5.リスタート 2

「――マコト」

「うわっ!?」


 ドアを出たところで声をかけられて、真琴はで驚いた。


 声の出所を見ると、廊下の隅に、黒くてでかいのユーゴがぬぼっと立っていた。


 一人でいる姿を見て、珍しいと思う。そう思うほど、勇吾の周りはいつも誰かしらがいる。なのに、今、トイレの前で誰かを待つように、一人で立っていた。

 連れションに来て、ツレの誰かが出て来るのを待っているのかと思ったが、そうではなさそうだ。

 何かを言いたそうに、こちらを伺うので、何?と聞いてやった。自分でも、その声がかなり冷たい自覚はあった。


 怒っている、と言うのもあるが、昨日、あれだけ人間扱いされなかった相手に対して、冷静でいられる自信はない。だから、今は勇吾の顔も見たくはなかった。それが声に出てしまったのだろう。


 勇吾は、真琴の声の冷たさに、一瞬躊躇したが、それでも口を開いた。

「マコト、すまなかった」


「――何が?が私に、何かした?」


 冷静に話そうとするが、どうしても攻撃的な口調になってしまう。それでも勇吾は気分を害した様子もなく、むしろ、真琴の機嫌を伺うかのような口調でぼつぼつと続けた。

「……怪我を、させた」

「それは、他校の人でしょう?別にに蹴られたわけじゃないから、気にしなくていいよ」

 勇吾からの視線を痛いくらいに感じるが、真琴は彼と視線を合わせようとしなかった。


 いつも見上げていた顔を動かさなければ、彼と私の視線が合うことはないのだ。そんな簡単なことで、二人は対等でなくなる。いや、そもそも対等だと思っていたのは私だけで、二人の関係とは、この身長差と同じだったのかもしれない。そう思って、真琴は自嘲じちょうの笑みを漏らした。


「……裸を、見ようとした」

「別にいいよ、裸ぐらい。なんならここで脱いでやろっか?」

 自棄やけになっている自覚はあったが、口は止まらなかった。こんなことを言えば、勇吾が困ることはわかっていたのに、煽るような言葉が口をついて出て来る。


「いい。……そうじゃないんだ。何か、怒ってるだろ」

「怒ってる」

「だから、それを謝りたい」

「何に怒ってるかもわからないのに?」


 ふざけるな、と思う。

 そんなことをされては、真琴がただ、拗ねて駄々を捏ねているだけになるではないか。


 だが、この怒りは、真琴の尊厳に関わるものだ。


 真琴は、勇吾が自分のことを女だと言うたびに、レッテルが貼られ、それでがんじがらめにされるような気になる。


 役立たずだから、喧嘩をしなくてもいい。無能だから、守られていろ。無知だから、愚鈍だから、脆弱だから――!


 勇吾はきっと、そんなつもりはないと言うのだろう。しかし、そうやって「女だから」と言う理由で扱いを変えるということは、真琴を一人の人間まこととしてではなくものとしてしか認識していないと言うことの証左あかしである、と真琴は思う。


 だから、彼女はできないとわかっていて言った。


「じゃぁさ、許すから、私のこと、殴って?」


 もし、これで、ほんの少しでも人間扱いしてなぐってくれるなら、その時は。


 にっこり笑って、軽く両手を広げて、勇吾に全身を晒す。顔でも、体でも、どこでも殴れるように。


「……はぁ?」


 困惑したような勇吾の声を聞いて、ここまで驚かせられたのは初めてだな、と思った。そもそも勇吾は、感情の起伏がわかりづらい。


 困っている勇吾にちょっと気が良くなった真琴は、歌うように続けた。


「わがまま言って、ねて、駄々こねている悪い子にはお仕置きしなきゃ、ね?殴ってくれたら、許す」


 目を閉じて、いつでもどうぞ、と体を差し出す真琴に、根負けしたのか、勇吾が動いた。


 衣擦れの音がして、真琴の頬に、ぺちっと勇吾の大きな手の感触がした。

 それは、殴るでもなく、叩くでもなく、ただそっと頬に手が添えられただけだった。

 壊れやすいものを慎重に手にするような優しさで、そっと触れられた。


「……ユーゴ」


 真琴が、閉じていた目を開けて、今日、初めて勇吾をしっかり見た。

 勇吾は、しゅんとした不安そうな目で真琴を見ていた。その瞳は、自分の行動は、これであっていたのだろうか、これで許してもらえるのだろうかと問いかけていた。


 真琴は、頬に添えられた勇吾の手に、そっと自分の手を重ねて言った。

「……全然、力、入ってないじゃん」

 しょうがないなぁ、と、母親が子供を甘やかすような微笑みを浮かべる。

 いっそ優しいとも言える、穏やかな真琴の様子に、勇吾は安心したように力を抜いた。


 許されたと思ったのだろうか。

「私ね、ユーゴのそういうとこ……、」


 ――誰が許すものか。ここまで相手にされなくばかにされて!

「……大っ嫌い!」


 がりっと手の甲に爪を立てたら、弾かれたように勇吾の手が引っ込められた。

 その隙をついて、真琴は身をひるがえした。


 卑怯とわかっていても、先ほど出てきた女子トイレの中へと駆け込む。

 駆け込んだ勢いのまま、個室に入ると、鍵を閉め、勢いよく水を流した。

 外の情報なんか、耳に入れたくない。勇吾が自分を呼ぶ声も、諦めて帰る足音も聞きたくないと思って、ただひたすら水音に集中した。


 いつの間にか、水音に嗚咽おえつが混じっていた。

 真琴は、それがどこにも漏れないように、必死に噛み殺した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る