002:あの日の夜

 三月下旬。稲並椚いななみくぬぎ高校の終業式の日。その夜の事だ。

 その日の俺は、ただいつも通り、妹のパシリとして――もとい、夕食の買い出しのため、家から自転車で十分くらいの所にある、商店街のスーパーに出向いていた。

 椚商店街、その中に位置するスーパー、セルリアンは古くより椚町住民たちに愛されているいわゆる老舗だ。多分、椚商店街が出来る以前から、この土地で変わらずに続いている歴史あるスーパー。

 ただ、長い歴史続くとあれば、それだけ設備にも年季があるというもの。特に、俺はどうにも、このスーパーのトイレが好きになれなかった。

薄暗く尿臭漂う古いトイレ。あまりと言っていいほど、それを使用する気には微塵もなれなかった。否、全くもって皆無だ。


 余談ではあるが、俺はまぁ、そこそこの潔癖症だったりする。とはいっても、そんな他人と手を繋げないだとか、外着のままソファに座れないだとか、そんな重度のそれとは程遠い――極めて一般的なそれに近いハードルに則った、常識の範疇にある潔癖症だ。

 そのため、例え買い物中に尿意を催したとして、セルリアンの古く清掃もろくにされないトイレで用を足す、などということは決してなかった。そんな時は決まって、いつも最寄りの――というより、スーパーを出て道を挟んだ目の前にある、新設されたばかりの公園の、綺麗なトイレで用を足すのが常であった。

 幾分か多少の手間はあるが、こちらの方が、精神衛生上なにかと都合がいい。

 丁度、その日の夜もそうだった。俺は妹に頼まれたカレーの材料の買い出しに出かけ、帰りに公園へと立ち寄った。

 公園と言っても、時刻は一九時。季節柄、春。日の沈みはまだまだ早く、外は真っ暗であるため、人気と言うものが全くと言っていいほど皆無。公園と言う華やかなイメージとは真逆の、僅かな街灯と明かりのみに照らされた薄暗い不気味さが、少しだけ不安を煽る。


 文明の産物たる、人々の手によって人工的に建設された、遊戯施設とオブジェクト。それは言ってしまえば、近来における俺達人間の技術力・想像力、その最も身近な象徴だとも言えよう。

 人間の創造性と技術力を象徴する――もっと言ってしまえば、人間を象徴する人工物に、肝心要たる人間の姿が無いというのは、一体、その象徴側としてはどういう心境なのだろうと、そんなことが気がかりでならなかった。


 「忘れられた――じゃ、ねぇな。用済みだから、用が無いから、だな」


 そう考えると、この公園が少し、可哀想に思えてきたりもする。

 それに、何だかその日は妙にそわそわしたが、構わず、さっさと用を足して帰ろう思った。

 トイレに入り、用を足し、帰ろうと思い至り公衆トイレから外へ出た直後――最初の行程から実に一分も経過していないであろう非常に短い時の経過の間で、ソレは起こった。


 直後、俺は自らの目を疑う、有り得ない光景を目にする事となる。

 一言でソレを形容するなら――美しい、だった。

 白装束――いや、この場合、巫女さんとでも呼んだ方が正しそうな、白を基調とした、神社とかでよく見るあの服。ソレを身に纏った黒い髪の少女の姿。

 まさに、ため息しか出なかった。それほどまでに、眼前の少女は華美に過ぎた。

 薄暗い公園とは対照的な、白く輝く少女の姿。凛々しさと美しさ、その極地とも呼べよう麗しい装いに、一切合切の思考を停止。その姿に釘付けを余儀なくされた。

 公園の入り口に突如として現れた巫女装束の少女は、真っ直ぐと公園の端を睨んでいた。

 ただ真っ直ぐ。黙って。じっと、公園の端を見つめていた。さながら、獲物を逃すまいと狩りに興じる獣の如く。

 その必死な眼差しに、何か面白いものでもあるのかと思い、不意に少女の視線の方角へと目を向ける。――すると、何か、得体のしれない黒いモノが蠢いた。


 「ひっ――」


 たまらず、声を漏らしていた。だって、本能的に悟ってしまった。アレは、この世のモノではない――ということを。

 ぞわぞわと不快な音を立てて蠢く謎の影。見ればなにやら、口やら目やら、人間のソレを思わせるパーツが点々と、ソイツには施されていた。

 ギィギィ、と舌を出して喘ぐ口。ぎょろり、と大きく見開かれた眼球。それら全てをぐちゃぐちゃにかき混ぜた全貌。――なんて、醜悪。この世の嫌悪すべき全ての頂点のような下劣さだった。

