか?」
「あ? してねぇよ? さっき校門から入って来たんだし、当然だろ、そんなの」
ていうか聞くまでもなくわかるだろ、と言う俺の言い分に、そうか? と心底不思議そうに首を傾げる冬弥。
「オレは早く来た知り合いに写メ送ってもらって分かったんだけどよー」
あぁ、なるほど。そういう手もあるのか。冬弥にしては頭がいいし、珍しく勉強になった、と内心感心する。
「オレ達また同じクラスだと」
「えぇぇえ……またかよ。おれアイツ嫌いなんだよなあ」
「オイオイ、失礼だなお前。本人目の前にいるぞ? 泣くぞ? むしろオレは運命を感じたほどだぜィ」
運命というより呪いといった方が的確だろう、この場合。なにせ俺達、大上大河と不知冬弥は、中学一年の邂逅以来、ずっとクラスを同じくするという謎の業を背負っているのだから。もはや運命などという可愛らしい比喩で言い包めれるモノではなくなっている。
「まぁでも、アイツが同じクラスにいるっていうのは、どうしても気に喰わんのだが」
嫌悪感と絶望感をブレンドしたかのような絶妙に味気のある表情で、冬弥が言った。
「アイツって?」
「西条詩陰」
「あぁ、あの優等生? お前、アイツのこと嫌いだよなー」
「虫唾が走るわ」
と、基本的に他人にはお人好しで人懐っこい人畜無害であるコイツが、こうして心の底から嫌悪してならない存在――それが、我が高校随一のエリート女子、西条詩陰である。
西条詩陰を一言で表すなら、それは多分、秀外恵中や才色兼備といった、そういう華やかな言葉を抜粋されることであろう。桁違いの頭脳で成績も優秀。並外れた運動神経でスポーツも万能。極めつけは、容姿端麗で外見すらも完璧ときた。そりゃあ、まぁ、非の打ちどころがない、っていうのはこういうヤツのこと言うんだろうなと、そう思った。
俺も実際、彼女とは面識があるわけでも無し、ましてや顔すらも合わせたことがない訳だが――それでも、あくまで噂の範囲でとどまっているにも拘わらず、彼女がどれだけ超人的な、絵にかいたような完璧な人間であるか、ということを痛いほど理解させられる。
まぁ、何度か遠目に見かけることはあったが、結局はその程度だ。とてもじゃないが、俺達のような陳腐で平凡な連中からすれば、それこそ雲の上の存在なわけで、アホのコイツが対抗意識を燃やしている事実については筋違いだと言わざるを得ないのだった。
でも確かに、遠目から見ても彼女、西条詩陰は確かに可愛かった。恐らく、俺の妹に負けず劣らずの可愛さだ。無論妹は世界一可愛いのでそれ以上というのは理論上ありえないわけだが……それでも確かに、西条詩陰は美しかった。椚町――いや、稲並市に彼女らより見目麗しい女の子は、まず存在しないだろう。――なるほど。そんな彼女とこれから一年間同じクラスになると言うのだ、冬弥には悪いが、それは正直心躍るってもんだぜ。オラワクワクがすっぞ。
期待に胸を膨らませていたそんな中、冬弥が再び話題を変える。
「そう言えばこれは裏の情報筋から拾ったもんなんだけどよ」
なんだ、裏の情報筋って。ヤーさんか。闇の世界の住人なのか。暗黒面に堕ちたのか。
「オレ達のクラス――まぁ、つまるところ二年B組なんだけどな、新任の先生が担任になるらしいぞ」
「へー」
俺は心無くそんな棒読みの返事をする。
「なにやらそのせんせ、ゴイスーな美人らしい」
「ほぉ」
俺は真剣な面持ちで、鼻の下を伸ばしながら、詳しく、と話を続けるよう促す。こういうとこ、その手の話になると、俺の顔つきは伊達になる。
「なんでも帰国子女? っていうのかな。つい最近までイギリスにいた人らしいんだけど、イギリス人じゃなくて、どうも黒髪で日系の美人さんらしい。――オレは外国人の豊満な肉体……特にお尻が好きなわけではあるのだが、日本人の奥ゆかしさもまたいい文明だと思うのだよ」
「仰る通りで」
「しかも、さる情報筋によれば、眼鏡までもを装備しているという話があってな」
「でかした! フル装備じゃないか! 黒髪眼鏡は正義だ! ジャスティスは勝つ!」
「オタク文化に毒され過ぎだぜ、ジョニー!」
ガハハハハハハ、と人目も気にせず大声でスクラムを組みながら、俺達は笑いあった。良い子は決してマネをしないでください。迷惑です。
◇
