中岡慎太郎の受難
西暦1867年12月10日(慶応3年11月15日)七ツ半(午後5時)過ぎ
京都市街
空が茜色に染まり始めた京の街中、中岡慎太郎は寒さを堪えながら歩いていた。
彼は囚われていた土佐藩士、宮川助五郎が保釈されるということを聞き、その身柄引き取りに関する相談の為に、谷守部(干城)のもとへと伺ったのだが留守であったため、坂本龍馬のいる近江屋へと足を運ぶことにしたのだった。
『さて、谷さんは不在だった事だし、龍馬さんのところで温めさせてもらおうかな』
などと考えもって歩いていると、不意に脇の小路から女性が飛び出してきてぶつかってしまった。
「おっと、すまない。お嬢さん、お怪我はないですか」
女は頭巾をかぶっていたが、そこから見える日本人離れした顔立ちと、金髪に慎太郎は目を惹かれてしまった。
「ええ。……あら、私の顔に何か付いてますか?」
「い、いや。何でもない。すまなかったな」
そう言って慎太郎は近江屋に向かって歩き出す。不意に振り返ってみると、女がお辞儀をしていたので、名前くらい聞いてもよかったかもしれないなと思う慎太郎であった。
近江屋 六ツ時(午後6時)頃
慎太郎は、龍馬の滞在している近江屋に到着すると、近江屋の主人である井口新助と挨拶を交わした。
「こんにちは、井口さん。石川(中岡の変名)です。龍馬さんは?」
「いらっしゃい。土佐の石川清之助殿だね。坂本殿なら二階の奥にいますよ」
それを聞いた慎太郎は、礼を言って母屋へと上がった。
二階へと上がると、楊枝を削っている龍馬の従僕、元力士の山田藤吉がいた。
慎太郎に気付いた藤吉は作業を止めて立ち上がり、襖の向こうの龍馬へと呼びかける。
「龍馬さん。石川殿がお見えになられました」
「おう。中岡か。入れ入れ」
襖の向こうから風邪気味なのか、枯れた声の龍馬の声が聞こえてきた。藤吉が襖を開けると、龍馬は床の間を背に火鉢に向かって座っていた。
「龍馬さん、風邪ですか?」
慎太郎は問いかけながら、冷えた身体を温めようと、火鉢を挟んで龍馬と向かい合うように座り込んだ。
「おお、軽くな。なあに、心配しなさんな。こがなん《こんなもの》すぐ治るさ。で、今日はあれか? 三条制札の」
「ええ。町奉行所から宮川(宮川助五郎。土佐の出身。幕府が三条大橋に掲げた、長州藩を朝敵とする制札を引き抜こうとして新撰組に捕らえられていた)が釈放されるみたいで。彼の引き取り先について相談しようと思って、先程守部殿のところを伺ったんですが留守でして。せっかくですから龍馬さんの意見を仰ぎたいと思った次第です」
「その事についてだが、昨日、孝弟殿(福岡孝弟。土佐藩大監察で、海援隊・陸援隊の結成を構想・助力した人物である)とその件について話してきた。今日は留守やったき。細かい所までは決まって無いけどな」
「で、どうなったんですか?」
慎太郎は龍馬に問いかける。
「藩は、厄介ごとを恐れて宮川は藩の者では無い言いゆう。藩は絶対に受け入れるつもりは無いろう。そこで藩外郭組織であるわしら『翔天隊』(龍馬の『海援隊』と慎太郎の『陸援隊』を合わせたもの)の出番って訳や」
龍馬は藩の組織でありながら藩に所属しない自分たちが引き取る事で問題を解決しようとしていた。
「それについては私も考えていました。彼とは五十人組の際に面識がありますから、私が引き取ろうかと考えていました。その件を守部殿と孝弟殿に伺おうとして出て来た訳ですが守部殿は留守でして。寒かったのでここで温まるついでに龍馬さんと話をしようと思いここに来たという次第です」
五十人組とは、参勤交代に参加出来なかった土佐勤王党の志士たち五十人が、江戸で幕政改革を行い恨みを買っていた前藩主、山内容堂を護衛すべく集まった護衛部隊。宮川は総頭、中岡は六番組の伍長として参加していた。
「ついでとはなんじゃ。ついでとは? まぁ、それでええろう。孝弟殿には明日、わしから報告しちょく。……なんじゃ? まだ何かあるのか?」
「ええ。先程、ここへ来る途中に異人の女にぶつかりましてね。とても綺麗な金髪でしたよ」
中岡がそう言うと龍馬は少し考え込んでから、思い当たるものがあったのか、手をポンと叩いた。
