3.コンタクト 1

 市ヶ谷勇吾は目立つ。

 まず、目立つのはその体躯からだだ。長身と、がっしりした体格。その体に付くのは、飾りではない、実用的な筋肉だ。そして、柔らかい黒髪が、意志の強そうな瞳と男らしい顔立ちを包んでいる。


 入学して3ヶ月程度しか経っていないのに、彼の武勇伝はすでに両手どころか両足を使っても、数え切れないほどある。


 勇吾が恐れられている理由の一つに、喧嘩をする相手を選ばない、というのがある。

 勇吾は、同級生、上級生にかかわらず、売られた喧嘩は当然買うし、気に入らない奴を見つければ自分から売りに行く。そして、その喧嘩のどれも、引き分けこそあれ、負けてはいないのだそうだ。

 これは、クロウニーのメンバー曰く、驚異の勝率らしい。


 そんな強面で、武闘派で、ゴリゴリの不良である勇吾が、今、教科書を前に頭を抱えていた。その抱えられた頭からは、ちょんまげのようにひと束、わえられた髪の毛が揺れていた。前髪が邪魔で、和也に結わえてもらったのだ。


「うぅ、頭が沸騰しそうだ……」


 シャーペンを握りつぶさんばかりに握りしめながら、勇吾はそんなことを呟いた。

 ぴこぴこと揺れる髪の毛のかわいらしさとは対照的に、その顔は真剣を通り越して鬼気迫るものがあった。

 そして、そんな勇吾の周りに、同じく鬼気迫る顔をした男達が教科書とにらめっこしていた。彼らの口からも、うめき声が漏れており、一種異様な熱気で放課後の教室は満たされていた。


「頭は沸騰しません。アホなこと言ってないで、さっさとこれ、英訳する」


 そんな勇吾の気迫を物ともせず、真琴はノートを指差した。

 今、真琴は赤点候補者クロウニーのメンバーとともに、放課後の教室で勉強していた。しかし、それは遅々として進んでいなかった。


「この暑さじゃなぁ」


 勇吾の隣で、和也がノートをうちわ代わりにして呟いた。


 梅雨の中休みで、久しぶりに晴れたのはいいが、開けた窓から入って来るのは生ぬるい風ばかりで、彼らの集中力とやる気はガリガリと削られていた。

 これから、夏に向けてどんどん気温が上がって行くだろう。今、こんな調子では、効率は下がる一方だ。どっか場所移す?と真琴と和也が相談していると、そこに、


「お前達、頑張ってるか〜?」


 一人、上機嫌で入って来たのは、我らが担任、きみちゃんだった。

 うぇ〜い、は〜いと、やる気のない声がそこここで上がる。それを見て、


「なんだ、なんだ、お前達。だらしないな〜」


 と呆れた声を出す。


「センセー、エアコンつけてよ」

「ダメだ。放課後はつけられない決まりだ」


 ダメ元で頼んだものの、すげなく断られる。げぇ〜と、不満とも絶望とも取れるうめき声が教室に充満した。


 暑さに強い真琴はまだ平気だったが、筋肉ダルマ達は真琴より体感温度が高いらしい。勇吾ではないが、どの顔もだりそうな様子だった。

 真琴が、どこかに移動することも真剣に検討しなきゃな、と思った時、きみちゃんが懐から封筒を取り出し、皆に見えるように高く掲げた。


「まぁ、今日は夏日らしいからな。これでジュースでも買って、頑張れ」


 それを聞いた瞬間、喜びの雄叫びが上がる。ジュース一つでこのテンション。安い奴らだと思いながら、きみちゃんは大人の鷹揚さで、彼らの喜びを受け止めた。


「笹原、よろしく頼むな」

「任せてください」


 そう言いながら、真琴に封筒を手渡す。


 一見、何気ない遣り取りに見えたが、彼ら二人の間では、


「笹原、(この馬鹿どもに赤点回避させて、俺が夏休みラブラブできるように)よろしく頼むな」

「任せてください。(その代わり、内申よろしく)」


 という、ハイコンテクストなり取りが行われていた。


 釣りは返せよ、と、ケチ臭いことを言いながら職員室に戻って行くきみちゃんを放って、真琴はジュースの希望を聞いた。コーラ、コーヒー、スポーツドリンクと口々に出される注文をメモして、真琴は立ち上がった。