オタク談義(?)に熱が入りすっかり時間を忘れていた俺と冬弥。時計は、八時十五分にまで針を進めていた。
「やべぇやべえ。さすがにそろそろ教室へは入っておかねぇと」
やや小走り気味に、新しい教室たる二年B組へと向かう。
新しい教室――というか、二年生の教室は一年の時に使っていた北館とは別にあたる、本館に位置する。それも三階。たかが三階、されど三階。気だるさ満天の朝一番から階段を60段近く上ろうというのは、運動部に所属していない俺からすると苦行以外の何物でもない。――だが、それでもたかが三階。C組以降の二年生は教室を四階に設置されてあるため、俺達二年B組はまだマシなのだ。
余談も終盤にさしかかり、なんとか新しい教室に辿りついた。十五分前とはいえ、すでに教室へは大半の生徒が集まっているのだろうと、そう予測した。
横開きの扉を開け中へと入る。予測通り、すでに教室には八割くらいの生徒が顔を揃えていた。
「俺達の席どこだろうな」
「そうだなー……どれどれ」
といい、席順が貼り出された黒板へと向かう冬弥。自身の席を探すこと数秒の後、再びあの味のある表情でこちらへと振り向いた。
「俺の前、西条詩陰じゃん」
「マジかよ。残念だったな」
俺の慰めに対し、冬弥はキョトンとした表情で、不思議そうに言う。
「いや、お前は隣りだから俺より酷いぞ?」
「――マジ?」
マジ、と二つ返事に首肯する。いや、これはまるっきり予想外だったため、純粋に驚いた。ていうか、こういうのって出席番号順に並べるもんだよな、普通。――とはいっても、
「まぁ、俺は別に苦手とか嫌いとかじゃないし。別にいいけどな」
ちっ、と舌を打ち悔しがる冬弥。悪いが俺は西条詩陰に対して苦手意識や嫌悪の類を抱いてはいない。だからまぁ、冬弥みたいに残念がる理由がないわけだった。
それに彼女、西条詩陰はとんでもなく可愛いという話ではないか。美人が毎日隣に座って勉強をするなど、そう悪い話ではあるまい。
故に、悪いが冬弥。俺は今、絶賛ウキウキしているのだ。
黒板に示された俺達の席は教室の隅、窓際の後ろ側だった。冬弥の席が正真正銘教室の角。俺の席はその斜め前だった。所定の席に腰を下ろすが、意外、西条の姿は隣になかった。
「まだ来てねぇのかな?」
「さぁ? 知らね。でもまぁ、アイツん家ちょっと特殊だから、朝は学校に来るの遅いらしいぜ」
「へー、特殊ねぇ」
「なんでも家が神社なんだと」
「ふーん、神社」
――ん? 神社?
「西条詩陰はそこの娘で、巫女やってるらしい」
「ほーん、巫女」
巫女、だと――?
「だから朝の務めとかなんとかで、登校時間はいつもギリギリなんだと」
「へ、へぇ……」
返事が曖昧になってしまったのは、冬弥の言葉に違和感を覚えたためだ。
“違和感”。――それはどちらかというと、この場合“悪い予感”――といった方が、ニュアンス的には正しそうだ。
――神社。
――巫女。
この二つの言葉が、俺の中で少しだけ引っかかった。
いや、気のせいだ。気のせいだろう。気のせいだと思いたい。気のせいであってくれ。
切にそう願わずにはいられなかった。
冬弥の言葉に一抹の不安を覚えていたその時――再び、教室のドアが開かれた。
コツコツコツコツ、重くあって軽やかな足音。もとい、靴音と足取り。
校内靴着用校たる我が校では、歩く度、指定ローファーの固い音がよく響く。ましてや、先程まで騒がしかったクラス中が急に静かになれば、それはいっそうよく響く事だろう。
先程までの冬弥との談義のまま、俺は教室の入口方向に背を向けたままだった。人間は背中に目など付いていないため、今しがた入室した人物の姿を視認することは叶わなかった。――が、今現在の正面、冬弥の表情のソレが、一体誰であるかというのを、如実に物語っていた。その独特の、味のある表情で。
「大上くん」
静かな、氷のような冷やかさを帯びた、優しい声音。俺は無意識に、はい、と返事してしまっていた。
「席に着きたいのだけれど。少し寄ってくれないかな」
付け足すように「大上大河くん」となにやらを強調してフルネームで名前を呼ばれ、声の発せられた方へと顔を向ける。
