3.カーム 2

 その日。クロウニーの溜まり場は、いつになく賑やかだった。

「そこだ、打て!」

「ダメダメ、もっと引き付けろ」

「あ、危ない!足動かせ!逃げろ!」

 そんな声が、店に入る前から聞こえてきた。


 何やってんだ?と不審に思いながら、ドアを開けると、喫茶店の中は机が隅に寄せられ、中央に簡易的なリングが出来上がっていた。


 そして、そのリングの中には、勇吾と優。

 ――優!?


 本当に何やってんだ、とわからなくなった和也が、手近にいたメンバーに訊ねた。

「お〜っす。これ、何事?」

「お、カズヤ。なんか、あのイケメン、強くなりたいらしいぜ。女のために」

「――はぁ???」


 事の始まりは数十分前に遡る。

 クロウニーの溜まり場を、が訪れたところから始まった。

 は、その綺麗な顔を緊張でこわばらせながらも、クロウニーのメンバーの見ている前で堂々と、勇吾にお願いをしたのだった。


「僕に喧嘩のやり方を教えてくれ!」と。


 どうやら優は、ナンパされていた麗を助けに行って、自分が持ち帰られそうになったのがトラウマになったらしい。

 いや、そもそも好きな女の子一人助けられなくて、何が男だ、と。

 どれだけ顔がよくても、大切な人を守れないなら、それは男として、いや人として失格だろうと、それはそれは熱く主張した。


 その主張は、何事か、と聞いていたクロウニーのメンバーの心に刺さった。

 彼らは感動して、こいつを強くしてやろう、と一致団結した。

 なぜなら、彼らは恋話コイバナも好きなら、スポ根も好き。そして何より暇だったからだ。

 そして、あれよあれよと特訓が始まり、今に至っているのだ。



 勇吾がわかりやすいように、大きなモーションで右ストレートを繰り出す。それはいつもの半分以下のスピードだった。


 勇吾が攻撃動作に移った瞬間、周りから野次、もとい指示が飛ぶ。

「ギリギリまで引きつけろ!」

「バックステップ!」

「真っ直ぐ来るぞ」

「軌道をよく見て避けるんだ」

「前へ出てカウンター!」

 それぞれが思ったことを、口々に声に出す。


 優は、中途半端なタイミングで右手の方へ避けた。それがかなり大ぶりの動作だったので、勇吾は途中でパンチの軌道を変えて、優を難なく追撃すると、その顔に当たる寸前でパンチを止めた。