「じゃー、ちょっと買って来るわ。一人で持つの大変だから、誰か手伝ってくれる?」

「俺が行こう」


 これ以上、英文とにらめっこしていたくないのか、勇吾が率先して立ち上がる。

 それを合図に、教室は一気に弛緩しかんした空気が流れ、勉強会は小休止となった。


◇◇◇


 放課後の校舎は、人が少なく、静かだった。窓の外から、運動部の掛け声が聞こえてくるが、それがひどく遠い世界からの声のように聞こえる。

 真琴は、勇吾と並んで歩いた。二人の間に、言葉はなかったが、それが居心地の悪いものではなく、そのことに真琴は驚いていた。


 少し気詰まりな、くすぐったいような沈黙が流れた後、真琴が口を開いた。


「……市ヶ谷くんさぁ、」

「ユーゴでいい」

「え、でも、」

「ユーゴでいい。上の名前で呼ばれるのは好きじゃないんだ」

「『上の名で呼ぶな下で呼べ。あたしを苗字で呼ぶのは敵だけだ』?」

「……なんだ、それ」

「赤い請負人のセリフなんだけど、知らなかったらいいや。……じゃぁ、勇吾……くん?」

「ユーゴ」

「……ユーゴ?」


 執拗な訂正に根負けした真琴が呼び捨てにすると、勇吾は満足そうに答えた。


「なんだ」

「頭のさ、取らないの?」


 それ、と指差した先には、結わえられた前髪が揺れていた。


「……取ると、結べない」

「……後で私が結び直してあげるから、取ったら?」


 クロウニーのリーダーということを差し引いても、いい年をした男が前髪をぴょこんと立たせて校舎をり歩くのを見るのは気が引けた。そう思った真琴が指摘すると、「あぁ。じゃ、頼む」と、当然のように頭を下げてきた。


 え、私が取るの?と思ったが、あまりに自然に頭を差し出すので、真琴は促されるまま勇吾の頭のゴムを取ってやった。ついでに、癖のついた前髪を手で綺麗に整えてやる。


「はい、取れたよ」

「ん」


 取ったゴムを渡しても、勇吾は動かずに真琴を見ていた。その視線に心当たりのない真琴は、何だか居心地の悪さを感じた。だが、視線を逸らすと負けのような気がして、問いかけるような視線を返した。

 男子に見つめられるなんて経験、今までなかったので、内心ばくばくだったが、ポーカーフェイスはできていたように思う。


 一分くらい見つめ合ったように感じたが、実際は十秒にも満たなかっただろう。勇吾は、おもむろに口を開いた。


「……お前は、俺のことを怖がらないんだな」

「――へ?怖がる?何で?」


 予想だにしなかった質問に、真琴は眼鏡の奥の瞳を丸くした。


「噂とか、聞いていないのか」


 正直、勇吾に関する噂は多すぎて、どれのことを指しているのかわからなかった。しかも、中には突拍子も無いものも混じっているので、真琴は噂を聞いても、そのほとんどを聞き流していた。


「う〜ん。よくわかんない」

「そうか」


 勇吾はそう言うと、再び歩き出した。



 再び、二人の間に沈黙が落ちる。


 勇吾は考え事をしていたせいで、その沈黙に気づくのが遅れた。

 ただでさえ、女子供に怯えられやすい人相をしている、という自覚はある。それなのに、考え事をしていたとは言え、むっつりと黙り込んで歩いてしまった。だから、真琴も怖がっているのではないかと、慌てて様子を伺うと、全く平気そうだった。