そこには、立っていた。紛れもなく、立っていたとも。あの夜の少女の面影を確かに残した、ウチの高校指定のローファーを履いた、先程まで俺達が噂をしていた――我が校が誇るエリート、西条詩陰が、だ。
絹のように滑らかな、紐で束ねられた黒色の長髪。白く透き通った肌は、桜よりも季節外れも雪を連想とさせた。――が、彼女の冷え切った声音のソレを思えば、あながち間違いでもないのだろう。我が校独特のダサいブレザーを身に纏って尚、その美しさに狂いはないといえる。
「……おはよう」
「えぇ、おはよう」
素っ気の無い返答。その氷のように冷え切った絶対零度の感情や態度といい、なんだか真希を連想させたが、違う。この女は根本的に違う。この女は、普段はこんなに、他人に対して冷たくはないのだ。
先述の通り、俺は以前から彼女を遠目でなら何度も見かけたことがある。大体が体育の授業の最中ではあるが、彼女を取り巻く周囲――つまるところ、クラスメイトやチームメイトの言葉に対して、ここまで冷徹な返しはしていなかった。あ、いや、この場合だと塩対応の方が喩えとしては正しいか。
――いや、そんなことはどうでもよく。俺が言いたいのはつまり、西条詩陰がここまで冷たいのは、他でもない俺に対してだけ――ということだ。
何故かって? そんなの、考えればすぐに見当がつくというもの。
「通るわね」
「あ、あぁ……」
俺が椅子を寄せて通れるスペースを確保し、彼女がソレを通り自身の席へと着く。
いや、席に着こうと、席に向かおうと、そのスペースを通過する最中。二人の身体が交差したその瞬間、囁くように、俺にのみ聞こえるような小声で、告げた。
『――やっと、見つけた』
背中が、ゾワリと震えた。
悪寒めいたものが全身を凌辱する。鳥肌が全身を伝い、心臓にまで届きそうなほどに、全身が全霊を以て警告を発していた。
『――やっと、見つけた』それが何を意味するかなど、もはや言うに及ぶまい。そう、彼女は見つけたのだ。あの日、あの夜、あの光景を見られてしまった、ただ一人の目撃者たる、この俺を。やっと、見つけたのだから。
席に着いた彼女へと、再び視線を向ける。同じく彼女もまた、こちらを見ていた。
交錯する視線。睨み合う二人。――否、その表情はさながら、獲物を追い詰めくつくつとほくそ笑む狩人のそれ。西条詩陰は、いやらしく口端を吊り上げ、嗤っていた。
ゴクリ、と生唾を呑む。彼女が、あの夜の少女ではないのかという先程までの疑念が、確信へと変わる。間違いない。コイツが、この少女が、西条詩陰が、あの夜の巫女の少女なのだ。そう断言できた。
「……魔法使い」
独り言のようにぼやく。反復するように、再度確認をするように。
俺が彼女から視線を外し、有り得ない――というよりむしろ、度し難い現実に苦笑いを浮かべて逃避していたその瞬間――ガラガラガラ、と再び教室のドアが開かれた。
黒板側に設けられた教室の出入り口より、一人の見慣れない女性が入室してきた。
女性は、見た目とても若かった。だがそれと同時に、外見年齢以上に大人にも見えた。大人にも見え、子供にも見えた。――支離滅裂ではあるが、本当に、言いようや喩えようの類が見つからないほど、色々な意味で、その女性は浮世離れしていた。
セミロングの茶黒い髪と、日系人特有にスラリとした凛々しい顔立ち。幼く見えるのは多分、可愛らしい赤ぶちの眼鏡のそれが起因しているのだろう。身長は一六〇前後かな、背の低さの割にスタイルのいい大人の体型。それら全ての要素を合わせ見て、その女性は大変美しかった。クラス中が、唖然となるのも無理はない。
無言のまま、教卓の前までやってきた女性。ゴホン、という咳払いを入れ、語り出す。
「あー、うん。――よし、おはようございます。諸君」
屈託のない笑顔と明朗な声音で言い放った。
数名の生徒が、おはようございます、と返す。俺達三人もその例外ではなかった。
「うんうん。挨拶に挨拶で返せる子供は、大変お利口です。ことに、私のような初対面の知らない人間に対して――と言うのは、それはもう崇高と呼んでもいいレベルですよ」
などと、得意げに物語る、謎の女性。
正直、この人が何を言っているかな意味不明であったが、褒められて悪い気はしなかったので、とりあえず会釈をいれる。