「ああ、そうや。ちっくと《ちょっと》前に京へやって来たにかあらん《らしい》薊道場とかいう道場には異人の女師範がいるという話や。なんでも、二年ほど前には土佐の上街にあったにかあらん」
「上街って確か龍馬さんの実家の?」
「そうや。わしが十一の頃に出来たらしいが、女子専用の道場というだけで話題なのに、師範が異人みたいだという話で持ちきりになったのを覚えちょる。そういえば、その金髪の女も見た事もある気もするな」
「へえ。奇遇な事もあるものですね」
その時、階段を駆け上ってくる音が聞こえてきた為、慎太郎と龍馬は話を止めた。すると、藤吉と少年の話し声が聞こえたのち、襖を開く音が二度響き、その後慎太郎たちのいる部屋の襖が勢いよく開かれた。
「慎太郎の兄ちゃん。お使い終わったよ。あ、龍馬さん。こんばんは」
「こんばんは、峰や」
やって来たのは慎太郎の居候先である土佐藩御用達書店『菊屋』の峰吉であった。彼は慎太郎が菊屋で居候し始めて以降の関係であったが、龍馬の依頼で変装して新撰組の屯所を偵察するなど、彼らの活動に積極的に協力しており慎太郎たちからは「峰や」と呼ばれて親しまれていた。
「ありがとう峰や。返事はどうだった?」
「貰って来ましたよ。はい、これです。それじゃあ。僕は藤吉さんと相撲でもやっていますので。うるさくなるかもしれませんがお気になさらず」
そう言って峰吉は部屋を出て、再び襖を閉めた。
「慎太郎。何を頼んだんや?」
「なに、大した事ではないよ。薩摩屋(薩摩藩の定宿)に薩摩の動向を教えてもらっただけさ」
「それで何と?」
龍馬は慎太郎の話をよく聞こうと身体を傾けたが、顔が火鉢に近くなって熱かったのか元の姿勢へと戻し、事の詳細を尋ねた。
「薩摩では、大政奉還による討幕挙兵の延期を受けて、武力討幕派がいきり立っているようで。西郷殿などは江戸で幕府に対しての挑発行為をして戦端を開かせようとしているとの事です」
「幕府が倒れるとなった今、幕府勢力の排除された政府を武力によって樹立したい薩長と慶喜殿を含む幕府勢力を取り入れた新政府体制へと緩やかに変革していきたいわし、まだまだ気苦労が絶えなさそうじゃ。西郷さんには穏便に済まして貰いたいものじゃな」
「ええ、全くです。同じところでその掛け軸は何です? 前に来た時にはありませんでしたよね?」
慎太郎は龍馬の奥にある床の間に掛けられた白梅と椿が描かれた掛け軸を指差し尋ねた。
「ああ、これか? これはな今朝方、槐堂先生(板倉槐堂。陸援隊・海援隊に資金援助を行なっていた)がわしの誕生日にとくれたんじゃ」
「あっ、そうか。すいません、誕生日だというのに何も持ち合わせてなくて」
「ええんじゃ、ええんじゃ。わしとて風邪気味なんじゃ。あまりほたえたい《騒ぎたい》気分では無いき」
そんなことを話していると、再び近江屋に来客があったようで新助と客の話し声がした。そして客は階段を上ってきたようで、藤吉と峰吉の声がしたのち、襖が開いて峰吉と共に客の男である土佐藩下横目、岡本健三郎が入ってきた。
岡本は下横目という警察の下っ端の様な立場にありながらも、龍馬や慎太郎と志を共にし国事に関わってきた人物である。
「龍馬さん、体の具合はどうぜよ?」
「おう、岡本か。まあまあだな。まあしばらく寝ちょりゃ治るさ。で、今日は何用じゃ?」
「福岡殿に頼まれてな。様子を見てこいだとさ。本人は祇園で楽しんじゅーのにな。まあ、特にすることもないしな。暫くゆっくりさせて貰うよ」
「それで孝弟殿は不在やったんじゃな。まあ、そがなことならゆっくりしていきな」
そんなこんなで三人と峰吉を加えた四人はたわいも無い話を小一時間続け、龍馬はお腹が空いてきたのか「軍鶏が食べたいなあ。峰、買うてきてくれんか」と呟いた。それに慎太郎も賛成し岡本も誘ったが、彼は用事があるので帰ると言った。
「何だよ、例の彼女か?」
慎太郎が問い掛けた健三郎の彼女とは、薬屋の娘で美人であると有名であった。そんな彼女と岡本は仲良くなっていた事もあり、その関係を慎太郎はいじっていた。
「いや、違う違う。福岡殿へ報告に戻るだけよ。という訳でこれにて失礼させて貰うよ。峰吉、途中まで一緒に行こうか」