 込み上げる吐き気を不快感と共に飲み込む。こんな、こんな汚らしい生き物が存在して許されるのか。

 ――ソイツは、あまりと言っていいほど、がしなかった。


 『ギぃ、……――Gyyyyyyyyyyyyyyyyyy!!』


鼓膜を刺激する、耳障りな奇声。ギチギチと音を立てて変形する黒い影。あれには骨格なぞ皆無。まるでそれは、口や眼球それそのものが四足歩行で歩いているかのような――そんな感じ。

 危ない――と、俺は思った。だって、アイツの面持ちのソレは、尋常では無かったから。血走った眼球らしきもの。口から飛び出す、溢れんばかりの唾液唾液、飛沫。完全にやばいやつだ。本能的に、無意識に、眼前の少女の身が危険だと悟った。――が、


 『――清めたまえ……祓いたまえ』


 その少女もまた、尋常ではなかった。

 地面を滑走する黒い影。少女へと襲いかかるその刹那、それは見えない光の壁に阻まれた。否、


 『G、ぐgyっ、!?』


 ドン、という衝撃。怯んだ影の塊。すかさず少女は畳み掛けるように、その続きを詠む。


 『囲むは四方より西、北、東、南。之祓いたまえ、清めたまえ……』


 少女の言霊に呼応するように、光の壁は、ぶつかった不届きな黒い影を覆うように囲んだ。まるで、逃げ場など無いぞと脅すように。

 次いで、少女の両手になにやら紙幣のような、紙切れのようなものが握られる。

 両手いっぱいに握られたそれを、躊躇なく宙へと放る。


 『――乾九、兌八、離七、震六、巽四、坎三、艮二、坤一、須く八卦。八百万の神々よ、四方を総べる大いなる四神、言霊を打ち払いし悪意の渦を、是清めたまえ――……祓いたまえ――っ!』


 少女の発する言葉の一つ一つが意味を持つ、カタチを持つ。宙へと放たれた紙切れの一枚一枚が光を放ち、浮遊したまま縦横無尽に黒い影を囲む。

 光の壁の更に外側。光る紙切れが見えない壁の周囲を浮遊し、旋回する。徐々に加速する旋回は、数秒後には目で捉えられぬほどの速度と化し、光を持つ。そして、突如としてそれは訪れた。降り落ちた。

 雷鳴の如く空より穿たれた光の柱。直撃した黒い影は、嗚咽のような悲鳴を遺し焼き焦げる。否、それはもう影すらも残されぬ高温の一閃。先ほどまでそこに居た黒い影は、文字通り清められ、祓われ、消失した。


 「――……」


 以上が、ことの顛末。とある夜、俺が目撃した不思議な出来事。

 巫女装束の少女が、得体のしれない黒い影のようなバケモノと戦う光景。――それは、まさに魔法のような……そんな出来事。

 夢幻のような、嘘のような現実。

 嘘みたいな光景だったけど、多分、明日には夢かなんかとして忘れてしまうだろう。

 だって、あまりにも荒唐無稽。現実離れしたそれは、時に脳の整理をおろそかにする。

 だからこれ以上、二度と関わる事は無いと、そう思っていた。

 この時、後ずさりした俺が、物音なんかを立てなければ――。


 「誰!?」


 ジリ、という俺の足音に気付いてか、少女がコチラへと目を向ける。

 鬼の形相で、コチラを睨む少女。コチラも咄嗟に、それこそ反射的に、公衆トイレの壁へと身を隠した。


 「ああ、もう! この忙しいときに! 一般人の〝口封じ〟とか、面倒事以外の何物でもないっつーのっ!」


 巫女さんとは思えない程の荒々しさを孕んだ声音で毒を吐く少女。似合わねぇなぁ。

 ザッザッ、という足音が、次第に大きくなるのがわかる。どうやら、少女は俺の方へ向かって来ているようだ。

 それに〝口封じ〟という少女の言葉。文面や状況から察するに、あまりと言っていいほど、良い予感はしなかった。――が、その時。

 ドンっ、という爆発音に近しい衝撃音が響く。驚き、勢いよく振り向く巫女装束の少女。


 「な、なによっ!?」


 当然、これはチャンスに他ならなかった。このままここにいれば、いずれ少女に捕まって口封じなるものをされてしまうだろうと、そう思ったのだ。


 「ひゃっ!」


 少女が後ろに向いている隙に、少し申し訳ないが押し倒してダッシュで逃げた。

 案の定、彼女は地面に転げてくれたようで、その隙に公園の外へと逃げることに成功した。


 「……こ、このぉ――」


 恨みったらしくそう言う。まるで呪いでもかけられているかのように迫真。巫女さんが呪いだなんて、ギャグにもならねぇ。

 だが、本当に怖かったのも確か。暗くて顔など見えなかったであろうが、多分、後姿くらいは確認されている。

 そして最後に、悔しさと怒気を孕んだような声音で、少女はこう言った。言い放った。


 「絶対に、見つけ出して――殺す!」

 

 と、重々しい呪気を放ちながら――――。

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