4.アビタル・ミステイク 4
街灯の下、二階の部屋の明かりを見つめる。
日当たりのいい部屋。あそこがマコトちゃんの部屋だろうか。と和也はぼんやり思った。
深夜にも近い時間。和也は一人、真琴の家を訪ねていた。
いや、訪ねるつもりはない。だが、どこにも行き場がなくてここまで来てしまった。
今日は、クロウニーのメンバーは、自主的に自宅待機をしている。まぁ、ダチの家に行ってる奴もいるだろうから、完全に自宅ではないが。
本当は、和也も自分の家にいるべきだった。だが、一人でいたらどうしてもあのことを思い出してしまう。
それで我慢できなくて、自転車に乗ってふらふらと徘徊しているうちに、ここへ来てしまったのだ。
真琴の住所は以前、春樹に調べさせていた。
勇吾が気にかけている人間だ。調べないわけにはいかなかった。
だが、その時は、ここへ来るのはきっと勇吾一人か、勇吾に連れられてのことだろうと思っていた。
こんな風に、夜中に一人で来ることなんて、ちっとも考えていなかった。
ふっと、和也は自嘲の笑みを漏らす。
ここに来たところでどうなるのか。
彼女は巻き込めない。迷惑はかけられない。
だから、話せることなんてないのに、ただ声が聞きたかった。
少し甘い声で、でも本人はそんなことを全然意識していなくて、ちょっと乱暴に「カズヤ」と呼ばれたかった。
女々しいと思いながらも、ワン切りした。
気づいて欲しい。でも、こんな情けない自分に気づいて欲しくない。
真琴が掛け直す振動を手のひらに感じながら、これで十分、と思い自転車にまたがった。
その背に、ガラッと窓の開く音がした。
「カ!……ズヤ」
なぜか真琴は、「か」だけ大きく発音して、慌てて声のトーンを下げた。
そして、驚いている和也の返事も待たずに、ちょっと待ってて、とその姿を消した。
人が動く気配がして、玄関の扉が開く。センサーライトに照らされたそこから、真琴がパーカーを羽織りながら出て来た。
スニーカーをトントンさせながら、アプローチを抜け、門扉を静かに開け、静かに閉める。親はもう寝ているのか。
「やっぱり。いるような気がしたんだ」
急に家の下にいた和也に、驚くでもなく、むしろいたずらを見つけた悪友のような顔でにんまり笑った。
「カズヤ、ど……ちょっ!」
名前を呼ばれたら、もう無理だった。
その小さな体を引き寄せ、抱きしめた。
背後で自転車が、がちゃんと倒れる音がした。
突然のことに、腕の中で真琴がジタバタ暴れた。
それにも構わず、ぎゅっと抱きしめると、真琴の体から力が抜けた。
「――カズヤ?」
和也のらしくなさを感じ取ったのか、真琴が心配そうに名前を呼んだ。
心配かけて、何やってんだ、と思う。
だから、逃げるなら、逃げてもいいと思って、拘束していた力を少し緩めた。
すると、真琴は二人の間で突っ張っていた腕を、おずおずと和也の背中に回した。真琴の体が、和也に沿うようにしなる。
女の体の凹凸が、薄い布越しに和也に伝わった。
どくん、と和也の心臓が跳ねた。
このまま。
このまま彼女を壊してしまおうか。
衝動のままに。
彼女なら、自分の後悔も恐怖も焦燥も全て受け止めてくれるだろう。
最初はきっと怒るだろう。だが、彼女は許してくれる。そんな気がした。
和也がそんなことを考えた時、とん、と背中が叩かれた。
そして、あやすようにとん、とん、と一定のリズムを刻み始める。
和也は、真琴の首筋に顔を埋めていたので、彼女にはその表情が見えていなかったはずだ。
それでも、労わるように、安心させるように、とん、とん、とリズムが刻まれる。
「――っ」
和也をまた別の衝撃が襲う。つん、と鼻の奥が痛む。
和也は苦しくなって、また腕に力を込めた。
「んっ」
真琴が息を吐く。苦しかったのか、背中を叩くリズムが一瞬乱れた。だが、また、とん、とんとあやし始めた。
ずっ、と和也が鼻をすすった。
「――わり。花粉が」
「夏なのに?」
「そ。最近は一年中花粉が飛んでるんだぜ」
「そっか。勉強になった」
バレバレの嘘に、真琴は何も言わずにいてくれた。
それで和也は、不安を出し切るまで真琴を抱きしめ続けた。
◇
「どうしたのって、聞いていいの?」
「聞かれたって答えようがねーから、ヤメて」
「わかった」
そういうと、真琴は和也の頭を撫で始めた。
突然の抱擁の後、少し落ち着いた和也を、真琴は縁側に誘った。
いくら深夜とはいえ、公道で抱き合うのには恥ずかしいものがあったからだ。
それに、背伸びしっぱなしだった真琴の足も限界を訴えていた。
縁側は、家の横に面していた。だから、そこなら少しマシだろうと思ったのだ。
縁側に来てからも、和也はまともに真琴の顔が見られなかった。
それで、縁側に座る真琴の腹に抱きつくように地面に座っていた。
何も聞かずに頭を撫で続ける真琴に、和也が我慢ができなかった。
「あのさぁ、俺、スゲー悪いこと、しちゃった」
「……うん」