健三郎の言葉に峰吉は頷き、健三郎が立ち上がると峰吉も立ち上がった。二人は襖を開けて出ていった。階段を下りようとした二人に藤吉が声を掛け、峰吉の代わりに自分が軍鶏を買ってくると言ったが、自分の方が足が速いと言って申し出を断わり、彼らは近江屋を出て行った。
その後、軍鶏を待つ龍馬と慎太郎は再び雑談を始めた。大坂から戻った海援隊士、宮地彦三郎が挨拶に来た為、龍馬が窓から挨拶を交わすという事はあったものの幕府解体の目処が立ったことからか、彼らは使命を忘れひと時の平穏を楽しむように取り留めも無い雑談を続けた。
時刻は五ツ半頃(9時頃)になり龍馬が、そろそろ峰吉が帰ってくる頃だろうと慎太郎に問い掛けた時、近江屋に再び来客があった。龍馬に用があるようで、藤吉が取り次ぎへと向かい階段を下りて行った。
慎太郎は誰が来たのか龍馬と共に当てようとしていたが、下の階からギャッという悲鳴が聞こえた。
「なんだ、藤吉の奴。客人と相撲でも取ってやがるのか?」
下の様子が気になる慎太郎は、冗談を交えながら龍馬に問い掛けた。それを聞いた龍馬も、藤吉が下で誰と何をしているのか探ろうと、立ち上がり襖を開けて藤吉に対して叱りつけるように叫んだ。
「ほたえな!」
叫び声が聞こえたのか下の騒ぎは静まり、再び龍馬は火鉢の前に座り込んだ。その瞬間、階段を駆け上がる音がしたと思うと、破裂音と共に龍馬の右側の壁の一部が弾けた。
その場所を龍馬と慎太郎は確認すると弾痕があり、それは龍馬の眼前を通り過ぎる軌道で壁に当たったものであった。
二人は再び視線を合わせ、示し合わせるように刀を床の間と屏風裏から取り、立ち上がった。その瞬間、二人のいる八畳間の襖が開かれ、銃撃して来た相手の姿が露わになった。そこには女が三人いた。
「ほりゃあピストルか?」
龍馬は銃らしき物を持ったショートヘアの栗毛女性に問いかける。
「ええ。セミオートマチックピストル・ナスタチウムMK.2よ。さっき外したのはわざとよ。私はあなたの眉間をいつでもぶち抜けるわ、坂本龍馬」
龍馬はすぐに懐から拳銃、S&W《スミス&ウェッソン》モデル1 1/2を取り出し栗毛の女へと撃ち込んだ。が、すぐにそれは女が撃ち返した弾丸によって撃ち弾かれ、さらにもう一発撃ち込まれた弾丸によって龍馬のS&Wも彼の手から弾き飛ばされた。
「何っ!?」
「二人とも、行くわよ」
「はいはーい」「はい!」
驚く龍馬をよそに栗毛女は銃をしまい、後ろで控えていた仲間の女を部屋に呼び込み、
龍馬は栗毛女と黒髪の日本刀を持った少女と剣を切り結ぶが、少女の剣捌きは道場塾頭を務めたこともある龍馬から見れば、なんてことのない素人の太刀筋であったが、時折無駄の無い研ぎ澄まされた一太刀が繰り出され、気を抜けない闘いを強いられていた。
対して、栗毛の女の舶刀の太刀筋は、確実に急所を狙ってきており、少女の剣捌きに気を割かれていることさえも考慮に入れたような斬撃で、竜馬を追い詰めていっていた。
「くそっ、われら何処の手の者や。新撰組か、見廻り組か、薩摩か、それとも紀州か?」
「私たちは金蓮花党。誰の命でも無いわ。これは私たち達の意志よ」
二人は斬り結びながら話を続ける。
「それならどいて、わしを殺そうとする?」
「あなたを殺せば、幕府と討幕派の争いを邪魔する者はいなくなるわ。待っていれば他の者が殺すでしょうね。でも、これは私たちがやる事に意味があるの。あなたはいずれ新たな体制の重役に着き、新たな日菊を創るでしょう。それは私たちの望む女性主権の日菊を作ることにとっては邪魔なのよ」
「女性主権? 何を言いゆーんだ。そがな考え成し得んという事が分からんのか」
「そんなことないわ。理想とは成し遂げる為に立てるものよ」
「そがな事の為に女子が人殺しか。ぐっ……」
栗毛の女と会話する事に一瞬気を傾けた龍馬に、黒髪の少女の一太刀が龍馬の右肩を切り裂いた。
一方、慎太郎の方はもう一人の女。夕方ぶつかったロングヘアの金髪女との一騎打ちとなっていた。
彼女も舶刀を用いていたが、常に受け身で、慎太郎が刀を振るった後の一瞬の隙に一撃を叩き込むといったスタイルだった。