 それどころか、急に慌てだした勇吾を見て、どうしたの?と問いかけるような視線さえ送ってきた。


 その瞳に促されて、勇吾は中途半端に考えていたことを口に出した。


「……女は、俺を見ると怖がるか、利用しようとするかのどっちかだったから」


「あ〜……、」

 真琴は、勇吾の言葉を聞いて、一瞬言いにくそうに言い淀んだが、結局、ズバリ言うことにしたらしい。


「そうかもね」


 という返事に、勇吾は思った以上のダメージを食らった。一定のリズムだった足音が、少し乱れる。


 それを見て、微笑んだ真琴は、笑みを含んだ声で続けた。


「だって、市……、っと、……ユーゴって、おっきいじゃん。ほら、私と腕の太さも全然違うでしょ?」


 真琴がツナギの袖を捲り上げ、腕を出すと、勇吾はぎょっとした。


「……お前、これは細すぎないか」

「女子はこんなもんですぅ〜」


 比べて見ると、勇吾の腕は真琴の倍以上の太さだった。そう思って真琴を観察すると、彼女の体はオーバーサイズのつなぎに隠れてはいるが、どこも細くて、力がなさそうだった。


「誰かに襲われたら、どうするんだ」

「フツーに生活してたら、襲われないからね?」


 「普通の生活」の定義が違うのだろう。勇吾は俺も普通に生活しているけど、いろんな奴が喧嘩ふっかけてくるぞ、と不満そうにこぼしたが、相手にされなかった。


「女子は警戒してるんだよ。変な奴に襲われないように。君子、危うきに近寄らずって言うじゃん。だから、強かったり、危なそうだったりする奴を怖がる。逆に、向こうから近寄ってくるのは、襲われてもいいって思ってるんじゃない?」


 真琴の最後のセリフの危うさに、勇吾はどきっとする。だが、彼女は気がついていないようで、言葉を続けた。


「勇吾を利用しようとしている人は、そう言うリスクも込みで、近寄ってくるんでしょ?」

「そうなのか?」

「いや、私は本人じゃないから、知らんけど」


 真琴は持論を展開したにも関わらず、最後の最後であっさりとそれを捨てた。それに、拍子抜けする勇吾。


 何となく、意地悪を言いたい気分になった勇吾は、答えにくいだろうことを真琴に訊いた。


「お前は、俺を怖がらないなら、俺を利用しようとしているのか?」


 勇吾の試すような声色に気がついたのだろう。真琴はニヤリと笑って、


「利用?する、する」

 と即答した。


 その答えに、勇吾はなぜかがっかりしたが、それを表には出さずに、質問を重ねた。


「何に?」

「う〜ん。とりあえずは、荷物持ちかな?」


 そう言って、真琴は笑った。


「ほら、見て。この腕。細いっしょ?これじゃー、ジュースは持てんわ〜」


 箸より重いものを持ったこともないわ〜、と言うので、お前、掃除の時、一人で机運んでただろ、と突っ込むと、うちの箸、一本三キロあるからね、としれっとかわされた。


 勇吾がふっと笑うと、真琴もふふっと笑い返した。


「……まぁ〜、利用って言葉は悪いけどさ。頼りにはしてる」


 と、半分冗談のような、半分本気をにじませて、真琴が言った。


「だからさ。ユーゴも、私を頼っていいよ?つっても、今は勉強ぐらいしか、教えらんないけど」


 そう言われて、勇吾は、ああ、そうだったな、と気がついた。そもそも、真琴は自分の成績を見かねて声をかけてくれたのだった。そう考えると、さっきの自分の発言はすごくおごったものだった、と反省する。


「あぁ、頼りにしてる。俺を二年にしてくれ」


 そう勇吾が言うと、真琴は嬉しそうに「任せろ」と、親指を立てたのだった。

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