「「「あぁ〜」」」


 一斉にため息が漏れた後、周りの男たちが口々にアドバイスをする。

「今のはストレートだから、絶対もらわないように後ろへ逃げた方が……」

「いや、もっと引きつけて、ヘッドスリップを……」

「ばっか、シロートができるかよ。確実にいなすために手で捌いて……」

「それこそ無理だろ。基本の動きで逃げるんだよ」


 それを静かに聞いていた優が、とうとう音を上げた。

「あのっ、アドバイスくれるのは嬉しいし、教えて欲しいって言ったのは僕なんだけど……、せめて意見を統一してくれないかな!?」


 その言葉を聞いた男たちが、一斉に顔を見合わせた。そして、手っ取り早く強くなるには何がいいか口々に言いだした。

「あー、もー、待って待って!空手も柔道もボクシングもって、そんな一気にマスターできるわけじゃないじゃん!」

 その情報の多さに嫌になった優が、原点へと帰る一言を呟いた。


「……そうだよ!僕、ユーゴに習いに来たんだから!ユーゴが一番得意なやつ、教えてよ!」


「俺か?」

 優の正面で待機していた勇吾が、嬉しそうな顔になった。

 そして、周りの者が微妙な表情になった。

 だが、優はそれに気がつかず、勇吾の説明を聞き漏らすまいと集中した。


「俺は喧嘩が得意だぞ」

 勇吾は、特に何かを専門的に習ったわけではない。今まで我流でやってきたから、得意な事と言われれば、喧嘩と答えるしかなかった。そして、我流ゆえ――、


「喧嘩はな、勢いだ。さっきみたいにビュってきたら、スって避けるか、グワって行くかどっちかになる」

「……うん」


「スって避けたら、相手の横にサッて移動して殴るチャンスが生まれるし、グワって行ったらそのまま腹をどかって殴れる」

「……うんうん」


「他にも、ぐるって避ける方法があって……」


「……ちょーっと待って。ちょっと待って、ユーゴ。もう少し、あの、その……日本語になんないかな!?」


「何言ってんだ。ずっと日本語喋ってるだろ?」

「ぐるっとか、ぐわっとか言われても、わかんないよ!?」

「わかるだろ!?」

 勇吾は、感覚として全てを身につけていた。それを言語化すると、勇吾にはこれが精一杯だった。


 勇吾は、今の説明を実戦で示すべく、近くにいた一人を呼んで対峙した。


「見ておけ。これがまず、スって避けてサッて移動するやつな」

 そう言うと、相手に手加減なしの右ストレートを出すように指示した。

 相手は勇吾の指示通り、手加減なしの右ストレートを出した。勇吾はそれを体を少し沈めて外側に躱し、キュキュッと移動すると、無防備な右側にパンチをお見舞い……する寸前で止めた。