しかも、慎太郎は普段ならあり得ないところでミスをしてしまうという事が多発していた。死合に運などないが、この時ばかりは運が悪いとしか言えない程であった。例えば弾かれた刀があらぬ方向へ動いたり、確実に当たるといったところで失血による立ち眩みが襲うなどといったように、まともな反撃もできぬまま慎太郎は追いつめられていた。
龍馬も二人掛の気の抜けない連携に次第に傷付き始め、所々深い傷も負っており、このまま戦いが長引けば命の危険があった。現状のままで勝てる見込みはほぼ無く、慎太郎たちは2対3に賭けるしか無かったのだが2人とも助けに行ける状況ではなかった。
だが、慎太郎の足に何かが当たった。先ほど弾かれた龍馬のS&Wであった。慎太郎はとっさに拾い上げ、リーダー格の栗毛の女性に狙いを定めて叫ぶ。
「梅太郎!」
龍馬の変名を叫びながら撃ち出された弾丸は確実に栗毛の女に命中する軌道を取った。しかし、突然軌道が変わり弾丸は龍馬の胸へと吸い込まれ、龍馬は血を吹き出し倒れこんだ。
「残念ね、あなたはとっても不幸よ。ましてや私とぶつかってしまったところから不幸だったわね。あれさえなければ貴方も龍馬さんも死なずに済んだかもしれないのにね。まあ、私にとっては幸運ね。あなたが代わりに殺してくれたのだから」
金髪の女は、自分が龍馬を撃ってしまったという有り得ない状況へのショックと、立ち眩みにより崩れ落ちた慎太郎を見下ろしあざ笑いながら語りかけた。
「もういいわ。龍馬は始末したし、見回り組の連中もそろそろ騒ぎを聞きつけて来る頃よ」
栗毛の女はそう言って部屋を出る。それに続いて黒髪の少女も部屋を出た。
「それじゃあね、慎太郎さん。楽しかったよー」
そう言って金髪の女も早足ながらに部屋を出ていき、部屋に静寂が訪れた。
「梅太……、龍馬……」
そういって、慎太郎は龍馬の元へ這いずりながら向かったが、辿り着くこと無く意識を失った。
* * *
「お疲れ様です。上手く行きましたか?」
栗毛の女、灰原葵に問い掛けたのは、葵が取り仕切る薊道場の門番にして、今回の近江屋襲撃では周辺警戒に当たっていた鷹野桜であった。
「ええ、万事上手くいったわ。四葉、例の件はどうなったかしら?」
葵は金髪の女、金山四葉に問い掛けた。
「彼には不幸を沢山詰め込んで置いたわ。何か話そうとしても混濁した記憶からしか話せずに、本当の事を告げられないまま死ぬことになるでしょうね。でも、葵。本当に私たちがやった事にしなくて良かったの?」
四葉は満足気な顔を浮かべながらも、抱えていた僅かな疑問を、葵に問い掛けた。
「ええ、今はまだその時ではないわ。私たちが龍馬を殺したという事が分かれば討幕派も私たちに良い顔は出来ないからね」
「でもやっぱり薊道場の名前を宣伝したいですよ」
「人殺し女道場だって?」
龍馬を逃がしてしまった場合に備えて玄関先で待機していた薊希葉が、葵の意見に対して小言を言うと、同様に屋根上から裏口の見張りを行なっていた日ノ出蘭が皮肉を言った。それに対して希葉が言い返し、蘭との言い争いが始まった。言い争う二人を無視しながら、葵は黒髪の少女、三坂さざんかに問い掛けた。
「ところでさざんかさん。初めての実戦、どうだったかしら?」
「簡単なことなんですね。人を殺すというのは……」
「そうよ、人は簡単に死ぬ。ましてや戦争なんかあれば一瞬で大勢の人が死ぬ。でも、私たち金蓮花党はこれから始まる幕府と討幕派の戦いを利用しようとしている。女性のための国創り。その為の尊い犠牲を大量に生み出そうとしているの。さざんか、あなたはこれから先も多くの人を殺す事になるわ。それでもあなたは金蓮花党に残るかしら。私たちは後を追わないわ。今なら辞める事も……」
「いえ、いいのです。私に帰る家はありません。私の命は貴女たちに預けたつもりてす」
「そう……、分かったわ。覚悟が有るならよかったわ。それなら帰りましょうか。これから忙しくなるのだからね。希葉、蘭。帰るわよ」
葵がそう言って近江屋に背を向け屋根伝いに移動を始め、四葉と桜、さざんかがそれに続くと、希葉と蘭の二人も言い争いを切り止め、葵たちと合流して彼女たちの家である薊道場への帰路をとった。
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