教室中の視線が、彼女一人へと集中する。誰ひとりの例外もなく、彼女は教室中の人間の意識を集めた。優れたマジシャンは、人々の意識を意図的に集める術を有すると聞いたことがあるが、これもまた、その一種だと思えた。
「――挨拶とは、それ即ち《言葉》です」
続けるように、謎の女性は語る。宣う。
「人間とは《言葉》によってコミュニケーションを成立させる、たいへん高度な知能を有した生物です。――皆さんは、《言葉》という概念の重要性を理解してますか?」
唐突の質問に、クラス中が困惑する。
『言葉という概念の重要性』――なるほど。わからん。これが、俺の出した結論だった。
言葉の重要性――か。そんな、当たり前のことを深く考えろだなんて、だってそんな、一概にあーだこーだ言い包められるようなもんでもないでしょ。言葉なんて、それこそ千差万別。その意義や意味すら多岐に渡って存在する。
だから、俺の結論は、わからない――なのだ。
だが、彼女は答えた。得意げに。一切の曇りなく、誤りなく。
「言葉とは――ですね。この世で唯一、神に届き得る人智の結晶なのです。皆さんは、《バベルの塔》という話をご存知でしょうか? まぁ、知らなくても何ら不自然じゃありません。コチラの地方では至極マイナーな昔話ですから」
――バベルの塔? 聞いたことあるような、ないような?
「今よりはるか昔、神の時代を生きた人々は、その地域や人種に関係なく、皆が互いに同じ言葉を理解し使用していたのです。人類は一つの言語のみで統一されていた、ということです。考えられますか? 人類が、数多の言語を生み出してきた私たちが、ある一つの言語で統一されていたのだということを」
女性は語った。遥か昔、人間は一つの言語のみで統一されていたのだ。そして、考えられるかとも問うた。俺は、とてもではないが理解に及ばなかった。
多岐に渡って存在する言語。国や宗教、そして地域にてそれを違える人間が、昔はそうでなかったと、そう言うのだから、到底信じれる話ではない。それに、じゃあ何故今はそうではないのか――そう問いかけた時、それより早く、女性の口より語られた。
「では、本題です。今でこそ言語がバラバラになってしまっている理由――それは、神様の仕業によるものなのです。ここで登場するのが、先述に上げたバベルの塔。人類はその昔、天にも届き得る一つの巨大な塔を建設しました。いや、正確には建設していた、ですね。それが、かのバベルの塔。『The city and its tower』人間は、彼らがあらゆる彼方の地に散らばらない様に、一つの地に全人類を集めようとした。そして、その塔が建設された。ソレは真実、天に届き得る人類の力の現れ。神に届き得る、人智の結晶でした。ですが、神はソレを脅威と断じた。そして神は、彼らの言語を乱したのです。言葉を乱してしまえば、彼らの意志は互いに通じなくなり、混乱を招くだろうと。――結果、塔の建設は取りやめになった。バベルの塔は、文字通り建設が不可能になった。彼らの夢は、人類の夢は、言語能力の喪失によって断念せざるを得ないものになってしまった。――この話が意味するを、皆さんは理解出来ましたでしょうか?」
クラス中が静まり返った。どうやら、誰も理解出来ていないらしい。――が、俺はなんとなく、なんとなくではあるが、理解出来ていたと思う。多分。つまり――
「つまり、言語が統一されたままであったなら――人間が真に通じ合えるならば、私たちは神のおわす天に届くことも可能であったと――そう言いたいのですね。先生」
スっ――、と隣から手が上がり、そう答えた。西条詩陰だ。
あれ、待てよ? たしか今コイツ……?
俺の懸念はどうも正しかったようで、教卓に佇む謎の女性は、ニヤリという不敵な笑みを浮かべて、得意げに言う。
「その通り! そして初めましてだ諸君。私の名前は
あぁ、担任の。なるほど。確かに、冬弥が言っていた情報とその外見は一致する。それになにより、想像以上の美人で正直ビックリだ。
「最後に、皆さんに予め伝えておくことがあります」
そう言い、数秒の沈黙を置いた後、彼女、東雲カレンはとんでもないコトを口にする。
「――私は、《魔法使い》なのですよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます