5.リスタート 3

「先生、そろそろ資格試験受けようと思うんですけど、オススメの本とかありますか?」


 今日はここまで、気をつけて帰れよと言われた瞬間、真琴はきみちゃんに近寄って行って、声をかけた。

「あ〜?資格?何の資格取るんだ?」

「いや、まだそれもちゃんと決めてないから、相談乗って欲しいんですけど」

 そう言った真琴を、きみちゃんはしばし見つめたあと、今から時間あるか?と問うた。

「今から?大丈夫です」

「じゃ、ちょっと教員室行くか」

 そう言って、荷物を持って先導するように歩き出した。その後ろを付いて行く真琴。


 帰りのHRが終わった後、勇吾に声を掛けられるのも、掛けられないのも嫌で、真琴はきみちゃんを口実いいわけに教室から逃げた。

 資格試験なんて、全然調べてもいなかったし、受けようとも思ってもいなかったが、そう言えばきっときみちゃんはあの空間から連れ出してくれると思ったのだ。



 当たり障りのない雑談をしながら、工業科の教員室へと向かう。

 教員室に入り、他に学生がいないのを確認したきみちゃんは、真琴を応接用のソファーに座らせると、声のトーンを落として聞いてきた。


「何かあったのか」

「何もないですよ」


 真琴は、勇吾とのことをいう気にもなれなかったので、そう誤魔化したが、きみちゃんは別の可能性を考えていたようだ。

「本当か?……いじめはどうなった」

 そう問われて、真琴はいじめの相談をしていたことを思い出した。相談というか、落書きされた教科書を、もう一冊発注する際に、事情を説明するしかなかったのだ。

 だが、もしかして、そのときからずっと、気を揉ませていたのだろうか。だとしたら、悪いことをした。

「あ〜、そっちは、よくも悪くも。相変わらず、くだらない嫌がらせはされますけど、別にどうってことないです」

 そう言うと、はぁ、とため息をつかれた。

「そのくだらない嫌がらせが問題なんだがな。……公表する気は無いのか」

「う〜ん。今はまだ。決定的な証拠がないまま、糾弾きゅうだんしたって、言い逃れられるだけですから」

「それはそうなんだが、なぁ……。ホント、何かあったら、すぐ言ってくれよ?」

「わかってます。その時は頼りにしていますから」

 その笑顔が嘘くさいと思われたのだろうか。

「……何もなくても、とりあえず報告しろ。お前は平気平気って言いながら、泥沼にはまりそうだから」

 と釘を刺された。肝に命じます、と言ったら、少しは安心したらしい。コーヒー淹れるけど、お前も飲むか、と問われたので、カフェオレしか飲めません、と言ったら、そんな洒落シャレたものはない、と返された。


 きみちゃんがコーヒーを入れるのを手持ち無沙汰に待っていると、ほかの工業科の先生が次々と戻ってきた。教員室に活気が生まれる。

 ほれ、コーヒー牛乳、と言って、マグカップが差し出される。それは、本当に熱いコーヒーに牛乳を入れただけの飲み物らしく、ぬるかった。

 おしゃれとは程遠いそれは、ほんのりした温かさと甘さで、硬くなっていた真琴の心に染み込んでいくようだった。

 真琴がお礼を言いながらゆっくり飲んでいると、きみちゃんが小声で爆弾を落としてきた。


「いじめじゃないなら……とうとう、輪姦まわされたか」

 ぶはっ!


