第1話 ― 6
利用者様はたっぷり十秒、膝をついたまま両手で頭を抱えて唸っておられました。
やがて立ち上がった際にはまた怒号が飛んでくるのかもしれないとの懸念から、私は早い段階で背後のハヤセさんに視線を送りましたが、近づいてくるはずの足音は聞こえません。一度助けたのだから後は自分でやれということなのでしょう。
どんな勢いで怒鳴られても対応できるよう、私が心の準備を入念に済ませた辺りで利用者様は立ち上がりました。こちらを見据えるその視線は、怒りというよりも若干諦めに近いものが感じられます。
「一応聞くけどさ、なんでドブネズミ? 俺人間として生まれ変われないの?」
「同じ世界の中での生まれ変わりであれば特に問題はございませんが、なにせ異世界への転生というものは基本行われない特例でございますので。特にヒトという生き物は思想や行動次第で一人が歴史に大きな影響を与えることも珍しくありませんし、なにより――」
「ごめん、結論を端的に言って」
「転生した先の生態系や文明のパワーバランスを乱す危険性を考慮し、人間やその他知性体として転生するのは申請の通りにくさで言えば最上級となっております。まず利用者様の経歴では許可が出ません」
わあ、もう扱い方覚えられてるよナナミちゃん。背後から能天気な口調でそのような言葉が聞こえてまいりました。どうやらハヤセさんは、私からの救援要請には応えず見物に徹しておられるようでございますね。後で上司へと報告させていただきましょう。彼の懲役を一年くらいであれば増やせるやもしれません。
ともあれこちらとしても利用者様のその要求は助かります。どうも私の説明というのは冗長に過ぎるところがある、というのは自覚がありますが、なにぶんこういった性分ですので。
「これにて説明は以上となりますが、何かご質問などありますでしょうか」
「……異世界には、俺自身の記憶を持っていけるの?」
「記憶については追加で審査が必要となります。仮に審査を通ったとして、ドブネズミの脳に収まる容量まででしたら、可能ですが」
じゃあいいや、とげんなりした顔の利用者様が首を横に振られました。私もその方が賢明かと思われます。せいぜいが自身の名前と「前世は人だった」程度しか記憶容量に持ち込めないので大してメリットはございません。
むしろ人としての感覚を持ったままドブネズミとしての生活を行うというのは想像を絶する過酷さであることでしょう。
「じゃあもう一個質問。ドブネズミとして転生して、そのあと人間にもう一回生まれ変わったりできるの?」
「本人が強くご希望されるのでしたら、これも転生後の世界を管轄する冥界支所で手続きしていただくこととなります。ドブネズミにはドブネズミなりの文化や生態系があるかと思われますので、その枠内で徳を積んでいただければいずれは」
そう説明しながら手元の用紙を確認しておりましたが、どうやらこれで説明するべき内容はひとまず十分なようでございました。それでは、と説明を畳む方向へと流れを持っていくと、利用者様にもそのことは察して頂けたようです。その表情に浮かぶのは諦めが半分と、どうしてだか、もう半分には安堵の色がうかがえました。
「利用者様には、この時点で異世界への転生手続きを行うか、一般転生課にて通常の生まれ変わりを希望するか選択していただくことが可能でございます。異世界への転生の際はそれほど時間はかからないかと思われますが、一般輪廻転生課の方へ行かれます場合は再度一から手続きをしてもらう事と、記憶の消去なども含めて生まれ変わりの順番待ちをしていただく必要がございます」
実を言いますとこの部署に配属されて以降、私ナナミはいつも疑問に思うところがございます。まさに今この瞬間もそうでした。最初は異世界への転生ができると聞いて目を輝かせ、その実態を知ると激怒して抗議してくる方がほとんどなのですが。
「じゃあ、異世界はもういいよ。一般転生課に行くわ俺」
こうして必要な説明の全てを済ませますと、おおよそ半数くらいの人が同じように仰るのです。あれだけ歓喜し、激怒したはずの異世界転生に対してまるで何の未練も持たぬかのように。
残りの半分は最後まで納得がいかぬようで暴れた末に取り押さえられたり、初めからここで受理する気なんか無かったんだろうと罵声を浴びせてから立ち去っていかれます。私が鏡越しに時折覗く現世の方々というのは、むしろこの納得がいかぬと憤る方が正しいように感じるのですが。
***
「たぶんさ、心のどっかでやっぱり疑問なんだと思うよ。自分がそんな風に活躍できるわけないじゃんってさ」
どこか憑き物が落ちたような表情で一般転生課へと転送されていった利用者様を見送ってから、暇そうにされていたハヤセさんに尋ねるとそのような答えが返ってきました。
「生きてるうちは絶対理解できないんだけどさ。いざ目の前にマジで転生できますよーって状況並べられると途端に気付くのさ。今から剣持って、剣向けられて、痛い思いも怖い思いもしなきゃいけないんだって。実際はそれすら叶わないんだけどね。そうなると一瞬日和っちゃう人って結構多いと思うよ?」
「そういうもの、ですか」
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