2.ニュー・グランド 2

 女子用のツナギが、グラウンド隅の水飲み場の横で、泥にまみれていた。

 もともと、濃い灰色だったツナギは、泥水を吸って、黒く変色していた。


 教科書に続いて、ツナギである。

 梅雨の最中にしては、珍しく晴れた日だった。だから、真琴は朝から気分が良かった。


 それなのに、である。


 真琴は、泣きそうになるのをこらえて、体操服姿のまま、ツナギを洗っていた。



 先ほどまで、女子は体育館でバレーボールをしていた。

 その最中、が更衣室からツナギを持ち出し、汚したのだろう。

 いや、ではない。授業の途中から、真琴の方をチラチラと見、嫌な笑いを浮かべていた数人がいた。証拠はないため、問い詰められないが、きっとあいつらだろう。


 女子のいじめは、加速度的に、だが、影に隠れる形で進んで行った。

 真琴は表面的には「平和な日常」を過ごしていたが、地味な嫌がらせにより、精神的にかなりのダメージを受けていた。


 そんな真琴の気持ちを知ってか知らずか、今日の空は気持ちいいくらいに晴れ渡っている。


 その空を見て、はぁ、とため息を一つこぼすと、ツナギを絞った。だが、女の細腕ほそうでで絞ったところで、水が切れるわけがない。


 午後の実習までに乾くかな……、と思案しあんしていると、向こうから勇吾が男たちを従えて歩いてくるのが見えた。

 その堂々とした様子を見て、勇吾がなぜ慕われているのか、少しわかったような気がした。それくらい、勇吾は自然なまでに彼らの「トップ」だった。


 夏休み前のこの時期、男子の体育は水泳になる。

 真夏もかくやと言う日差しを浴びながら、水とたわむれた男達は、幾分いくぶん暑さがやわらいだ様子で、だらだらと食堂へ向かっていた。


 水に濡れた髪のせいか、いつもと雰囲気が違った。それで、なんとなく声をかけづらくて見ていると、


「お〜い、マコトちゃん。何してんの?」


 和也が気安い調子で声をかけてきた。

 真琴はツナギを持ったまま、少し躊躇したが、彼らに助力をうことにした。


「男子、早く終わったん?」

「プールだったからさ。着替えのためにって」

「あ〜、プールか。うらやまし〜。――あのさ、この中で、一番握力あるのって、誰?」


 唐突な質問に、きょとんと顔を見合わせる男達。和也がどったの?と聞くと、真琴はその手に持っていた物がみんなに見えるように差し出した。


ツナギこれ、ちょっと汚しちゃって。洗ったんだけどさ〜、午後から実習でしょ?よく絞って干したら、乾かないかな〜と思って」


 そう言った真琴の手には、彼らの感覚では絞ったとは言えない、ずぶ濡れのツナギがあった。


「……なんで、汚れたんだ」

「え〜?ちょっとドジっちゃって」


 いぶかしげに訊ねた勇吾に、いつも通りの表情を浮かべて真琴が答える。その眼鏡の奥の瞳から、それ以上の情報を読み取られないように、慎重に表情を作った。


 勇吾は真琴を探るように見たが、変化がないことを悟ると、諦めたようにため息を一つ吐いた。そして、乾けばいいんだな?と真琴に確認して、彼女のツナギを受け取った。


 勇吾は受け取ったツナギの肩のところを持って広げると、それを上下に振った。


 ――ぱぁん!


 およそ、服から出たとは思えない音が響く。周りがその音に驚いている間に、勇吾はツナギの腰を持ち、再度、ぱぁん!と音をさせた。


「ほら。これで乾くだろ」


 そう言って、真琴に投げられたツナギからは、ほとんど水分が無くなっていた。


「え!?何?今、何やったの?」


 真琴だけでなく、周囲の男達も驚く中、勇吾だけけろっとした顔で、


「何って、水を切ったんだ」


 と答えた。そのシンプルな答えに、男達からうぇぇ?と悲鳴が上がる。

 真琴のツナギを触って、ほぼ乾いているのを確認しては、お前できる?いや、やったことないからわからん、と言い合っていた。


 真琴も、その空気に飲まれてしまい、なぜかオロオロと、柿崎くん、できる?と、近くに立っていた和也に訊ねた。


「いや、やったことない……」

「や、やってみる……?」


 呆然と頷く和也を見て、真琴は混乱したままツナギの上半身を濡らし、和也に渡した。


「はい」

「え、どうやんの?」


 周りが見守る中、勇吾が和也にアドバイスをする。


「洗濯物を干す前に、ぱんってするだろ。あれを素早くする感じだ」

「え〜、俺、洗濯物干さねーし」


 と言いながら、何度かチャレンジしたが、やっぱり無理だった。

 その後、長谷川、築島、津村……と力自慢が挑戦したが、うまくいかなかった。真琴もダメ元でやってみたが、もちろんうまくいくわけがなかった。


 和也が、悔しそうに訊ねる。


「なんかコツ、あんの?」

「コツ……?コツ……。こう、早く乾けばいいなと思いながら振る」


「はいっ、解散、解さーん」


 なんのアドバイスにもなっていない勇吾の答えに、和也はこの技を身に付けることを諦めた。和也と気持ちを同じくした男達が、すでに興味をなくした表情でぞろぞろと食堂へ向かう。


「ちょ、私のツナギ、濡れたままにしないでよ!」


 真琴がその背中に慌てて声をかけたが、彼らではどうすることもできないのだ。


 捨て犬のような気持ちで勇吾を見上げると、彼はしょうがない、と言った表情で真琴からツナギを受け取った。

 ぱあん!と乾いた音が、青空に吸い込まれていった。今日のこんな天気を、洗濯日和と言うのだろう。


 単純なことに、いつの間にか、真琴の心も晴れていた。

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