「次がグワって行くやつ」

 また、相手が右ストレートを出す。今度は勇吾も前に出て、相手の懐に入り込むと、そのまま鳩尾みぞおちにフックをプレゼント……はしなかった。


「で、最後がぐるって避ける方法」

 三度目。勇吾は足の位置は動かさず、上半身だけ円を描くように動かしてパンチを躱し、そのまま無防備な相手の顎に向かって拳を突き上げ……ようとしたが、やめた。

 それは、一見すると相手が勇吾にパンチをもらいに移動したように見えた。

「「「おぉ〜」」」

 見ていた周りからも、感嘆の声が上がる。

 それくらい綺麗なフットワークだったからだ。


「わかった。ユーゴが喧嘩が上手なのはわかったからさ。そのスッとかサッとか、それをどうやったらいいか説明してくんない!?」

「見たらわかるだろ」

「見てわかったら、ユーゴのとこ来てないよ!……どなたかっ、お客様の中でどなたか、ユーゴの言葉を翻訳できる方、いらっしゃいませんか〜?」

 いよいよ困った優が、周りに助けを求めたが、誰もその声に答えようとしなかった。


「ユーゴは感覚派だからなぁ」

「あんま考えて動いてないだろ」

「それで強ぇって言うのがすげぇんだけど……」


「「「……で。ユーゴに習うか?」」」

 皆が息ぴったりに優に問いかける。


「無理です……」

 優が膝を折ってがっくりとうなだれた。


 それを囲みながら、周りがボソボソと相談する。

「教えるのがうまいって言ったら、誰だ?」

「ハセとかじゃね?実際、喧嘩も強ぇし」

「いや、あいつも感覚派だ。ユーゴと同じことするぞ」

「じゃ、誰だ?」

「カズヤか?」

「築島か?」

「築島は、今合宿中でいねぇだろ」

「じゃ……」


 自然に皆の注目が、この特訓を遠くから人ごとのように楽しんでいた和也に集まる。

「……俺?」

 和也がジュースを飲むのをやめて、目を丸くした。この茶番に自分が関わる気は全くなかったからだ。


「カズヤっ!日本語喋れる!?喧嘩強くできる!?」

 優が涙目で和也に訊ねた。

「や、まぁ、日本語喋れるし、喧嘩の仕方くらいは教えられるけど……」

 でも、正直、今そんな暇ないんだよな、とは皆の前では言えなかった。

 言ったら、また何を企んでいるんだと突っ込まれるからである。

 梅田がこそこそ動いているうえに、情報蒐集の要の春樹がいない今、余計なことに時間を取られたくない。取られたくないのだが……。


「俺じゃ、ダメなのか……」

 勇吾が落胆のため息を漏らす。

 それに、優や周りが口々にフォローする。

「や、ユーゴが悪いんじゃなくて、僕が悪いんだよ。ユーゴの言ってることがうまくわかんなくって!」

「そうそう。ユーゴの教え方は、もっとレベルが上がってからじゃなきゃ」

「最初はカズヤに任せてだな、もちっと上手くなってからが、お前の出番だ」


「……そうか。それは残念だ」

 勇吾がそれはそれは残念そうな声を出した。そして、和也に、

「俺の代わりに、優に教えてやれるか?」


「――あ〜、も〜、わかったよ。俺が教えるよ。で、スグルちゃんをユーゴと戦えるくらい強くしてやるよ!」

 勇吾に頼まれたら嫌とは言えない和也が折れた。


◇◇◇


 優は、優秀な生徒だった。


 喧嘩慣れしてはいないものの、体には動くだけの筋肉がしっかりついていたし、何より運動神経が良かった。だから、和也がいうことをスルスルと飲み込んでいく。

 和也の教え方も良かったのだろう。「日本語が喋れる」と言った通り、優にわかる言葉で体の動かし方が説明できたからだ。


「スグルちゃんは、タッパあっけど、細ぇーから、フィジカルで勝てねーと思うんだよな。だから、そのリーチ生かして、相手の攻撃範囲外から殴ったり蹴ったりしたほうがいいと思う」

 という和也の分析から、主に打撃技や足技を中心に鍛えることにした。


 特訓は、夕方、日が落ち始めた公園ですることになった。連日、ニュースで熱中症の危険が訴えられている日中の暑さの中、外で何かをするのは、自殺行為に他ならなかったからだ。


 人っ子一人来ない寂れた公園に、和也の声はよく通った。

「はいはい、構えてる時に変に力まない〜。リラックスリラックス〜」

 練習用のグローブをつけた優が、目の前に敵がいると仮定してパンチを繰り出す。その度に、横で見ている和也から、声が飛んできた。

「打つ、打つ、打つ。リズムよくいこうぜ〜」

「足を止めない、脇を締める。疲れ始めた時こそ、意識して」


 暑さのせいもあるのだろうが、始めて五分と経たないうちに、全身が汗だくになる。


 和也の指導は的確で、そして意外とスパルタだった。

 慣れない構えに、腕が疲れて崩れて来ると、すぐに「手、上げて!」と注意される。

 足が止まれば、「はい、今捕まった〜、1キル〜」と殺される。

 そして、和也の指導通りに動かされて、もう限界!となったところで、

「はい、じゃ、ラスト三十秒、ミットにラッシュして」

 そう言って、和也が構えたミットにひたすらジャブを打たされるのだった。

「はいはい、あと10、9、8、7、……ラスト一発、全力で!」

 自棄になった優が、これで最後と全力のストレートを繰り出すと、ばぁん!とミットがいい音を立てた。


「お疲れ〜」

 はぁはぁと、汗を拭く力も残っていない優に、和也がスポーツドリンクを手渡す。

「休むなら、あっちの木陰で休もうぜ。夕方っつっても、マジ暑いし」

「ん……」

 受け取ったドリンクを飲みながら、二人、木陰のベンチへ移動する。


 優はゴクゴクとドリンクを一気に飲むと、ぷはぁと息を吐いた。

「あ〜、生き返る〜」

「オヤジくせ〜」

「しょうがないじゃん。も、この暑さの中動くなんて、バカのすることだよ」

「自分で言ってりゃ、世話ねーな」

 そう言いながら、和也もドリンクを飲む。

 ほとんど動いていない和也でさえ、外にいるだけで伝わるほど汗をかくのだ。きちんと水分を取らなければ本当に倒れてしまう。


 お互いに水分補給をしっかりして、手持ち無沙汰になった和也が、優に聞いた。

「なー、なんであんな女のために頑張んの?」

「あんな女って、ひどくない?仮にも僕の好きな人だよ?」


 ちょっとムッとした優に、和也が謝った。確かに、他人の好きな人を「あんな」呼ばわりするのは失礼だ。たとえ、自分が大嫌いだったとしても。


 優がはにかみながら、大切な思い出がそこにあるかのように空を見上げて言った。


「――あのね、ウララちゃんに初めて会った時に、『お前は顔だけだ』ってはっきり言われたんだよね」


「はぁ!?何様ナニサマ!?」

「あ、違う、そうじゃなくて……」

 慌てて否定したが、確かにその台詞だけを聞いたら、かなり高飛車な女になってしまう。でも、きっと彼女はそんなつもりで言ったのではないのだ。


 これは簡単に説明するのは難しいと思った優は、麗と初めて言葉を交わした時、――初日の授業の自己紹介の時のことを説明し始めた。

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