真琴が和也の独白に邪魔にならないようにそっと相槌を打った。
「俺しかできねーことだから、納得してんだけど。……やっぱ、ちょっと怖ぇーわ」
「そっか」
「……後悔しねーと思ってたけど、やっぱ後悔してっし」
「うん」
「その自分の覚悟の無さも情けねーし」
「そんなことないよ」
(こうやって、マコトちゃんに情けねーとこ見せてんのもカッコ悪いし)
最後の一言は、心の中で呟いた。自分でも、それをいうのは情けないと自覚があったからだ。
突然話し始めて、突然話をやめた和也を急かすことなく、真琴はその頭を撫で続けた。
やさしい感触が、和也の頭を滑り落ちていく。
どこかからカエルが鳴いている声がした。
たったっと軽い足音をさせて駆けていくのは、猫だろうか。
目を瞑ると、真琴の心臓の音が聞こえた。呼吸に合わせて柔らかく動く腹。そこに耳をつけると、キュルキュルと音がした。消化音だろうか。
ちょっとおかしくなって、少し元気が出て来た。
これは真琴の生きている音だ。それが今日はすごく愛おしい。
――梅田の音は止まったのか。
俺が止めたのか。
今更、なんてことをしたんだろうと思う。
しかも、その罪を人に肩代わりしてもらって。
反射的に現場に戻りたくなる。道ゆく人に、俺が刺したんだと言いたくなる。
だが、それはできない。しない。
そう決めた。
自分が楽になりたいからといって、津川の覚悟を無駄にはできない。
それこそ彼への裏切りだ。
そして、彼を裏切れない、という大義名分のもと、和也は自分の犯した罪から逃げていた。
「俺、まじサイテーだわ」
ぼそりと呟いた声に、真琴が反応した。
「……その悪いことって、社会的に悪いこと?ユーゴ的に悪いこと?」
「……社会的に悪い。ユーゴ的には……どうだろ。俺はユーゴのためと思ってっけど、ユーゴにバレたら絶対怒られる」
「怒られるか〜。……あのさ、私、和也が何したか知らないから、スッゲー無責任なこと言うよ?」
そう前置きした上で、真琴が本当に無責任なことを言った。
「――ユーゴのためなんだったら、いいんじゃない?どうせ和也の判断基準って、それしかないでしょ?今更、倫理とか道徳とか考えたところで無駄だって」
その、竹を割ったような理屈に思わずぽかんと真琴を見上げた。
真琴は、最初、家から出て来たときのような、いたずらを提案する悪友のような表情をしていた。
「――それって、アリ?」
「ってゆーか、今までそうやって来たんじゃないの?」
今までは、和也の行動の方が単純明快だった。それが揺らぐほどのことがあったのだろう。だが、真琴はそれに気がついていながらも和也を
それどころか、背中を押すようなことを言った。
「――そーだけど」
和也は、その真琴の言葉を聞いて、
「――俺、うまく笑えると思う?」
失敗した笑顔でそう聞いた。
「笑えるかどうかじゃなくて、笑うでしょ。ユーゴのためなら」
「――そだな」
そう言って、また真琴の腹に顔をグリグリと押し付けた。
くすぐったい、と声を殺して笑うたびに、真琴の腹が波打つ。
生きている者の証だ。
和也が次に顔を上げた時、その目にもう迷いはなかった。
「マコトちゃんにユーゴのこと諭されるとか、マジ、ありえねー」
今度の笑顔は、成功していた。
いつも通りの憎まれ口に、真琴も、
「はっはっは。修行が足らんよ、君ぃ」
と偉そうに返した。
「ムカつくー。――なぁ、一つ聞いてもいい?これって生チチ?ブラしてないの?」
その瞬間、真琴がバッと縁側の隅まで逃げた。
「マジ、デリカシーない!そーゆーこと、聞く!?」
真っ赤になって、自分自身の体を守るように抱きしめた。
「やー、ずっと気になってて」
「ずっと!?」
その言葉に、ジャッとパーカーのファスナーを上まであげた。暑くないのだろうか。
真琴がじっと顔を見てきた。そして、何かを感じ取ったのだろう。
い〜っと歯をむき出して笑うと、一転、
「もー、知らない!」
プンプン怒って、一人、玄関へと向かった。
和也も他人の家の縁側にずっといるわけにもいかず、真琴の後を追って、玄関へと向かう。
真琴はドアを開ける前に、和也を振り返った。
「……カズヤ、何があったか知らないけど、ゴタゴタが終わったら教えろよ。生チチ代だ」
その乱暴ながらも、和也を心配するセリフに、彼は笑った。
「ふっ。りょーかい」
◇
その後、和也は家に帰ると、いつも通りベットに入った。
ベッドに入ったからといって、眠れない。寝られるわけがない。
悪夢もきっと見るだろう。
罪悪感に苛まれるだろう。
だが、それを罰せられることはない。
罰せられることはないという罰。
誰にもこの苦しみを言うことができないという罰。
それが和也への罰だった。
それを自覚した和也は、もう迷わなかった。
迷わず、一人、この罪を抱えて生きていこう。
そう決意したのだった。
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