「きったね!おま、ティッシュ、ティッシュ!」

 投げてよこされたティッシュで、思わず吹き出したコーヒー牛乳を始末する。

「びっくりした〜。……図星?」

「違います」

 汚れた口元を拭いている真琴に、いっそ無神経にきみちゃんが訊いてきた。

「じゃ、犯さヤられたのか?」

「違います。そんなこともされていません」

「じゃ、振られた?」

「マジ、何なんですか、先生!」

 デリカシーのない質問ばかりしてくるきみちゃんに、真琴が半ばキレ気味に返事をする。だが、きみちゃんは、セクハラでも嫌がらせでもなく、本当に真琴の身を心配しているだけのようだった。

「今日、クラスの様子……でもないか。何人か様子がおかしかっただろ。それと、なんか関係があるんじゃないのか?笹原も別に、本当に資格試験を受けたいわけじゃないだろ?」

 図星を指されて、真琴は返答に困った。くそ、きみちゃんのくせによく見ている、と思う。

「……別に、先生に面倒をかけるようなことにはなりませんよ」

「お前、そう言うところだぞ」

 ぶすっと不貞腐ふてくされた真琴の言葉に、意外なほど真面目にきみちゃんが返してきた。

「あのな〜、先生なんて仕事は、頼られてナンボなの。もっと頼ってくれよ」

「……でも、余計な仕事でしょ?」

「馬鹿。それが俺のお仕事のメインだっつーの。学生の健やかな成長を助けるって。わかるか?」

 わからなかったので、ふるふると首を振ることで答えに代える。

「健やかな成長って、つまりは生きやすいってことだな。例えば、笹原。お前は独立心があるって言えば聞こえはいいが、誰かに頼ろうって思ってないだろ」

「そんなこと、ないですよ……?」

 と言ったが、じとっと睨まれて、言葉尻がだんだん消えてしまった。


 いじめのことも、勇吾とのことも、確かに一人で抱えてしまっている今、否定しても信憑性がないことは、自分でもわかっている。けれども。

「確かに、抱え込んでるかもしれませんけど……。でも、それは自分で何とかできるからで」

「うん。一人で何とかしようとすることは、悪いことじゃない。何でもかんでも他人をあてにするよりいいことだ」

 急に褒められて、真琴は戸惑った。その揺れた心の隙間に、きみちゃんは切り込んできた。


「でもな、それ、本当に一人でしなきゃいけないことか?」


 思ってもいなかったことを訊かれて、真琴はフリーズする。

 だって、一人でできることなら、一人でするのが当たり前じゃないのか。


「たとえば、十の仕事があったとする。それは誰でもできる簡単な仕事だ。だから、一人で十、全部することもできる。でも、二人ですれば、半分の時間で終わるんだ。じゃ、余った時間は、別の新しいことをするのに使えるだろ」

「でも、それは、手伝ってくれた人の時間を奪ってるからで、結局、仕事量は変わらないじゃないですか」

 方程式が1×10になるか、2×5になるかだけで、結局結果はどちらも10だ。そんなこと、わからない先生ではないはずなのに。

「……手伝ってくれる奴が、お前と無関係ならな。でも、そいつが、お前の仕事が終わるのを待っている奴だったらどうだ?」

 あっ、と思う。

「そいつにとっては、逆に、お前が一人で仕事をしている時間の方が無駄なんだよ。それよりも、二人でさっさとやっちまって、遊びたいと思っている。こう言う場合、手伝わせない方が時間を奪ってることにならないか?」

「それは、前提が違います」

「そうだよ。んだよ。その前提っていうのは、人の数ほどある。お前は、それを考えたことがあるか?」

 うつむいて黙り込んだ真琴を見て、それを返事と受け取ったのだろう。

「あのな、お前は手伝わせることに抵抗があるみたいだがな、手伝ってもいい、むしろ、お前のために手伝いたいって奴はいる」

「そんな人……」

 続ける言葉は、飲み込まれた。その続きがどうしても、言えなかった。だが、その真琴の不安を吹き飛ばすかのように、きみちゃんが力強く言い切った。

「いる。例えば、俺だ」

「……それは、先生だからでしょ」

「それもある。けどな、先に俺を助けてくれたのは、お前だろ?」

 心当たりのないことを言われて、驚いて顔を上げると、こちらを見ているきみちゃんと視線が合った。

「お前は、俺の夏休みのために、勉強会を開いてくれたじゃないか」

「それは、内申点のためで……」

「報酬のためでもいいんだ。実際お前は、よく頑張ってくれたから」

 真正面から感謝されて、真琴はどうしていいかわからず、また顔を伏せてしまった。そこに、子供をあやすように、きみちゃんの暖かい声が降ってくる。

「クラスの奴らだってな。皆がみんな、お前に感謝しているとは俺は言えない。お前が教えるのを、当然と受け取った奴だっているだろう。でも、お前の頑張りを認めて、助かったって思ってる奴は、きっといる」

 その言葉が素直に受け取れなくて、いますかね、なんてひねくれた物言いをしてしまう。

「いるさ。お前だって、もうわかってるだろ?」

 わかっている。さっき、きみちゃんの話を聞いた時に、何人かの顔が浮かんだ。

「俺とか、そいつらは、お前に手伝ってもらってばかりだ。だから、お前を手伝いたいと言ってるのに、お前はそれを拒絶する。そしたら、もらってばかりの俺たちは、どうしたらいい?」

「……もらうことは、良いことじゃないですか。遠慮しないで、もらいっぱなしでいいんじゃないですか」

「そんな寂しいこと言うなよ」

「寂しい、ですか?」

「寂しいだろ。あのな、一方的に与えるだけ、与えられるだけの関係は、健全とは言えないぜ。普通の奴なら、もらったら、返したくなるんだ。だって、もらって嬉しかったから。だから、お前にも、その気持ちを味わって欲しいと思って、返したいのに、お前はいらないと言う。それって、すごく寂しいと思わないか」

 そう言われたら、頼らない自分は、人でなしか何かのようではないか。


 でも、真琴はどうやって頼ればいいのかわからない。中学では、周りに敵が多くて、弱みを見せたらすぐに足元をすくわれたからだ。

 それを知らないだろうきみちゃんは、それでも真琴の負担にならないように言葉を選んでいるようだった。

「それに、社会に出たら、どうしても頼ったり頼られたりするんだ。だから、お前みたいに人に頼ることを知らない奴は、今のうちに俺で練習しとけ」

 これも、お前が学生のうちにやっとく勉強の一つだ、と言われたら、勉強のうちならやってもいいかな、と思ってしまう。


「……ちょっと、考えてもいいですか」

「おう。人の話を鵜呑うのみにしないで、自分で考えるのはいいことだ。これはあくまで俺の考え方だから、納得できないって言うなら、それも尊重する」

 残念だけどな、と小声で付け足して、きみちゃんが言った。

「いや、納得してないわけじゃないです。でも、急に情報がいっぱい入ってきたから、ちょっと落ち着いて考えたいです。その、先生に……どう頼るか、とか」

「……そっか。じゃ、ゆっくり考えてくれ」

 頼りにしています、が頼りにします、に変わったことを感じて、きみちゃんが安心したように笑った。



 帰り間際、真琴が感心したように呟いた。

「……先生って、先生だったんですね」

「何言ってんだ。俺ほど教育熱心ないい先生はいないだろ」

「そうですね。知ってたんですけど、今日、もっと見直しました」

 さらりと褒められて、逆にきみちゃんの方がたじろいてしまった。

「お、おう。……なんだ、俺に惚れるなよ」

「あ、それはないです」

 軽口に、きっぱり返事して、真琴は立ち上がった。

「私、そろそろ帰りますね」

 そう言った顔は、ここに来る前よりかは幾分いくぶん明るくなっていた。気持ちも、少しは落ち着いたようだ。

 真琴は、ありがとうございました、失礼しますと、きちんと挨拶をして教員室から出て行く。


 あの子は強い。だから、もろいと言うのを、きみちゃんはよく知っていた。他の者より、耐久値は高くとも、傷はつくのだ。それを、本人が一番わかっていないように思う。それがあやういと、教師の勘が告げる。

 真琴の後ろ姿を見守ったきみちゃんは、もう少し、注意深く様子を見守らなければ、と思い、周りの教師に根回しを開始した。

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